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2013. 03. 30  
今週は、受難週として、イエス様の十字架の御苦しみを覚えながら一週間を過ごしてきました。

毎年この時になると、私は御言葉の取次ぎに苦しみます。

主が十字架の犠牲において、私たちに示してくださった愛の深さ、広さ、高さ、大きさを、十分に伝えきれないと悩むからです。

ですから今日も、ただ聖書に書かれた御言葉をお伝えします。


「『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。

そして十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。

そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。

あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻ってきたのです。(Ⅰペトロ2:22-25)」


十字架の主イエス・キリストよ、あなたのおかげで、私たちは永遠の不安から解き放たれました。あなたの示してくださった愛に、応える術を知りません。どうか今より後、義によって生きることができますように、いよいよ十字架の愛でこの心を満たしてください。
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2013. 03. 29  
この御言葉配信は、ブログにもなっていますので、過去のものも全部読むことができます。

昨日、一覧表を眺めていて気付いたのですが、選んでいる聖句にはやはり偏りがあります。

一番多いのは詩篇ですが、その他の旧約、特に預言書からは少ないですね。

そういうわけで、この受難週に、エゼキエル書の御言葉に聞きましょう。

「それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまづかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。(エゼキエル18:30-32)


神は正義の神であって、本来は、罪深い私たちを裁いて殺さずにはおれません。

でも、一人も死なせたくなどないのです。だから、身代わりに、罪無きイエスだけを裁き、死なせました。

私が「犯したあらゆる背き」の責任を負って、イエスは十字架で死んだのです。

このキリストの十字架の下で、自らのこれまでの道を悔い改めて、新しい命に生きよと、神は願っておられます。


共に祈りましょう。

十字架の主イエス・キリストの父なる神よ、今日、私のうちにまことの悔い改めを起こしてください。あなたに背き、隣人を傷つけて、自分を損なってきた人生の、方向を変えさせてください。
2013. 03. 28  
「つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。・・・キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。

罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができました。(Ⅱコリント5:19-21)」


大きな事故を犯して、「赦してください・・」とうなだれた経験はございましょうか。

例えば、こんなのは軽いものではありますが、私が営業マンであった時のことです。

あるミスで、得意先に大きな損失を与えてしまった時に、本当に悩みました。

でも考えてみてください。そのミスの責任が問われないで、向こうから「和解」の手がさしのべられるのです。

私の犯したミスは、向こうが身銭を切って処理してくれるというのです。

そんなことはありえません。

でも神が私たちにしてくださったことは、そういうありえない憐れみの業です。

神の栄光を大きく傷つけた私たちの「罪の責任」が問われないで、神の身銭が切られます。

御独り子イエス・キリストの命という、神の最愛の宝が、差し出されます。

それが、イエス・キリストの十字架の死の意味です。


共に祈りましょう。

愛する主よ、この受難週に、キリストの十字架の苦しみを、日ごとに覚えさせられています。あなたから赦された感謝をもって生きます。今日の日に、あなたの栄光を表すことができますように。




2013. 03. 27  
「そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。

するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。(ルカ23:42-43)」

「楽園」とは、私たちが想像したこともないほどの素晴らしい場所でありましょう。

しかし、昔の私は、あの世の「楽園」よりも、この世で快楽にふけっているほうがずっと幸せだと思っていました。

死んだら何もなくなるだけで、永遠の滅びも怖くないし、楽園なんてあるわけもないと思っていました。

今は、聖書にしたがって、そういう過去の自分こそ、まさに罪人そのものであったと思います。

ただ今でも、死後の世界のことはどこか遠すぎてよく分からない自分がいます。

私はむしろ、どこまでもイエス様と一緒にいたいという思いばかりです。

この罪深い者が赦されて、「今日わたしと一緒に」楽園にいると言っていただける幸いをかみしめながら、

改めて、本来は永遠の滅びに値する、現在の私の罪を見つめたいと思います。


共に祈りましょう。

主よ、私の代わりに、私のために死んで血を流してくださった、イエス・キリストの十字架の苦難を覚え、感謝をいたします。生きる時も死ぬ時も、私の真実な救い主であるイエス様と、どこまでも一緒にいさせてください。そして、イエス様にふさわしく、この身と心とが作り変えられていきますように。
2013. 03. 26  
「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』

すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』

そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。

するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。(ルカ23:39-43)」


イエス様と同じ時間に十字架にかけられていた二人の犯罪人が登場しています。

一人は最後までイエス様を理解せず、ののしり続けました。

もう一人は、イエス様を救い主と頼り、助けてくださいと願いました。

先週、日曜学校でこの箇所を子どもたちにおはなしするために、担当の若者と共に準備しました。

その途中で気づかされたのは、私たち人間というのは誰も、神の前で、この二人のうちのどちらかでしかないのだということです。

どちらも、十字架にかけられて永遠の滅びへ向かっている者たちです。

皆さんは、二人のうちのどちらでいたいでしょうか。


共に祈りましょう。

十字架の主イエス・キリストの父なる神よ。あなたの怒りと呪いの中で、永遠の滅びに向かうよりない、私たちの罪深さを思います。私たちの身代わりとして死んでくださった主の十字架の意味を、今日も深く悟らせてください。


2013. 03. 23  
「また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。(マタイ23:9)」

これはどういうことでしょうか?肉親のことも「お父さん」と呼んではいけないのでしょうか?

イエス様の教えの真意は、唯一の「天の父」なる神以外のいかなるものも、権威がなく、頼りにならないということです。

この「天の父」のみに信頼し、この方にのみよきものを期待しなさい。

それは裏返せば、この方は、そのような信頼に足るべき方だということです。

「あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。(申命記7:9)」

イエス様が、その十字架と復活にいたる全生涯をかけて、身をもって示してくださったのが、「神は信頼できる方である」ということです。

この神が、あなたの父でいてくださることを、いつでも思い出しなさい。

そんな思いで、「天におられるわれらの父よ」との呼びかけを教えてくださったのです。


共に祈りましょう。

天におられるわれらの父よ。今週も今日までの歩みをよく導いてくださって、ありがとうございます。あなたを信頼いたします。どうかあなたも、わたしたちの信頼に応えてください。今、苦しんでいる方や、悩んでいる方にも、どうか最善を備えてください。
2013. 03. 22  
「天におられるわたしたちの父よ」との呼びかけは、「わたしの」ではなく、「わたしたちの」であることが肝心です。

私たち改革派教会のルーツであるカルヴァン先生は、こう解説します。

「われわれは祈りながら、隣人に対して愛をおよぼすべきであって、単に自分のことを配慮するのみではいけないことを教えるために、イエス様は共同で祈ることを示されたのです。」


だれかのために祈るというのは、その人を愛することの始まりでもあります。

「わたしたちの父よ」と呼びかけるごとに、私たちは、「わたし」の隣にいる大切な家族、友人、教会の兄弟姉妹を思い出して、その方々のためにも祈りたいと思います。

あるいは、私を苦しめる敵のためにも祈りたいと思います。

できれば会いたくない方、心を悩ましてくる方・・、そんな敵が、だれにもいるでしょう。

でも神は、そんな私の敵にも、父としての愛を届けたいと願っておられるのです。

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。(マタイ5:45)」


共に祈りましょう。

天におられるわれらの父よ。わたしを今日もお守りください。わたしの愛する人々を今日もお守りください。そして、わたしを苦しめるあの人のことも、お守りください。あなたのもとで私たちが、愛し合う家族となれますように。
2013. 03. 21  
神様は「天におられるわたしたちの父」であり、私たちは神の子として扱われています。

「私は、神の子とされていると聞くと、この御言葉を思い出します」と、以前にある姉妹が教えてくれました。

それはヘブライ人への手紙12:1-13の、子に対する父なる神の鍛錬を教えるくだりです。

わたしたちの父は、わたしたちを子として愛するがゆえに、その成長のために今日も様々な試練を与えられます。

以下に抜粋します。

「・・主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者をみな、鞭打たれるからである。

あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神はあなたがたを子として取り扱っておられます。

・・・霊の父はわたしたちの益となるように、ご自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。

およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。

だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。・・・自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」


共に祈りましょう。

天におられるわれらの父よ、今日もあなたが必要なすべてを備えてくださると信じます。今日与えられるどんな苦しみも、あなたが与えてくださった「試練」であると信じます。主よ、耐え難い試練に合わせず、試練に打ち勝つ力をください。今、病に苦しんでいる方、不安の中にいる方を、どうか支えていてください。
2013. 03. 20  
今日は東関東の長老研修会と青年会総会があります。全国の学生会も行われています。覚えてお祈りください。


今週は「天におられるわれらの父よ」との呼びかけに深まっていきます。

神は「天」におられる方であり、高く、力あり、知りえない方です。

「地」に住む私たちの思いを超えて、自由に歴史を導かれます。

詩篇115編に、こんな信仰者の声が記録されています。

「なぜ国々は言うのか『彼らの神はどこにいる』と。
わたしたちの神は天にいまし
御旨のままにすべてを行われる。(詩篇115:2-3)」

この声を残した詩人の時代は、敗戦後か占領下か・・いずれにしろ民族的な危機を迎えていた苦難の時代でしょう。

「神が本当にいるなら助けてもらえ。お前たちの神は無力だなあ。」と、敵にからかわれているのです。

自分自身の無力さのゆえに、「神はどこにいるのか?」と疑ってしまうことは、私たちにもあるでしょう。

しかし「天におられるわれらの父」は、どこまでも人間の思いを超えて、力ある方です。

私たちは弱くとも神は強く、私たちが死んでも神は死なないのです。


共に祈りましょう。

天におられるわれらの父よ。今日もあなたは天からすべてをご覧になり、あなたの永遠のご計画を確実に進めていかれることを信じます。神よ、わたしたちではなく、あなたの栄光が今日もあらわされますように。
2013. 03. 19  
今週は「天にましますわれらの父よ」という、主の祈りの最初の呼びかけに深まって行きます。


キリスト教において「救われる」とはどういうことか?色んな角度から答えることができます。

それは、罪の赦しである。永遠の命を与えられることである、etc・・・。

私の場合なら、「神の子とされること」と答えるのが、一番包括的な答えかなと今は思っています。

霊的に孤児の家なき子であった私たちが、神の家族に入れられ、「神の子(養子)とされる」ことです。

イエス様は私たちを一人一人家に連れ帰っては、自分の弟、妹として家族に入れてほしいと、父である神様に願ってくださったのです。

そうして「子とされた」わたしたちは、神様を自分の「お父さん」とさせていただくのです。

実の父親に愛されていない人もいるでしょう。父親のいない人もいるでしょう。

でも、あなたには、永遠にあなたを大切にし続けてくださる「お父さん」が与えられています。

神様という「お父さん」は、私たちを今日も見守っていてくださいます。

「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。(マタイ6:8)」


共に祈りましょう。

私たちを愛してくださる、天の父なる神様。今日もあなたの愛を信じて、心を強くして歩みたいと願います。今、色んな不安の中にある兄弟姉妹がいます。体調の不安を抱えている方がいます。経済的な不安を抱えている方がいます。父よ、どうか私たちに、今日も最善を備えてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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