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2020. 07. 08  
先の主日はローマ2:1-3を分かち合いました。説教録画はこちらです。2020年7月5日湘南恩寵教会主日礼拝 ローマ2:1-3「他者を裁いている場合じゃない」

「すべて人を裁く人よ、弁解の余地はない」と始まる御言葉です。

「人を裁く」とはどういうことでしょう?「裁く=ふるい分ける、取り仕切る」です。あの人は善い、この人は悪いと、裁判官になったかのようにジャッジを下すということです。

そういう風に人を裁いてはいけないということは、イエス様も教えてくれていることです。(マタイ7:1-6など)

分かりやすい教えです。でもそれだけに、難しいことです。だって、悪いことをしている人を見れば、やはり悪いと思ってしまうし、時には、神の示されるところの正義のために戦わねばならない局面もあるでしょう。

ですから、「人を裁いてはダメなんだ、ダメなんだ・・」と、教えを破らないことばかりにとらわれないほうがいいと思います。

それよりも大切なことは、自分はどうなのかということを、ちゃんと見つめるということです。

「人を裁いてはならない」という教えの本質は、神の裁きの前に置かれた自分自身をしっかり見つめよ、ということです。

たとえ正義のために戦わねばならないという局面にぶつかっても、でもその私が振りかざす正義は「間違い得る」ということを、どんな時も見失わないものでありたいと思います。

不完全な自分を棚に上げて、まるで神になりかわったかのようにふるまってはいけない。そういう教えだと思います。

神学生時代、校長先生が教えてくれました。「私たちは、改革派教会の考えが地上ではベストだと信じているから改革派にいるけど、天国に行ったら神様から、『君たち、全然間違ってたよ』と叱られるかもしれないよ。でも、天国には入れてもらえると思うけどね。ハハハ」と笑いながら、大きな視野を与えてくださいました。

砕かれた人は、大きい人だなと思います。神様をいつも見上げていたいですね。


共に祈りましょう。

主よ、九州地方の大きな水害に心痛めています。十字架の主イエスが、悲しみにくれるお一人お一人と共にいてくださることを、悟りました。主よ、罪の悲惨に悩む私たちの時代を、どうか憐れんでください。ウィルスの脅威も止まず、みんなの心がギスギスとささくれ立ってしまいますが、その中で、いつも自分自身を静かに見つめ、あなたの御前にあることを覚えていたいと願います。あなたの大きな御心を、私の心にさせてください。
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2020. 07. 08  
2020. 07. 02  
昨晩の祈祷会で語り合いましたが、先主日の最後の御言葉が印象的でした。

「彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけでなく、他人の同じ行為をも是認しています。(ローマ1:32)」

特に、最後のところ「他人の同じ行為をも是認しています」というところ。

「是認する」とは、「受け入れ、よしとする」ということです。つまり、生活の中で見いだされる他人の罪や悪を大目に見て、受け入れるということ。

これは、私たちのしばしばしていることでしょう。特に現代は、できるだけことなかれで、他人の罪や悪を目にしても、それを指摘するのも憚られることしばしばです。

あるいは、相手の弱さに同情し、「それは仕方ないね」と受け入れてあげたい。それが愛ではないかと、考える人もいると思う。

確かにそういう面はあるのです。赦しと愛によって受け入れられることから、悔い改めが始まるということがある。

でも、「罪は罪である」としっかり認識し、相手の間違いを正しく指摘できる備えがなければ、それは愛ではなく、甘えと馴れ合いになってしまいます。

もちろん、私たちには、誰かを間違っていると正しくジャッジメントする能力などありません。

自分こそが正しいとしてしまうと、ただちにおかしなことになってしまう。それが次主日の御言葉の問題でもあります。

そういう悩ましさを覚えつつも、「あなたのその言動は間違っていると思う」と、まっすぐに相手に向き合うコミュニケーションに示される、深い深い愛情ということを、考えさせられた夜でした。


共に祈りましょう。

主よ、今日もあなたが与えてくださる人間関係の中で、あなたからいただいた愛をもって、人と関わり生きていく私たちです。時に互いに厳しく裁きあって、傷つけあってしまう。時に互いに甘やかしすぎて、互いの過ちを見ないふりをして、一緒に堕落の道を進んでしまう。主よ、まことに愚かな私たちです。真実の愛を教えてください。
2020. 07. 01  
先の主日はローマ1:28-32を分かち合いました。説教録画はこちらです。https://youtu.be/DgopGYDUljI

28節「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。」

神様が「してはならない」と言っておられることは、しないほうがいいのです。

あらゆる不義、悪、むさぼり、いじわる、ねたみ、人殺し、あざむき、陰口、誹謗中傷・・・

そういう罪を重ねることで、人は傷ついていきます。自分もおかしくなります。世界が壊れ始めます。そして、神様が悲しまれます。

だから、「してはならない」と定められているのです。

それなのに、その「してはならない」ことをしてしまう。しないではいられない。むしろ、したくなる・・・。

その背景には、強いストレスや劣等感があるのかもしれません。そうして自分の「悪」を発散することで、心のバランスを取る。でも残念ながら、やればやるほど余計にむなしくなっていく・・。

これは、もう自分ではどうにもできないのです。自分では止められません。

神様に止めていただくしかありません。自分では絶対に止められないと思っていることも、神にはできます。

主イエスは、十字架の傷のついたままの大きな腕を広げてくださって、この欲望の暴走を食い止めてくださるのです。


共に祈りましょう。

主よ、願います。私にはどうにも抗えない、私の中の罪と悪を止めてください。きよめてください。あなたが赦してくださった、その赦しの光によって、このギスギスとした存在全体を癒し、やわらいだものにしてください。主よ、今、どうしても繰り返してしまう罪に悩む、すべての人々を憐れみ、止めてください。赦して、きよめてください。また、この世界の構造的な悪を、どうか大いなる御腕によって、止めてください。作り変えてください。
2020. 06. 30  
先の主日はローマ1:28-32を分かち合いました。説教録画はこちらです。湘南恩寵教会2020年6月28日主日礼拝説教 ローマ1:24-32②「悪いと知っているのに」

「主の十字架の愛が迫る説教でした」と、編集してくださった長老のご感想です。説教者自身、主イエスから魂に触れていただいた感触が、今も残っています。ぜひ、たくさんの方に聞いてほしいと思います。

改めて28節を振り返ると、「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。」

原文を見ると「彼らが神を知ることを“役に立たない”と考えたので、神は彼らを“役に立たない”心に引き渡されました。」という具合に、「役に立たない」という言葉を重ねて、皮肉な言葉遊びがされています。

「神を知ることは役に立たないと考えた」というのは、「自分たちにとって不合格、必要ない」と判断したということです。

被造物である人間が、造り主である神様に対して「あんたの存在は不合格!!」とつきつけるなんて、なんと身の程知らずなサカサマ状態・・。

こういう傲慢に対して、神は今、これ以上何を言っても無駄だからと、ほったらかしにして静観しておられる。それが先週から確認してきたことでした。

そうして人間は、「役に立たない、無価値な、くだらない」心に引き渡され、その心のおもむくままに、「してはならない」ことを繰り返しながら、どんどんと破局をおのれへとたぐりよせている。それが、パウロによる世界の見方です。


共に祈りましょう。

主よ、あなたがいるのかいないのかと、問いかける私たちの弱さを憐れんでください。あなたが生きて存在しておられることを、今日もはっきりと教えてください。また、あなたが要るのか要らないのかなどと問う、私たちの愚かさを赦してください。まるで、あなた無しでも生きていけるかのように、傲慢になってしまった時代です。でも私は知りました。あなたが共にいてくださらなければ、私はもう一歩も歩けないということを。
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茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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