FC2ブログ
2013. 01. 17  
聖書には、こんな格言が残されています。

「主に喜ばれる道を歩む人を、主は敵と和解させてくださる。(箴言16:7)」

昨日、ある方からうれしい連絡を受けました。

あることをきっかけに断絶してしまっていたご友人と、和解することができたそうです。

主が力を与えてくださったと、感謝しておられました。

大変な勇気が必要であったことと思いますが、与えられた御言葉によって、きっと突き動かされたのでしょう。

我がことのようにうれしくなりました。

「主に喜ばれる道」というのは、そんなに難しい道ではないのでしょう。

私たちの心に迫ってこられる主を、拒みさえしなければ、主はいつも和解と平和の道を歩ませてくださるのです。

とはいえ、それがなかなかできないのが、悲しいのですけどね・・・。


共に祈りましょう。

愛する主よ、イエスの教えに生きたいと願いながら、イエスの教えを拒んでいる、矛盾した自分がいます。主よ、このような二つの心をもつ罪を赦してくださって、一つ心で、主の喜ばれる道を行くことができるようにしてください。

お一人の方の心を作り変えてくださったことを、本当に感謝します。その他にも、和解の必要に気付かされた者に、ふさわしい励ましと慰めをお与えください。

2013. 01. 16  
創世記のヨセフ物語は、人と人との和解の美しさを伝える、数少ない記録です。

若き日に、弟ヨセフに対する父の寵愛に激しいねたみを覚え、彼を奴隷としてエジプトへ送ってしまった兄たち。

そんな「悪いことをしてしまった」罪と咎を、どうか赦してください。

この兄の謝罪に対し、ヨセフはこう答えて、赦しと和解の道を進みました。

「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。

あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、

多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。(創世記50:19-20)」


互いに過ちを犯しあい、殺しあう私たちですが、主はそのさもしい営みのすべてを導きながら、「善いこと」をなしていかれます。

間違いだらけの過去や、後悔ばかりの現在をも用いて、主は私たちを未来の平和へと導いていかれます。

隣人との和解に進むためには、そんな主の摂理への信頼が不可欠です。


共に祈りましょう。

導きの主よ、私たちの思いを越えて、和解と平和の未来を実現してください。親や子や、夫や妻や、友人や、教会の兄弟姉妹とのあいだに、深い亀裂を作ってしまったことを悔いている者を憐れんでくださり、あなたが開いてくださる未来へと目を向けさせてください。
2013. 01. 15  
あなたに反感を持っている人がいることに気付いたなら、すぐに謝って和解に努めなさいと、イエス様は教えてくださいました。

そのようにして「気付く」ことは、聖霊の助けによらねば起こりえないことでもあります。

人は皆、罪人です。

そして罪人の最大の問題は、自分の罪に「気付いていない」ところにあります。

神に対しても、人に対しても(友人、親、子、同僚・・・)、傷つけ、裏切り、殺してしまっている自分に「気付く」ということは、救いの始まりです。

神は、ありのままのあなたを愛されると、よく言われますが、

それは、「気付いていない」ままの無神経なあなたを愛されるということではなく、

たくさん謝らねばならないことに気付いてしまって、悔いくずおれているあなたを、その情けない姿のままで愛してくださるということです。

「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。(ローマ7:24)」

こんな嘆きが生まれたならば、そこからもうすでに、和解と平和の道が始まっています。


共に祈りましょう。

愛する主よ、私たちは、あなたに対しても人に対しても罪を犯し続けながら、きっと、ほとんどの過ちを自覚していないのでしょう。私たちの無神経を許してください。今日、昨日よりも少しでも、そのことに敏感であれますように。そして、和解と平和の道を歩ませてください。
2013. 01. 12  
今週は、「腹を立ててはならない。兄弟にバカと言ってはならない」というイエス様の教えに深まってきました。

この教えの背景にはきっと、レビ記のこんな言葉があると思います。

「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。

復讐してはならない。民の人々にうらみを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。(レビ19:17-18)」


同胞を率直に戒めなさい、という言葉に心惹かれます。

心の中で愚かだと見下したり、「あの人とはもう無理・・」と見切りをつけるのでなく、

「あなたのそこが悪いところだ」と、責任をもって戒めていく。

それは「バカ」という侮蔑とは対極の、人を建て上げるための言葉です。

でも、本当の愛が伴ってなければ、そういう戒めは成立しないでしょう。

大変難しいことと思いますが、人を殺すのではなく、生かすための率直な戒めを、語れるようになりたいと願うものです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちは隣人に対して、あまりにも無責任なのかもしれません。どうか私たちが互いの成長のために、ふさわしい戒めを語りあうことができるように、知恵と、何より愛を満たしてください。
2013. 01. 11  
「言葉」のもつ殺人力について、箴言に記された古の知恵に学びましょう。

「軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す。(箴言12:18)」

「癒しをもたらす舌は命の木。よこしまな舌は気力を砕く。(同15:4)」


まことに人間とは難しいもので、心が通じ合わない悲しみを抱えています。

細心の配慮のもとに届けられたひと言でさえ、思いがけず相手を傷つけてしまうこともあります。

ましてや「軽率」に放たれたひと言は、取り返しのつかないダメージを与えることがある。

そんな言葉に傷つけられている方が多いかもしれません。

そして、傷つけられたからこそ、相手を傷つけるかもしれないと覚悟の上で、剣のような言葉を放ってしまう。

私たちは、そんなことを繰り返しています。でも、それは悲しすぎるのです。

主は、そんな悪循環から解き放とうと、まず命の言葉によって私たちを「癒し」てくださったのです。


共に祈りましょう。

愛する主よ、「言葉」という大いなる賜物を上手に扱えずに、互いに傷つけあう私たちの愚かさを赦してください。憐れんでください。そしてどうか私たちが、互いに高めあい、癒しあう言葉を語る群れとなることができますように、聖霊を注いでください。
2013. 01. 10  
「わたしたちは皆、たびたび過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。

