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2013. 06. 29  
週の最後の日に、日曜日に与えられた御言葉を思い返しましょう。

イザヤ49:14-16を、分かりやすく変えてお届けします。

あなたたちは言う。「主はわたしを見捨てられた、わたしの主はわたしを忘れられた」、と。
しかし、主は言われる「たとえ、あなたの母親があなたを忘れることがあっても、わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたの名を、わたしの手のひらに刻み付けて、決して忘れない。」

神が血を流しながら、ご自分の手のひらに私たちの名を刻みこんでいてくださる・・・

もちろん、これは比喩ではありますが、それほどまでの神の思いを知り、胸がいっぱいになります。

私たちは、自分が神を忘れてばかりなくせに、神は忘れておられると嘆きます。

決して忘れてなどおられません。

その手のひらに刻まれた、お一人お一人の名を、今週も愛し続けてくださいました。

その神が、お一人お一人の名を呼んで、礼拝へと招いておられます。


共に祈りましょう。

主よ、十字架に釘で打ち込まれたイエスの手から流れる血に、あなたの赦しと癒しの愛を覚え、心から感謝します。今日の一日も、あなたの愛の中で生かしてください。
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2013. 06. 28  
イエス様は、私たちの名を呼んでくださる「よい羊飼い」です。

ヨハネ福音書10:3-4に「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」とあります。

私たちには羊の違いというのはあまり良く分かりません。

でもパレスチナのよい羊飼いは、本当に一匹一匹を良く知り、その特徴でもって「黒耳」とか、「栗毛足」とかの名前をつけて養うそうです。

まさにそのように、イエス様は私たち一人一人の名をいちいち呼んでくださる方です。

それはすなわち、一人一人の本当にプライベートな状況、牧師にも相談できないような悩み・苦しみまでもいちいち把握してくださっている方だということです。

そして一人一人のために何が有益かを、私たちの思いを超えて把握し、いつも用意してくださる方だということです。

それは本当に私たちの思いを超えています。

だから時として、私たちの願いに沿わないかたちで道が示されることもある。

イエス様がこれは必要ない、良くないと思われたなら、どれだけ私たちが願っても与えられない。

それは裏返せば、病であれ苦難であれ、すべてはイエス様が私たちのいちいちの状況を見て与えてくださったものであるということです。

それは、私たちの願ったことではなくても、やはり私たちにとって良いことなのです。


共に祈りましょう。

命をかけて私たちを養ってくださるよき羊飼いキリストよ。今日も一人一人の名を呼び、極みまで愛してください。今、苦しんでいる方々が、あなたのご配慮を信じて安心して息をすることができますように。
2013. 06. 27  
神から名を呼ばれるという意味で、印象的な場面は、少年サムエルへの主の呼びかけです。

祭司エリのもとで従者として仕えていた少年サムエルは、ある日、神殿で寝ていると、主からの呼びかけを受けました。

しかし、それが主であるとは分からないサムエルは、師であるエリに呼ばれたと思い、三度にわたってエリを起こします。

エリは、「これは主の呼びかけだ」と気づき、サムエルに耳打ちします。

そしてサムエルは、エリの指示通りにふるまい、主なる神からお告げを受けるのです。

サムエル記上3:10です。

「主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。『サムエルよ。』サムエルは答えた。『どうぞお話ください。僕は聞いております。」


主はいつもこのように、私たちが主を知らないうちから、私たちのすべてを知り、名を呼んでおられます。

今日もそれぞれの現実の中で、心騒ぐ時もあるでしょう。

しかし、「どうぞお話ください。僕は聞いております」と、静かに耳をすまして聖書を開いてみましょう。

あなたのことを、あなた以上に知っておられる神が、あなたに必要なことを語ってくださいます。


共に祈りましょう。

主よ、今日も私たちは、大いなるあなたの手の中で生かしていただくことを感謝します。今日も私たち一人一人に呼びかけてくださり、弱さを覚えている者たちにも勇気を与えてください。
2013. 06. 26  
神が名を呼んでくださるとは、その人のすべてを知り、覚え、愛されることだと確認しましょう。

