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2013. 11. 16  
昔の旅人は、道に迷ったら北極星を見上げたそうですね。その星は、いつも変わることなくそこにあって、方向を修正させてくれる。

私たちも、信仰の旅路の途中で迷ってしまったら、神を見上げねばなりません。

人を見てはいけません。地上のことばかり見すぎてはいけません。

いつも変わることなく、永遠に輝き続ける希望の光を見上げましょう。

一週間の旅路の中で、迷って、悩んで、混乱して、疲れてしまった心をリセットして、神を見上げるのです。

そして、「私たちはどこから来てどこへ行くのか」を確認させていただくのです。

週に一度、日曜日に集まって礼拝するのは、そんなリセットのためでもあります。


アブラハムも、旅から旅へと動きながら、節目ごとに祭壇を作り、主なる神に礼拝をささげました。

「 アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。(創世記12:8)」

礼拝に来ることのできない方もいらっしゃると思いますが、それぞれの時間を取り分けて、「主の御名を呼ぶ」ことに努めてください。

道を見失ってしまわないように・・・。


共に祈りましょう。

主よ、今週も色んなことがありました。嫌なこともありました。疲れたり、動揺したり、イライラしたり・・自分の弱さが悲しくなります。主よ、あなたを見上げさせてください。この心を、永遠の光で照らしてください。
2013. 11. 15  
私たちは、荒れ狂う海で揺れ動く、小さな舟に乗っているようだ。

それは本当に小さくて、笹舟に乗っているようだ・・と、ある方が言っておられました。

マルコ福音書4:35~41のくだりに、こんなやりとりがあります。

「激しい突風が起こり、舟は水をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫(とも)の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、『先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか』と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。』」

「なぜ何もしてくださらないのか!!わたしたちがおぼれてもかまわないのですか!!」

わたしたちも、こんな風に叫びたくなる時がありませんか・・。

でも、「なぜ信じないのか・・」とイエス様は言われます。

これは、「なぜ私の力を信じないのか」ということと同時に、「なぜ私の愛を信じないのか」ということでもあります。

主は、私たちがおぼれてもかまわないなどと、思っておられるわけがありません。

だから、恐れずにいきましょう。

笹舟のような小さな舟にも、力と愛に満ちた方が、一緒に乗っていてくださいます。


共に祈りましょう。

主よ、恐れと不安に心縛られてしまう私たちです。どうか、信仰を与えてください。地上のことばかり見てしまうこの目を開いて、あなたの力と愛を見させてください。
2013. 11. 14  
今日は、ただ自分自身のために、エレミヤ書の1章を読み返しています。

神学生として悩みの中にあった時、4~8節の言葉を通して、牧師として立つ勇気を得ました。

今日は特に、5節だけ紹介します。

「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」

エレミヤのような大預言者の召命と、私の召命は違います。でも神は、私のことも同じように、生まれる前から知っていてくださって、クリスチャンとして、そして牧師になるようにと、選んでいてくださったんだなと、この言葉から教えられました。


どうしてこんな私が、神学校になんか来てしまったのだろう?来てよかったのだろうか・・?

自分の内面的な大きな欠けに悩み、同時に働きの困難さから逃げたくなっていましたが、「これは神が私に用意しておられた道なのだ」と、覚悟して受け入れることにしました。

神に選ばれた、・・・それだけが私のよりどころです。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。(ヨハネ15:16)」


共に祈りましょう。

主よ、あなたは私たちを創造し、選び、こうしてあなたとの出会いへと導いてくださいました。あまりにも不思議な導きを思い起こします。この先の道も、あなたが導き開いてください。
2013. 11. 13  
日曜日に、神戸の板宿教会でこの御言葉を分かち合ってきました。

「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない。(詩編62:2-3)」

イエス・キリストにおいて示された神の愛に、ひたすらに信頼して、静かに静かに、沈黙して祈りに向かう信仰者の姿が思い浮かびます。

心のざわめきや、不安や、恐れを、すべて主にあずけるようにして、静かに祈る・・・。


私は、22歳の時に板宿教会に通い始め、キリストの世界に初めて触れましたが、まさにこの詩篇62篇の詩人のように静かに祈っておられる、おじいさんおばあさんたちの姿を見て、「神に信頼して生きる」ということの尊さを知ったものです。

よい祈りのお手本にたくさん出会えたことは幸いです。

その中のお一人の姉妹は、95歳になられました。体は衰えが目立っておられましたが、魂の健やかさが伝わってきました。

今日は祈祷会です。私たちも、沈黙して神に向かい、自分が立つべき拠り所を確認しましょう。

若い方々にも、ぜひ祈祷会に来てほしいと思っています。来年からは、夜の祈祷会も開始しますので、覚えてご出席ください。


共に祈りましょう。

主よ、今日も何が起きるのか、私たちには不安がいっぱいありますが、あなたを信頼いたします。あなたこそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔・・。主よ、この一日をお守りください。

2013. 11. 12  
今週私は、母教会である神戸の板宿教会で、説教奉仕をさせていただきました。

いろんな方と旧交をあたためましたが、とても心強かったのは、一組のご夫婦の存在です。

彼らは、私や妻と同級生の39歳です。ご主人の方は、私の妻と同じく、長老のご子息。

奥さんは、私と同じ時期に、同じようにパートナーに連れられて教会に通い始め、私より数日先に洗礼を受けました。

そして、私たちが結婚した数日後に、彼らも結婚しました。

そんなお二人が、今や教会にとって頼もしい存在となり、ご主人は長老候補として明確な自覚をもっておられます。

彼は私とは正反対のタイプで、そんなに親しく交流しているわけではありません。

でも、ずっと前から、信仰の友として、本当に信頼できる方だと思っていました。

今回別れ際に、寡黙な彼が歩み寄ってきてくださって、「がんばりましょう」と声をかけてくれました。

それは、主イエスのため、主の教会のため、それぞれに与えられた役割にお互い励みましょうとの、思いがこもった一言でした。

思い出したのは、ローマ12:6-8の御言葉です。

「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。・・・・」

今日も、それぞれに与えられた賜物を豊かに用いて、主と教会のために仕えたいですね。


共に祈りましょう。

主よ、あなたのご栄光のために、今日も貧しい器を用いてください。みなで力を合わせて、神の国を建てあげていくことができますように。今、身動きできない方々も、祈りの賜物を豊かにしてくださいますように。
2013. 11. 09  
昨日ある方から、必死の祈りへの答えとして、驚くべき癒しの奇跡が与えられたこと、

そして、その時に垣間見た大いなる光についての証しをいただきました。

会社の同僚やご家族からは、そんな馬鹿な・・と、あきれられてしまうそうです。

でも、私たちは、それはすばらしい!!と賛美することができるはずです。


聖書には、神の驚くべき御業についての、たくさんの証しがあります。

それらは、いつも神を知らぬ人々からは、そんな馬鹿な・・とあきれられてきたのです。

でも神の民は、「これは本当なのです!!」と、4000年にわたって証しをし続けてきました。

本当に海が割れて助けられたのです!!本当に盲人の目が開いたのです!!本当に主イエスは復活したのです!!・・・


「わたしの神、主よ。あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。あなたに並ぶものはありません。

わたしたちに対する数知れない御計らいを、わたしたちは語り伝えていきます。(詩篇40:6)」

主を信じ従う者は、決して見捨てられることはない。

今週与えられた、様々な驚きの御業を振り返り、主を賛美して、共に祈りましょう。


主よ、あなたの力を信じます。これまでにも、あなたはたくさんの御業を示してくださいました。あなたの愛を証しします。今、試練の中にある者たちの祈りに応え、栄光をあらわしてくださいますように。
2013. 11. 08  
讃美歌511番は、私の大好きな讃美歌のひとつです。

「イエスきみよ、このままで、我をこのままで、救いたまえ」

繰り返されるこのフレーズに、祈りを合わせていく時に、いつもこみ上げてくるものがあります。

この歌は、詩篇102編をモチーフにしていると言われます。

詩篇102篇の表題は、「祈り。心挫けて、主の御前に思いを注ぎだす貧しい人の詩(1節)」です。

「貧しい人」というのは、欠け多い自分の、ダメさ、弱さ、卑怯さに嫌気がさして、神様の前で、悩み落胆してよりすがる人です。

そして102篇は、こういう祈りで始まります。

「主よ、わたしの祈りを聞いてください。この叫びがあなたに届きますように。(2節)」

私も、自分の罪深さに落ち込み、祈りながら、気付けば涙を流して叫んでいたことがあります。

「助けてください。主よ、どうしたらいいか分からないのです・・。助けてください。この惨めな罪人を、どうか助けてください・・。」

主は、そんな貧しい私の祈りを、いつも聞いてくださり、「我をこのままで」助けてきてくださいました。

だから私は、そんな主のために、新しくされたいと願います。


讃美歌511番4節の言葉をもって、ともに祈りましょう。

「みわざを世になす、力あるものと、我が身もこころも、ならせたまえ。」

主よ、あなたからの使命を、この世において成し遂げる、力あるものに、私の体と心を作り変えてください。

イエス君よ、このままで、我をこのままで、救いたまえ。
2013. 11. 07  
今日のリジョイス(聖書日課)は、出エジプト記19章です。

読んでいましたら、主なる神は「恐るべき方」であることを改めて思わされました。

「モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。・・・(出エジプト19:17,18)」

凄まじい光景です。

爆音と炎と地響きにイスラエルの人々は圧倒されて、「この神に近寄ることはできない・・」と恐れ(畏れ)を抱いたことでしょう。


日曜日の御言葉(マタイ8:1-4)にも、聖なる神に近寄ってはならないと定められていた、重い皮膚病患者が登場しました。

私たちは本来誰もがこの人のように、「汚れた者」として、恐るべき神に近寄ることのできない者たちです。

しかし、そんな私たちに対して、人となられた神の子の方から近づいてきてくださって、手を差し伸べて、触れてくださる・・・。

私たちの汚れを引き受けるようにして・・・。

この御子の贖いの血による清めのゆえに、今や私たちは、大胆に神に近づくことが赦されています。

もはや神は、恐ろしい遠い方ではありません。

私たちのお父様として、その大きなふところに、すべてを受け入れ、抱いてくださいます。


共に祈りましょう。

主よ、御子キリストの愛のゆえに、大いなるあなたを近くに覚えることが赦された、この身の幸いを感謝します。今日もあなたが抱いていてください。お父様、背負っていてください。
2013. 11. 06  
老いと病と死に向き合う方々のことを思う時に、こんな祈りの言葉が頭をよぎります。

「わたしが老いて白髪になっても、神よ、どうか捨て去らないでください。(詩篇71:18)」

神からの答えは、こうです。

「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。

同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで背負って行こう。

わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。(イザヤ46:3,4)」


私たちは誰も、産声をあげたその瞬間から、母や父に抱かれてきました。

我が家の子どもたちも、父に抱きしめられることを日課としているようで、いつもじゃれついてきます。

(そのうち、見向きもしてくれなくなるでしょうが・・)

今や、そんな風に抱っこしてくれる人はいないかもしれません。

でも神は、あなたをいつまでも背負って行くよと、今日も言っていてくださいます。

心細くなった時は目をつむり、この御言葉を何度も口ずさんでください。

神の背中のぬくもりが、だんだんと広がってきます。


共に祈りましょう。

主よ、あなたが背負ってくださるから、わたしは今日もがんばれます。主よ、心から感謝します!!老いた者にも若い者にも、生きる勇気と慰めを、この一日に満たしてください。
2013. 11. 05  
最後の審判と言うけれど、そんな時はいつまで経っても来ないではないか?

こういう疑いに対する答えです。

「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。

主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。

そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。(Ⅱペトロ3:8-9)」

先週、ある方との大切な語らいを通して、思い起こした御言葉です。


大事なのは、今日も主は、私たちが悔い改めるのを、忍耐して待っておられる、ということです。

悔い改める。すなわち、自分の罪を知り、これまでの歩みを悔い、これからは主のために生きようと向きを変える。

信仰を持っているからといっても、誰もがまことの悔い改めに至っているわけではありません。

若い時には分からなかったことが、長い生涯を歩んでくる中で、ようやく分かってくる・・、そんなこともあります。

主は、信じる者の罪を赦してくださいます。でも、その赦しの恵みが分かるまで・・、すごく時間がかかるものです。

主は、あなたの悔い改めを、ずっと待っておられます。ずっと待っておられたのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日もあなたは、私たちの悔い改めを待って、新しい一日を与えてくださったことを感謝します。このように祈りながら、悔い改めるとはどういうことか、少しも分かっていない自分がいます。主よ、この心を砕いてくださって、まことの悔い改めに至らせてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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