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2012. 11. 16  
「『見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。』

ヤコブは眠りから覚めて言った。『まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。』(創世記28:15-16)」

これは、有名なヤコブの梯子という故事の中での、神様とヤコブの会話です。

兄エサウから長男の権利をだまし取ったものの、結局エサウの怒りを恐れて、ヤコブは逃亡の旅に出ます。

冷たい荒野の夜。野獣の牙から頭を守るために、かたい石を枕にして眠ります。

失意、無念、孤独な夜です。

しかし、そんな夜にも、神が「共にいてくださる」ことをヤコブは知りました。

それは彼にとって、根源的な慰めでした。

私たちも、今日、失意の時を味わうかもしれません。こんなところに主がおられるとはとても考えられないような、孤独な荒野を旅するかもしれません。

でも、そんなところにも、主が共におられるのです。


共に祈りましょう。

ヤコブを支え導かれたイスラエルの主なる神よ。あなたが私たちとも、どこまでも共にいてくださることを信じます。この世の旅路の険しさの中で、今日も私たちをふさわしく成長させてください。
2012. 11. 15  
「主の言葉がわたしに臨んだ。『エレミヤよ、何が見えるか。』わたしは答えた。『アーモンドの枝が見えます。』(エレミヤ1:11)」

イスラエルの冬の終わりごろに、いち早く咲いて春の到来を告げる白い花があるそうです。

強く照らしてくるイスラエルの太陽の光を通して見ると、薄紅色に輝いてそれは美しいそうです。

若き預言者エレミヤは、そんなアーモンドの花の幻を見ています。

彼の時代、イスラエルの罪の極まった冬の時代でした。彼は懸命に悔い改めを訴えますが、だれも聞こうとしません。そして、神の裁きとしてのバビロン捕囚の悲劇が訪れます。

でも、凍てつく冬の時代にも、やがて神が春をもたらしてくださる。若き預言者は、春を告げる白い花に、そんな希望を見出します。

私たちの時代もまた冬の時代です。しかし、神が与えてくださっている、信じるべき希望があります。

イエス・キリストという希望です。


共に祈りましょう。

主よ、寒さが増してくるこの季節。心も体も冷えていき、時代の寒さに呑み込まれそうになってしまいます。私たちの心に、希望の白い花を咲かせてください。この心をイエス様と結んでくださって、澄んだ光の中を、今日も歩ませてください。

2012. 11. 14  
これまでの人類の歴史において、もっとも長生きした人は誰でしょう?

すぐに分かった方は、なかなかの聖書通ですね。

答えは、メトシェラです。「メトシェラは969年生き、そして死んだ。(創世記5:27)」

969年!!驚くべき数字ですが、当時のメソポタミアの神話では人間が3万年も6万年も生きたとされます。

それと比べれば、メトシェラでもかわいいものです。

人間はあくまで被造物であって神とは違う。最も長く生きた者でも何万年も生きはしなかった。

実は、そういう風にして異教の神話に対する否定がなされているのです。



人間の生涯は短くはかないものです。今日も与えられた命を懸命に生きましょう。

また、長寿は神様からの大きな祝福ですから、ご高齢の方々は生を存分に喜び楽しんでくださいね。


共に祈りましょう。

大いなる永遠の神よ、あなたが御心にとめてくださるとは、私たちは何者でしょう。塵に過ぎないはかない者ですが、あなたの祝福によって今日も生かされていることを感謝します。この一日に、あなたが用意してくださっている喜びに、たくさん気付くことができますように。

2012. 11. 13  
今週は、疎遠になりがちな旧約聖書の御言葉に聴きましょう。

「神はモーセに『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。[わたしはある]という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。』(出エジプト3:14)」

神学生時代、奉仕教会の子どもたちが聖書をペラペラ開きながら、「先生!神様の名前って『わたしはある』って言うの?」と目を丸くして驚いていました。

『わたしはある』これが、私たちの信じる神の名です。

イエス様も『わたしはある』と名乗られました(ヨハネ8:24、58など)。

不思議な名です。

過去・現在・未来にわたって「ありてありつづけられる」主の存在の確かさを表している、

「万物をありてあらしめる」創造の力を表している、

「ご自分のありたいようにある」神の自由を表している、などなど言われます。

私が魅力を覚えるのは、「わたしはあなたがたのためにある、わたしはあなたがたと共にいる」というメッセージが暗示されているという解釈です。

いずれにしろ、このような名の神が、今日も私たちの神でいてくださいます。


共に祈りましょう。

主よ、あなたは不思議な思いを超えた方。そのあなたを神としていただき、あなたの民とされた私たちは、いかに幸いなことでしょう。今日も私たちがあなたを見失いそうな時、『わたしはある』と御自身を示してください。

2012. 11. 10  
昨日の配信は、少し不適切でした。

「愛せない罪人」ということについて色々考えている中で、自分自身を筆頭とする日本人男性のだめさに対する、日頃からの苛立ちが前面に出て、余計な飛躍をしてしまいました。

お伝えしたかったのは、愛なき者が愛する者に変えられるという希望です。

有名なザアカイの物語も、そんな変えられた人の記録です。

「しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。・・・』。イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は失われたものを捜して救うために来たのである。(ルカ19:8-10)」

失われた人であったザアカイは、神も隣人も自分も、愛することができませんでした。

でも、イエスが彼を捜して、愛してくださいました。大切に大切に扱ってくださいました。

そんなイエス様の愛の中で、彼はあるべき自分の姿を発見します。人間が回復されます。

そして、貧しい人への愛の業をなす者へと変えられていきます。

人間が救われるとは、こういうことなのです。


共に祈りましょう。

主よ、愛の足りない自分を思い知らされてばかりの今週でした。でも、そんな私がなお愛していただいていることを、図々しく信じさせていただきます。主よ、私たちに、互いに愛し合う力をください。愛の業をなさせてください!
2012. 11. 09  

今週は「愛の業」について深めていますが、昨日の聖書に遊ぶ会の語らいの中で、大事なことを思い出しました。

「愛することができる」という能力は決して誰にも備わっているものではなくて、主に与えていただいた恵みに他ならないということです。

「愛」は聖霊が結んでくださる実です(ガラテヤ5:22)。

罪人は、そのままでは「隣人を愛する」ことができません。

キリストが示してくださった「まことの愛」を知ることがない限り、「愛」とは何かも分かりません。

特に、幼稚な甘えと、執着とエゴイズムに支配されている脆弱な日本人の男性は、相手を思いやることさえできません。

新たに生まれ直させていただいた者だけが、「愛することができる」のです。

「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。(Ⅰペトロ1:22-23)」


共に祈りましょう。

主よ、あなたという偉大な父の子として、新たに生まれ直させてください。愛なきこの世界にあって、まことの愛を教えてください。私たちを、また愛することができぬ多くの人々を、どうかあなたが憐れんで、作り変えてくださいますように。
2012. 11. 08  
「弱者を憐れむ人は主に貸す人。その行いは必ず報いられる。(箴言19:17)」

「主に貸す人」という言葉が印象的です。

本当にこの訳で良いのかなと調べましたが、諸翻訳いずれも同じでした。「主に貸す」でいいのです。

私たちの「隣人との関係」は、いつも「主」を頂点にした三角関係です。

与える者は主に貸している。受ける者は主から借りている。

与える側も、受ける側も、このことを見失う時に、思いが歪んでいくのでしょう。

しかし「主に貸す」といっても、本来私たちは、決して返せないものを主に借りていたわけで。

しかも、それを帳消しにしてもらった身分なわけで(マタイ18:27)。

だから、「主に借りたものを主に返す」、これが私たちが愛の業に臨む際の秘訣です。


共に祈りましょう。

主よ、私たちはあまりにも多く、あなたに愛していただきました。あなたに応えたいのです。あなたが愛しておられる人を、私も愛することができますように。今日も、あなたの慈愛の業に、私を用いてくださいますように。
2012. 11. 07  
「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、くびきの結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、くびきをことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。(イザヤ58:6-7)」

勝田台教会初代牧師の安田吉三郎先生には、私も神戸で大変お世話になり、深く尊敬しています。

安田師は、神学校教授を担当された優れた学者であり、同時に霊性に満ちた祈り深い方です。

勝田台教会では、断食をなさって祈っておられたと聞いております。

私も見習いたいと思っております。また、教会全体で断食をして祈りに向かうことの重要性も考えさせられています。

しかしその際、今日の御言葉を忘れずにいたいものです。

断食によって神への集中を高めても、隣人への愛の業と結びつかねば、それは歪んだ熱心にすぎないのです。


共に祈りましょう。

私を助けてくださった主よ、今日、私たちが、助けを必要としている人に出会う時に、その人の隣人となることができるように、知恵と力と少しの勇気を与えてください。あなたのことを、もっとまっすぐに愛し、従うことができるようにしてください。
2012. 11. 06  
今週は「愛の業」という使命に深まっていきましょう。

「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。(Ⅰヨハネ4:20-21)」

神学校時代、誰ともうまくやれず、トラブルばかりを起こしていた兄弟がいました。

私は学生会長でしたので、なんとか全体をフォローしようと努めましたが、困難でした。

結局、彼は神学校を去りました。

あくまで主観ですが、未成熟で病的な人格の方であり、その神への愛は歪んでいたと言わざるを得ないのではないかと思います。

しかし、私たちにも似たところはないでしょうか。


「隣人」や「敵」と向き合うのは、あまりにもしんどく、痛く、切ないことです。

でも、相対他者である「隣人」から逃げているのに、絶対他者である「神」と正しく向き合うことなど、きっとできないのでしょう。


共に祈りましょう。

愛なる神よ、あなたがまず私たちを愛してくださいました。私たちも互いに愛し合いたいのです。今日も私たちが、出会う一人一人の方の「隣人となる」ことができますように、愛を増し加えてください。
2012. 11. 03  
「万軍の主よ、あなたのいますところは、どれほど愛されていることでしょう。

主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。

・・・いかに幸いなことでしょう。

あなたの家に住むことができるなら。

まして、あなたを賛美することができるなら。(詩篇84:2-5)


今週もあと一日となりました。今日はお休みの方も多いでしょう。

一週間の険しい旅路に、魂は疲れておられるでしょう。あと一日乗り切って、主のもとで命を得ましょう。

特にこの日は、礼拝のための備えの日として意識してください。

改革派教会の礼拝指針に、次のようにあります。

「信者とその家族は、公的礼拝における神との交わりのために、次のように準備すべきである。すなわち、自分と他人のため、とくに牧師とその奉仕のために祝福を祈ること、聖書を読むこと、きよいめい想をすること、などである。」


共に祈りましょう。

主よ、今日もあなたが支えてくださり、一週間の旅路を最後までよく導いてください。そして、私たちのうちに、あなたへの礼拝を慕い求める思いを増し加えてくださり、日曜日の喜びを大きくしてください。
プロフィール

茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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