聖書においては、いつも神から呼びかけられることで出会いは始まります。

モーセの場合、ホレブの山で燃え続ける柴に見とれて近づいていくと、神から呼びかけられます。

「主は、モーセが道をそれて見に来るのをご覧になった。神は柴の間から声をかけられ、『モーセよ、モーセよ』と声をかけられた。(出エジプト3:4)」


そしてモーセはこの後、神の遠大な救いの計画を示され、それを実行するために自分が呼び出されたのだと悟りました。

私たちが名乗り出る前から、神は私たちのすべてを知り、ご自身の目的のために私たちを呼び出されます。

すでに信仰を告白した方々も、まだ告白しておられない方々も、

ご自分はそのようにして神から名を呼ばれ、召し出された、特別な存在であることを自覚なさってください。


共に祈りましょう。

主よ、あなたから名を呼ばれる幸いと畏れを覚えます。今日も、私があなたから呼び出されたことの意味を、よく考え、悟ることができますように。

今、試練と闘う者たちのことも、あなたは全部知っていてくださいますから、おゆだねいたします。彼らの名を呼び、あなたとの特別な語らいの時を与えてください。
2013. 06. 25  
今週は、私たちの名を呼んでくださる神の恵みを覚えて、一週間を過ごしましょう。

神に名を呼ばれるとは、私のすべてが神に覚えられ、愛されるということです。

以下のイザヤ書の言葉の、1節「ヤコブよ、イスラエルよ」のところを、ご自分の名に変えて受け取ってください。


ヤコブよ、あなたを創造された主は
イスラエルよ、あなたを造られた主は
今、こう言われる。
恐れるな、わたしはあなたをあがなう。
あなたはわたしのもの。
わたしはあなたの名を呼ぶ。
水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。
大河の中を通っても、あなたは押し流されない。
火の中を歩いても焼かれず
炎はあなたに燃えつかない。
わたしは主、あなたの神
イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。
・・・・
わたしの目にあなたは価高く、貴く
わたしはあなたを愛し
あなたの身代わりとして人を与え
国々をあなたの魂の代わりとする。
恐れるな、わたしはあなたと共にいる。(イザヤ43:1-4)


共に祈りましょう。

主よ、あなたが私や私の愛する者たちを、今日も覚えて忘れないでいてくださることを感謝します。あなたのノートに書き留められたすべての名の持ち主に、平安と慰めをお与えください。
2013. 06. 22  
今週は「ほんとうの友」について思いを深めてきました。

昨日分かち合った御言葉は、深遠な御言葉でしたが、「友のために命を捨てる」というイエス様の覚悟が示されていました。

同時に、あなたたちもまた、わたしに愛されたように愛し合いなさいとの、命令でもありました。

その昨日の言葉の続きに、こうありました。

「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているのか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。(ヨハネ15:15)」

今や、私たちはイエスの友と呼ばれます。

イエス様が何をしておられるのか、何をしたいと願っておられるのかを、知らされているからです。

イエス様はその全生涯をかけて、この地上に神の愛を伝えてくださいました。

そして、私たちが愛を取り戻し、互いに愛し合い始めることをただひたすら願われました。

ならば私たちは、イエスの友としていただいた者たちとして、精一杯の誠実を尽くして、そのイエス様の願いをかなえてさしあげたいではありませんか。



共に祈りましょう。

主よ、今週も自分のことばかり考えていた自分を恥じます。イエスの友と呼ばれるにふさわしくなることができるように、私たちに神への愛と隣人への愛を増し加えてください。

2013. 06. 21  
いい映画やいい歌というものは、理解不能な部分が必ずあるものだと、昨日妻と話していました。

自分がこれまで考えてきたことや知っていることの「中」でおさまるものではなく、その枠の「外」にあるものこそ、本当に観るべきもの、聴くべきものです。

小さい自分の内側で、「よく分かる」ことばかり受け取っていても、自分の器が大きくなっていきません。

むしろ、どんどん小さく貧しくなっていく。


イエス様の言葉も平易で分かりやすいですが、本当は決して「よく分かる」ものではありません。

イエス様はいつも、わたしたちが聴いたことのない福音を伝え、考えたことのない新しさへと引き上げようとしてくださいます。

考えてみるとこの言葉も、謎のような言葉です。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。(ヨハネ15:12-14)」

今日はこのまま、「よく分からない」まま受け取って、みなさんの心に蓄えてください。



共に祈りましょう。

主よ、あなたの示してくださった愛は、わたしたちの思いを超えていて、とても把握することができません。大いなるあなたにすべてをゆだねます。主よ、わが友よ、今日もわたしたちを良く導きたまえ。
2013. 06. 20  
レビ記19章17,18節「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。・・・自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」

これは、律法の要約として主イエスも大事にされた、隣人愛の教えです。

このレビ記の19章は、「あなたたちは聖なる者となりなさい」と目的が示され、様々な戒めが与えられているところですが、その中でも特に大切なのがこの愛の教えです。

聖を目指すというのは、一人だけで潔癖を志すことではありません。

聖なる者となるということは、人を愛する者となるということと一つのことです。

誰とも関わらない隠者として聖なる生活を志向しても、それは試されたことのない聖さであって、本物ではありません。

本当の聖性は深く関わりあう人間関係の中に現れてきます。

互いに聖なる者をめざし、過ちを率直に戒めあうことのできるような、ほんものの友情を求めていきたいものです。


共に祈りましょう。

主よ、本当の愛を、私たちに教えてください。互いに誠実に向き合い、時には過ちをただし合い、本当の友情を育むことができますように。そういう友を与えてくださいますように。
2013. 06. 19  
「鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される。(箴言27:17)」

どんな友を得るかで、人生は決定的に左右されます。

スポーツの世界でも、「あのライバルがいなかったら、ここまでの成績は残せなかった」という、大選手の声をよく聞きますね。

神から与えられた命に、全力で取り組み喜び楽しむ「友」の存在によって、わたしたちは磨かれて人格を高められます。

その逆もしかりです。

互いに足を引っ張り合い、なれあうことで、自分を低レベルにとどまらせる友情関係があります。

聖書はわたしたちに、よい友を判断するためのモノサシを与えてくれます。

そして私たち自身が、誰かにとってのよい友となるための、道を示してくれます。

聖書から、イエス・キリストの生涯を学び、真実の友とはどういうものであるかを学んでいきましょう。


共に祈りましょう。

主よ、今日もわたしたちが、互いに高めあう信仰の友であることができますように。どうか若者たちが、人生をよきものとするために、よい友と出会うことができますように。なにより、イエス・キリストと出会うことができますように。
2013. 06. 18  
今週は「ほんとうの友」というテーマで一週間を過ごします。

サムエル記上20章に、ダビデとヨナタンの友情を伝える故事があります。

その最後にこういう言葉があります。

42節「ヨナタンは言った。『安らかに行ってくれ。わたしとあなたの間にも、わたしの子孫とあなたの子孫の間にも、主がとこしえにおられる、と御名によって誓い合ったのだから。」

単なる人間的なつながりを超えた、主に結ばれた永遠の絆です。


この絆はまた同時に、祈りの絆でもあります。

わたしたちの信頼に応えてくださる主を信じ、共に心を上げ、共に祈りを合わせる、信仰の絆です。

日曜日にも、高熱を出してお休みした幼いTくんのために、日曜学校の子どもたちが、癒しを求めて祈りを合わせました。

わたしたちも互いに祈りあいましょう。

特に今、すい臓の病で体を弱めておられるK姉のため。Kくんのてんかんの癒しのため。

そして今日は午前10時から、Y姉の目の手術がなされる予定です。



共に祈りましょう。

わたしたちを結んでくださる永遠の主よ。あなたのもとで、老いも若きも心を合わせ、互いを思いあい、あなたに向かって祈りあう幸いを感謝します。どうか今、試練の中にあるわたしたちの友を、どうかお守りください。



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勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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