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2019. 12. 20  
クリスマスに分かち合うマタイ1:21において、生まれてくる子は「自分の民を罪から救う」救い主になるとの約束があります。

イエス・キリストは、人間を罪から救う救い主です。

罪とは何でしょうか。それは、神との交わりの断絶と言われます。

また私がよく使うのは、神を正しくあがめず、従わず、自分自身を神とすることであるという言い方です。

あるいは、罪とは的外れな生き方ということもしばしば言われます。あるべきところから外れること。

あるいは、ウェストミンスター小教理問答では、もっとシンプルに、「罪とは、神の律法に背くこと」と教えます。

つまり、「神様の教えの通りに生きられない」ことです。

先日、水曜の祈祷会で、それぞれに御言葉から黙想をして、自分の罪とその救いについて思い巡らしたことを書き留めました。

私も、自分自身を省みました。

自分が抱えている残虐性や、他者に対する心の冷たさ、嘘をついてしまうこと、不真面目さ、成功者へのねたみ、女性をみだらな思いで見てしまうこと・・・そういうことが、次々と心に浮かびます。

それらは、イエス様に出会う前には、克服したいとさえ思っていなかったことです。

それが私を滅びに導く罪だと、思っていませんでした。

今は違います。依然として、まだ私の中には、それらの罪が残っている。本当にくやしいけど、どうにも残っている。三つ子の魂百までです。性質の卑しさがずっと残っているのです。

でも、私は今、この罪と戦いたいと願っています。そういう心をいただきました。

聖霊が起こしてくださった、新しい心です。これはまぎれもなく、私の中で始まった新しいことです。

次の日曜日、洗礼・信仰告白をする3人の若者がいます。

彼らは、聖霊をいただくのです。そして、新しい心を起こされ、新しい道に生き始めるのです。


共に祈りましょう。

主よ、我らを罪から救ってください。罪に縛られ、濁った目をしていた私を、あなたは光の道に導いてくださいました。主よ、感謝します。この道を進ませてください。そして、今からスタートを切る者たちに、限りない祝福があらんことを!!

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2019. 12. 19  
クリスマス礼拝にはマタイ1:18-25を分かち合いますが、短縮しますので、残念ながら23節の「インマヌエル」は解き明かしません。

今日は、以前にここの解き明かしをした際の説教を、転載します。


インマヌエル、それは「神は我々と共におられる」という意味のヘブライ語です。イエス・キリストは、神はあなたがたと共におられるのだと、私たちに教えてくださる方です。

神はもはやあなたがたから遠くない、神とあなたたちとのあいだの決定的な断絶は埋められた。だから、神はあなたを愛しておられる。

あなたには神が見えなくても、神はあなたを見ておられて、あなたと確かに共におられる。

それは本当なのだと伝えるために、イエス様は自ら人間となってこの地上に降りてきてくださったのです。

イエス様は、私たちには決して届かない高みにおられた、聖なる神の独り子である方です。その方が、ヨセフとマリアの子として、苦悩の泥沼のような現実世界に降りて来てくださったのです。

ヨセフとマリアは、この後、おそらくは(ヨセフの子ではないらしいという噂で)晒し者となって苦しんだことでしょう。

そして彼らとともに、幼子イエスも晒し者になったことは容易に想像されます。

でも主はそのような現実に降りてきてくださって、ヨセフやマリアと共に生きることを選んでくださったのです。

このイエス様において、神様は私たちと共に罪人の現実を生きることを始めてくださったのです。

ですから、今や私たちは、どれだけ苦悩が深まろうとも、神などどこにおられるのだとは、もう問いません。問わなくてもいいのです。

神は、どこまでも私たちと共におられると、イエスの存在が証明しているからです。

皆さんの中には、苦しくて溺れそうになっておられる方もきっといらっしゃるでしょう。でも、神はそのあなたと間違いなく共におられるのです。そのことを疑う必要はありません。

神は私たちと共におられます。私たちが苦悩する時、そこに神が共におられるのです。


共に祈りましょう。

主よ、体調をくずしている者も多くいますが、癒しの手を差し伸べてくださって、クリスマスを共に喜び祝わせてください。今日も、どんな時も、あなたが共にいて下さることに感謝します。
2019. 12. 06  
次主日に分かち合うマタイ3:1-12を読みながら、7節にある「差し迫った神の怒り」について考えていました。

「差し迫った」とは、「まさに来ようとしている、実現しようとしている」という言葉で、新改訳では「必ず来る」と訳してます。

ここのところ、地震が続いて、不穏です。

大きな地震が必ず来ると言われて久しいです。まさに、それが近づいているのではないかと感じます。

同じように、世界全体に恐怖の時が近づいているのではないかと、多くの人が感じている時代ではないかとも思います。

でも、災害や戦争があっても、それが真に恐ろしいことではありません。

恐らくそれらのことは、私たちの「罪がもたらす悲惨」であり、また同時に、神が私たちにブレーキをかけて悔い改めへと導くためにお与えになる「人類の試練」として、考えるべきでしょう。

まだそれらは終わりの時ではないと、イエス様もおっしゃいました(マタイ24章)。

本当に恐ろしいのは、それらの向こうに訪れる、終わりの時の裁きです。最後の審判です。

神を無視して悔い改めず、地上にあって滅びへの道を歩み続けた者たちは、そのまま永遠の怒りの炎の中にのまれていきます。


私たちキリスト者と自認する者は、どういう立ち位置から、このことを考えればよいでしょうか。

改めて自分の信仰と生活を問い直し、本当に私はキリストの命の道を歩んでいるのかと問う。

アドベントの時というのは、そのための絶好の機会として与えられています。

また、まだ救いを知らぬ方々のための、とりなしの祈りをなすべき時です。


共に祈りましょう。

主よ、アドベントのこのとき、悔い改めよとの声が心に響いています。私たちのために、神の怒りをすべて引き受けて下さった主イエスの十字架の救いに、ただ感謝を申し上げます。




2019. 09. 28  
今日から四国に出張で、来週水曜日まで配信はお休みします。

明日は徳島教会で説教奉仕、月・火と高知の宿毛に移動し、四国中会教師会の講師として、説教についての講演をさせていただきます。

勝田台教会では歓迎礼拝で、「私たちのメタモルフォーゼ」という説教がなされます。

私は徳島で、マタイ25章のタラントンのたとえから、「『よくやった』と言って下さる神様」と題して説き明かしをします。

人にはそれぞれ賜物の違いがあって、多く与えられている人も、少なく与えられている人もいます。

それは、神様の決めることで、人と比べてひがんでも仕方ないし、天狗になるのもおかしなことです。

それぞれのタラントンには違いがある。それは厳然とした事実です。

でも、どちらにしたって、それらは神様の目には「少しのもの」に過ぎません。

一番多い5タラントンをあずけられた僕にも、「お前は少しのものに忠実だった(21節)」と言われています。

みんな一緒です。神の目には、5だろうが1だろうが関係ない、みんな「少しのもの」です。

大切なのは、それに忠実であるかどうかです。

与えられたものを最大限に生かそうと、精一杯努めた者には「よくやった!!」と、くしゃくしゃにほめてくださって、永遠の御国における「多くの」財産をも、喜んでおゆだねになってくださいます。

私もまた、与えられた働きに忠実に、少ないタラントンをフル稼働して働いてきたいと思います。


共に祈りましょう。

主よ、明日の勝田台教会の歓迎礼拝をゆたかに祝福して下さい。山口陽一先生を通して、あなたの慰めの福音をお語り下さい。礼拝に集いたいと願いながら、体の弱さを覚えている者を、どうか守り支えてください。私たちの家族・友人が、共に集い、イエス・キリストとの出会いの喜びにとらえられますように。わたしたちそれぞれに、「変身」の喜びを与えてくださいますように。
2018. 03. 22  
昨日の朝日新聞の「折々のことば」に、こんな言葉が紹介されていました。

「賢者は、自分がつねに愚者になり果てる寸前であることを肝に銘じている。(オルテガ・イ・ガゼット)」

(こちらで読めます。www.asahi.com/articles/ASL3G45PML3GUCVL00G.html)

おもしろいですね。昔、養老猛さんが「バカの壁」という言葉で言おうとしたことと、重なると思います。

賢者というのは、愚か者だと自覚し、「自分」を疑っている人です。

「自分」の分かっていることなど、ほんのわずかでしかない。

「自分」が正しいと思っていることは、ぜんぜん正しくない可能性がある。

そういうことを知っているから、新しい知識に貪欲だし、「自分」が変えられていくことを恐がりません。

しかし、そうはいかないのが私たちです。

どんなに外から揺さぶられても、なんでも「自分」に引きつけて、これまでの「自分」に分かる範囲でだけ、都合よく受け取ろうとする。

そうやって、ぐるぐるぐるぐる「自分」の中でとどまっているから、いつまでたっても「バカ」の壁を超えられない。

しかも残念なことに、私たちにはそういう愚か者であるという自覚さえ、なかなかもてない。

自覚していると思っている人ほど、実は結局「自分」の殻を破ることができないで、ぐずぐず言い訳ばかりしている。



先週の全国学生会でも、「自分を超えていけ」と言われていました。

居心地のいい「自分」に安住しないで、今の「自分」を疑って、どんどん殻を破って成長していきなさい・・・と。

マタイ16:24の「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という御言葉が引かれました。

私たちの古い「自分」は、イエスと共に十字架につけられ死なしめられたのです。

だから、古い「自分」をいつも何度でも捨て去って、イエス様に従う新しい歩みにおいて、何度でも「自分を超えていきなさい」と、教えられました。

これは、学生たちだけが聞くべき言葉でしょうか・・・。



共に祈りましょう。

主よ、わたしたちの人生はあなたのものです。わたしたちが勝手に「自分」を知った気になって、小さく固めてしまわないように。わたしを砕いてください。開いてください。

プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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