・・・舌を制御できる人は一人もいません。舌は疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。

わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。

同じ口から賛美と呪いが出てくるのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。(ヤコブ3:2,8-10)」


罪深い「舌」から繰り出される「言葉」に、今日も可能な限り注意しましょう。

私たちの放つほんの小さな一言が、相手を深く傷つけることがあるのです。

私も反省ばかりしています。

自分がいつも、言葉の悪をふりまく加害者であることを意識しましょう。

ともすると私たちは、被害者意識ばかり持ってしまいます。

私たちのこの口が、神への賛美と感謝に満ちた美しい言葉を語りだすようにと、

主は十字架で死んで、罪から自由にしてくださったのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日も私たちの口を、賛美と感謝で満たしてください。言葉で傷つけられることがあっても、傷つけ返さないようにしたいのです。相手を生かす言葉、建て上げる言葉、真にやさしい言葉を語らせてください。あなたが、私に語ってくださったように!!

2013. 01. 09  
「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。(ヤコブ1:19)」

「怒り」ということを考えるのに不可欠な御言葉ですね。

でも、よく読んでみると、ここでは「御言葉に対する態度」が問題になっているようです。

聞くのに早く、すなわち、信仰をもってすなおに聞く。

語るには遅く、すなわち、神の言葉を歪めぬように慎重に配慮をもって語る。

怒るのに遅く、すなわちそれは、神に対してしびれをきらさぬように、ということでしょう。

主の約束が実現しない・・・、神の道に忠実に生きても苦難ばかり・・・。

正直者が馬鹿を見る・・・。愛を示せばつけこまれる。なめられる・・・。

とかくこの世は、すなおでやさしいクリスチャンが損ばかりするようにできているものです。

でも、そこで神様にしびれをきらして、「御言葉になど聞いてられない!!」となるならば・・・

隣人に対してもきっとしびれをきらして、腹を立て、関係を切り捨てる言葉を吐いてしまうでしょう。

実は、腹を立てないでいる秘訣は、愚直なまでの主への信頼にあるようです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの御言葉の通りに生きるなら、私たちは損ばかりします。でも主よ、そのように生きる者を、あなたは顧み祝福してくださることを信じて、今日も生きてみます。もっと愚かなまでにあなたを信頼できますように。あなたが私たちの信頼に、今日も豊かに応えてくださいますように。
2013. 01. 08  
「腹を立ててはならない」とのイエス様の戒めに深まっていきましょう。

「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。(エフェソ4:26-27)」

まず、「怒ってしまう時、怒らねばならぬ時がある」ことを、パウロは認めています。

でも、たとえ正しい怒りであっても、怒り続けるべきではない。

怒りは、時間とともに養われ、固く強くなるものです。

たとえ最初は義憤であったとしても、苛立ちや苦々しさによってすぐに歪められて、兄弟への怨念に変わってしまいます。

私たちの罪深い感情は、そんな風にして、容易に悪に傾いていくからです。

・・・とはいえ、これは実に難しいことでしょう。

昨日の怒りが、今日の朝まで持ち越されている方はいませんか。

聖霊の助けと慰めがありますように。


共に祈りましょう。

主よ、私たちの罪深い現実にあっては、正しく怒るべき時を見定めさせてください。そして、その怒りに呑み込まれてしまうことがないように。今日も悪魔の罠からお守りください。
2013. 01. 05  
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。(ガラテヤ5:13)」

昨日はこの言葉から、戒律主義からの自由を学びました。

しかし、「自由」を履き違えてはなりません。

イエス様を信じていれば何をしたっていい・・・、そんなわけはありません。

この「自由」は、神の霊に導かれて善に向かう自由です。

内なる悪しき感情や欲求に正直になる自由ではありません。

そういう罪から解き放たれ、戦い始める自由な戦士として、私たちは召されているのです。

パウロは特に、この自由を「互いに愛し合うために」用いなさいと勧めています。

それはまた、私たちに与えられている「新しい掟」です。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。(ヨハネ15:12)」


共に祈りましょう。

主よ、自分のためにではなく、相手を大切にするために、自分の時間と賜物を用いる・・なんと尊いことでしょうか。そんな、真に自由な人になりたいのです。主よ、今日も私たちの道を、あなたの教えで照らしてください。
2013. 01. 04  
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。(ガラテヤ5:13)」

今日明日2回にわたって、この言葉を味わいましょう。

ここで言われている「自由」とは、直接的には戒律主義の鎖からの自由です。

これをしてはダメ、あれができなきゃダメという束縛から、私たちは自由にされています。

それは、ダメな私は罰を受けるという、神の裁きの恐れからの自由でもあります。

またそれは、自分は人と比べてダメだという劣等感からの自由でもあり、

それは自ずと、他人の目を気にする思いからの自由に通じます。


残念ながら現実の信仰生活においては、私たちは互いに、「自由」を奪い合っていることが多いように思います。

それが罪人の現実であり、教会の現実です。

でも、「だからダメなんだ」と誰かや自分を裁くのではなく、

私たちは「自由を得るために召し出された」のだと、もっとみんなで強く意識することを始めましょう。


共に祈りましょう。

主よ、あまりにも不自由な私たちの信仰生活です。互いの目を気にしあい、互いの声に傷つきあい・・・、主よ、憐れんでください。まず私たちの教会を、真に「自由」な人の群れとして立たせてください。




プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
FC2ブログへようこそ!

検索フォーム
カテゴリ
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR