FC2ブログ
2013. 11. 30  
日曜日に与えられた御言葉を振り返りましょう。

たくさんの人に癒しの恵みを与えてくださったイエス様のお姿の内に、『彼はわたしたちの煩いを負い、わたしたちの病を担った。』というイザヤ書53章の預言が成就していると、マタイは伝えます。

まさに、自らの健康をかえりみることなく、隣人の病を自分の身に引き受けるかのように、ヘトヘトになりながらも真夜中まで癒しの業に明け暮れた、イエス様のお姿を思います。

そのお姿は、十字架の上で、ご自身の命を使い果たしてくださった、まったき献身のお姿に通じます。

イザヤ53:12に、その十字架の主の献身が予告されていました。「彼が自らを投げ打ち死んで、罪人の一人に数えられた。」

「投げ打つ」とは、「かめの水をすっからかんにカラッポにする」という時にも使われる言葉です。

まさにそのように、イエス様は十字架上で、ご自分の命をすっからかんになるまで使い果たしてくださいました。

それは、私たちに、命を与えるためです。

「罪」という、根源的な病を癒すためです。

あなたはすでに、そんな究極の癒しの中に置かれています。


共に祈りましょう。

愛する主よ、今週のすべての歩みも、大いなる癒しの手の中で導かれてきたことを思い、感謝をいたします。イエスの命の代価によってあがなわれたこの人生を、精一杯生き、あなたの栄光を表すことができるようにしてください。
スポンサーサイト



2013. 11. 29  
旧約聖書の一番最後の書であるマラキ書の、その最後に、こういう預言があります。

「見よ、その日が来る/炉のように燃える日が。/高慢な者、悪を行う者は/すべてわらのようになる。/到来するその日は、と万軍の主は言われる。/彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。

しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。/その翼にはいやす力がある。/あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。(マラキ3:19-20)」


「高慢で悪を行う者」の横暴に苦しんでいる神の民に対して、「その日が来る!!」と、マラキは救いの時の訪れを告げ、未来へと目を向けさせます。

これは、新約への橋渡しをする「キリスト(メシア)」予告です。

凍りついた大地を癒す太陽のように、暗闇を照らし、人間の罪によって荒れ果てた世界を癒し、救う、救い主の到来が約束されています。


すでにこの「義の太陽」は昇っています。信仰の目を開かれた者には、いかに暗闇が濃くても、この太陽が見えるはずです。

そしてこの「義の太陽」が、すべての人の目にも明らかになる、終末の主の再臨の希望を胸に、今日も、暗闇に負けないで歩んでいきたいと思います。



共に祈りましょう。

義の太陽なる主よ、この心を照らしてください。為政者の横暴、教会を揺さぶるサタン、恐るべき病魔、生活の不安・・・色んなかたちで、闇が広がっていますが、わたしはあなたを見上げます。主よ、すべてを癒し、照らしてください。そして主よ、早く来てください!!この世界に完全な慰めをもたらしてください。
2013. 11. 28  
日曜日のマタイの講解説教では、しばらく「病の癒し」に関する記事が続きます。

そこで、「いやす」という言葉を旧約聖書に探してみると、箴言に案外多いことに気付きます。


「軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す。(12:18)」

「穏やかな心は肉体を生かし(原語:いやし)、激情は骨を腐らせる。(14:30)」

「癒しをもたらす舌は命の木。よこしまな舌は気力を砕く。(15:4)」

「親切な言葉は蜜のしたたり。魂に甘く、骨を癒す。(16:24)」

こうして見ると、舌=言葉にまつわる格言が多いですね。

親切で配慮に満ちた言葉が、人の心から怒りを取り除き、平安と慰めをもたらし、存在全体を癒していく・・。


「わが子よ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしの言うことに耳を向けよ。見失うことなく、心に納めて守れ。それらに到達する者にとって、それは命となり、全身を健康にする。(4:20-22)」

これを、父なる神から、子である私たちへの語りかけとして受け取り、今日も聖書を開きましょう。

隣人の言葉に期待すると失望すること多いですが、神の言葉は、知恵と配慮に満ちて道を示し、全身を健康にしてくれます。


共に祈りましょう。

主よ、今日もあなたの甘美な御言葉によって、この存在全体を癒し、健やかな一日を過ごさせてください。病で苦しんでいる者たちにも、御言葉の癒しがありますように。
2013. 11. 27  
朝日新聞に、私の悪人論という興味深いインタビューが連載されています。

昨日の記事は、暴力団専門ライターの方の声でした。

ヤクザ社会の善悪観と、一般の日本人の善悪観は、さして変わりが無い、との切り口でした。

特に、「身内」の利害だけを尊重し、それ以外の人々のことを考えない「身勝手さ」は、日本社会に深く根を張っています。

暴力団のコネで、一般人を押しのけて花火大会の特等席を占拠して、感謝していた人のことも紹介されていました。

自分の利益になるなら、暴力団さえ肯定する。周りの迷惑は考えない。

罪とはまさに、そんな自分中心の身勝手さにあります。

聖書が示してくれている倫理は、その逆を行く隣人愛であり、それはキリストの姿にならう道です。

「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。キリストもご自分の満足はお求めになりませんでした。(ローマ15:1-3)」

間もなくアドベント(待降節)に入りますが、いと高き神の子が、貧しい姿で生まれてきてくださった受肉の事実そのものが、すでに私たちのためのキリストの自己犠牲なのです。


共に祈りましょう。

主よ、身勝手な人々ばかりのこの世界で、私もまた身勝手に生きなければ、心がつぶれてしまうような思いになります。主よ、どうかこの心を、聖霊によって癒してくださって、キリストの姿に似るものに作り変えてください。

*****
昨日、特定秘密保護法案が衆議院で強行採決されました。「どうせ国民はすぐに忘れる」との与党の声があったことも知りました。権力者の傲慢が明らかです。国家権力が悪魔化せぬように、祈りをあつくしましょう。
2013. 11. 26  
日曜日には会員総会があり、新しい長老としてI兄が選出されました。

今後、小会での試問を経て任職されますが、重い召しに応えようとしている兄弟の励ましのために、祈りをあつくしてください。

奥様のM姉は1月に出産を控えています。安産と、ご家族の平和をお祈りください。

また、Kくんが、日曜日以来発作を繰り返し、発熱もあって不安定な状態です。癒しをお祈りください。


****
昨日、お休みをいただいて、高畑勲監督のアニメ映画「かぐや姫の物語」を観て来ました。大変美しい映画でした。

心に残ったのは、「天からの思し召しじゃ」と姫を愛し育てていく翁の姿です。

日本人の宗教観を理解するためには、八百万の神々とか、先祖崇拝などを考える以上に、この「天」という概念を考えることが大切だったのだと、ハっと気付かされた思いです。

それは聖書で言う「天」とは違うもので、私たちにとっての「神」に少し通じるものがあります。

しかし決定的に違うのは、聖書の神は、言葉を通してご自分の思いを表してくださる神であることです。

「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。(ヘブライ1:1-2)」

この、「語られた」神の言葉が、聖書に確実に記録されています。

かぐや姫の翁は、物言わぬ「天」の「思し召し」をはかり損ねて、結局かぐや姫の心を悲しませます。

私たちは、聖書をよく読み、牧師の導きに聴き、「神」のお考えをよく悟って今週も歩みたいものです。


共に祈りましょう。

すべてのものの上にいます大いなる神よ。今日も、悩み、迷い、揺れ動くわたしたちを、御言葉と御霊によって正しく導いてください。

2013. 11. 23  
ジュネーブ教会教理問答を読み返していますと、心に迫る言葉にたびたび出会います。

問28には、「神はかれら(=悪魔や悪人)を・・許された範囲でしか動けないように、かれらの手綱を押さえています」とあります。

これは、私たちにとって平安と喜びを与えてくれる真理です。


悪魔の暗躍を思わされることがしばしばあります。

例えば、今、特定秘密保護法案が成立に向かっていますが、これは国家権力の悪魔化・暴走を加速させる危険なものだと、私は憂慮しています。

身近なところでも、良心の平和を乱してくる誰かの罵声・・、恐れと不安に引き込む病魔の力・・、主の道から外れさせようとの誘惑の声・・

今週も色んな場面で、悪魔が暗躍していることを思わされる日々ではなかったでしょうか。

しかし、それらの悪魔の働きも、主の大いなる手の中にあるのです。

主は確かにその手綱を押さえて、悪魔の思うままにはさせず、むしろ最終的に神のご計画が実行されるようにコントロールしていかれます。

「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。(ローマ16:20)」



共に祈りましょう。

主よ、心騒ぐことの多い一週間でした。この土曜日、私たちの心を整え、あなたの大いなる力と権威を思い起こさせてください。そして、新たな賛美をもって、日曜日に集えますように。
2013. 11. 22  
今週は、天地を握る主の権威に、がむしゃらにすがりついた百人隊長の信仰に思いをはせています。

思い出したのは、マルコ9:14-29のくだりです。

悪霊により引きつけの病に侵された子の癒しを願う父は、イエス様にこう言いました。

「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」

すると主は、お叱りになってこう言われました。

「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」

父親はすぐに叫んで言いました。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」


私たちは・・・、どこかであきらめていたり、あるいは、祈りが叶えられないことで傷つくことを恐れてしまって・・・

「信じて主に願う」というシンプルなことに、集中できない時がありますね・・・。

でも、そんな私たちの心に信仰を生み出してくださるのも、また主の憐れみです。

必ず海を開き、道を開いてくださる主を、ただ信じぬく。今日もそこから始めましょう。

「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。(ヘブライ12:2)」


共に祈りましょう。

主よ、信仰のないわたしを助けてください。世界のこと日本のことから、身の回りのことまで、内にも外にも不安があふれています。主よ、私の内に、真の信仰を作り上げてください。
2013. 11. 21  
神の「権威」ということについて考えてみましょう。

「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。(ルカ12:4-6)」

クリスチャンは、王様や総理大臣よりも、「権威ある方」を知っています。

天地を握り、命を握り、死後の世界までその手におさめておられる、大いなる神を恐れます。

だからキリスト教徒は、ローマ帝国の時代以来、時の権力者からにらまれ、民衆からも疎んじられました。

でも、・・・恐れることはない。

今や、その「地獄に落とす権威をお持ちの方」が、あなたの味方でいてくださる。

あなたの髪の毛一本さえ、無駄に落ちることがないように守っていてくださる。

だから、恐れるな。あなたがたの存在は、神の目に価高く、貴い・・・。

それが、イエス様のメッセージです。


共に祈りましょう。

大いなる主よ、あなたの翼の影で、今日も僕らをお守りください。私たちの現実を圧迫する様々な世の力、病、貧しさ、死・・・でも主よ、強く雄々しくあることができますように、私たちの命を励ましてください。
2013. 11. 20  
カルヴァンが作ったジュネーブ教会教理問答を読んでいます。

この問答は、人生の主な目的とは、また最高の幸福とは、神を知ることだと答えます。

また、正しく神を崇め、神を知るために、第一の要になるのは、神を信頼することだと言います。

そして、神を信頼するためには、ただ神様が不可能のないすごい方であるとか、パーフェクトな方であると知るだけでは不十分です。

それを知るだけでは、神は私たちにとって遠い方、恐るべき方のままです。

「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。(イザヤ6:5)」

これは、神の現臨に触れてしまった、預言者イザヤの反応です。

わたしたちもまたイザヤと同じ、汚れた罪人です。だから、神の偉大さを知れば知るほどに、ただ恐ればかりが募ってしまう・・・。

では、どうすればいいのでしょうか。

問答は答えます。「神がわたしたちを愛してくださっていること。わたしたちの父であり、救い主であることを欲しておられることを、確信することです。(問12)」

わたしたちは、そのように信じていいのです。なぜなら、そのように聖書に書いてあるからです。

だから今日も、わたしを愛してくださる神に、信頼して歩みましょう。

そのような方として神を知り、神を崇めることこそ、私の命が輝きだす道です。


共に祈りましょう。

こんな私たちを愛してくださる主よ。今やあなたが私の救い主として、その全能をもって、髪の毛一本さえ無駄に落ちることがないように、私を守っていてくださることを信じます。主よ、今日も無力な私を支えてください。

2013. 11. 19  
日曜日には、マタイ8:5-13より、百人隊長の信仰に学びました。「ただ、一言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。(8節)」

彼は、愛する僕の癒しのために、神からイエスにゆだねられていた「権威」によりすがりました。

イエス様は、天と地の一切をその手に握る「権威」をお持ちです。それゆえに、この方の発する一言は、すべてを変えてしまう力があります。


折りしも昨日、高知の牧田吉和牧師から、1830年代オランダの小さな寒村に生きた、ヘンドリック・ドゥ・コック牧師について教えていただきました。

当時のオランダは、哲学的でこの世の知恵に満ちた説教が支配的でしたが、コック牧師は聖書とカルヴァンに学び、聖書の言葉にどこまでも忠実な説教、聖書の福音を語り続けたということです。

その福音の言葉を聞くために、遠くは60キロ離れたところから歩いて人々は集まり、小さな教会には人が入りきれなかったとのことです。

人々が聞きたかったのは、天と地の一切をその手に握る「権威」ある方の言葉です。

その言葉を忠実に取り次ぐ者の声は、どれだけ小さな、世界の片隅から発せられる一言でも、すべてを変えてしまう力があります。

語る者も、聞く者も、すべてがこの信仰に敢然と立つ時に、確かにそこに救いが起こるのです。


共に祈りましょう。

主よ、大いなる主よ、世界はあなたの言葉によって創造され、秩序がもたらされました。権威あるあなたの言葉によって、今日も私たちを作り変えてください。今日、病に向き合う者に、その言葉によって根源的な癒しをお与えください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
FC2ブログへようこそ!

検索フォーム
カテゴリ
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR