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2013. 12. 31  
今年最後の一日です。1月1日から今日にいたるまで、一年間、皆さんと共に御言葉の黙想を継続することができ、本当に感謝しています。

一年の恵みをあれこれ思い巡らしていましたら、この御言葉が心に浮かびました。

「神のなされることは皆その時にかなって美しい。(コヘレト3:11口語訳)」

その前には、有名なコヘレト3:1-8があります。

「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」と、人生のいろいろな「時」が数えられます。

生まれる時、死ぬ時
植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時
破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時
嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時
抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時
保つ時、放つ時
裂く時、縫う時
黙する時、語る時
愛する時、憎む時
戦いの時、平和の時


この一年・・・、新しい歩みを始めた方もいれば、病が与えられた方もいらっしゃいます。

個人的には、色んなことが思うようにならないで、欠けを覚えて「嘆く時」もありました。

でも神は、その一つ一つの苦悩を通し、私を打ち砕き、より繊細な霊的感性を育んでくださいました。

まことに、神のなされることは皆、その時にかなって美しい・・・。

振り返れば、一秒ごとが愛おしい。

2014年に生きることを赦されるならば、また一秒ごとをいつくしんで、主イエスと共に、そして皆さんと共に、歩んで行きたいと願います。



共に祈りましょう。

時を生み出し、時を支配される主よ。はじめを与え、終わりをもたらされる、大いなるあなたの手の中で、2013年の歩みをゆるされたことを感謝します。この一日、大切に時を過ごしながら、あなたの尽きせぬ恵みを数えさせてください。


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2013. 12. 28  
「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。(使徒2:38)」

この言葉にあるように、洗礼を受けた者は、「自分は罪赦され、聖霊を受けている」と確信することができます。

日曜日に洗礼をお受けになったH姉にとって、今週は「聖霊を受けた者」としての自覚をもって過ごす、最初の一週間でした。

私の中に、確かに聖霊が生きていてくださる。

そして今や、私の中ですばらしい業を始めていてくださって、必ず「命」をもたらしてくださる。

その実感はあったでしょうか・・・?

先に洗礼を受けた方々にも、その実感はあるでしょうか・・・?

なにも、洗礼を受けたからといって、魔術的に変化が起こるわけではありません。

まだ洗礼を受けておられなくても、すでに「聖霊」の内住を強く覚えておられる方もいらっしゃるでしょう。

大切なのは、聖霊のお働きを信じ、求めることです。

求める者に、聖霊は必ず答えてくださって、みずみずしい「命」を行きわたらせてくださいます。

どんな苦しみの中でも、悩みの中でも、慰めと希望の主なるイエス・キリストと強く結びつけ、心を救いあげてくださいます。

「あなたがたの中で善い業を始められた方(フィリピ1:6)」が、今日も豊かに働いてくださいますように。


共に祈りましょう。

生命の与え主なる聖霊よ、あなたがこの私の内で生きていてくださる・・、この喜びをもっと大きく教えてください。今週のすべての時間を、感謝をもって振り返ることができますように、この貧しい心を整えてください。
2013. 12. 27  
印西市というのは実は、明治期にロシア正教会の教会がいくつもあった土地です。

先日、TCUの歴史学の授業の一環で、先祖が信者だった方の家を訪問し、イエス様を描いた古い「イコン(聖像)」を見せていただきました。

そういう正教会の伝統によると、イコンにおいて赤ん坊イエス様の産着は将来の死に装束を、飼い葉おけは棺を示すと言われます。

ご降誕は苦しみの始まりであり、十字架への道の始まりであるとの理解が強くあるのです。

それは、22日の礼拝で読んだローマ書の御言葉にも示されていたことです。

「・・つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において、罪を罪として処断されたのです。(ローマ8:3)」



神は、最愛の独り子イエスを、罪深いわたしたちと同じ姿でこの世に遣わし、

わたしたちの身代わりとして、また代表として、イエス様に全責任を負わせ、

イエス様を処刑することによって、わたしたちの「罪」を一度完全に断罪し、もう帳消しということにしてくださいました。

十字架にかかって死ぬことで、そんな「罪の贖い」をなす・・・、イエス様はそのために生まれてきてくださったのです。


共に祈りましょう。

父よ、最愛の御子を、受難の生涯へと遣わしてくださったほどに、あなたが愛してくださっていることを、降誕節のこの時に、ことさらに覚えて感謝します。あなたのご栄光があらわされますように。
2013. 12. 26  
世間では、昨日でクリスマスは終わり、年末モードですね。教会でも、ツリーを片付けました。

でも、教会暦でいいますと、昨日からが降誕節。救い主が与えられたという恵みを想起する時は、始まったばかりです。

イザヤ書の御言葉を味わい、「救い主」を見上げましょう。

私たちを「わたしの民・わたしの子」と呼び愛してくださる、神の「憐れみと慈しみ」を確認し、今日も心を高く上げましょう。


イザヤ63:7-9
わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を。
主がわたしたちに賜ったすべてのことを。
主がイスラエルの家に賜った多くの恵み、憐れみと豊かな慈しみを。

主は言われた。彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。
そして主は彼らの救い主となられた。
彼らの苦難を常にご自分の苦難とし、
御前に仕える御使いによって彼らを救い、
愛と憐れみをもって彼らをあがない、
昔から常に、彼らを負い、担ってくださった。



共に祈りましょう。

主よ、あなたが私の救い主でいてくださることを感謝します。あなたの恵み、憐れみ、慈しみに、今日もこの身をおゆだねします。

今、病の中にある者の苦難をも、あなたはご自分の苦難としてくださっていることを信じます。主よ、今日も共にいてください。私たちを背負い、担い続けていてください。
2013. 12. 25  
昨日のキャンドル・サーヴィスは、本当に祝福された夜でした。

真っ暗な礼拝堂を照らす、小さなロウソクの光を見つめると、やはりこの言葉を思い出します。

「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(ヨハネ1:5)」



クリスマスの夜に、この暗い暗い世界に、イエス・キリストという小さな光がともされました。

しかし、この暗い世界は、深い闇を抱えた人間たちは、この光のありがたさを理解せず、そして、拒みました。

あらゆる倫理が狂い、みんな自分のことに必死で、人々の愛が冷えています。

世の秩序がまったく覆って、すっかり闇の中にあるというのに、キリストに何ができる?(詩篇11:3参照)

キリスト者に何が出来る?この時代に宗教が何の力を持つ?永遠の命に生きるということに何の魅力がある?・・・・

こんな風に、光を受け入れなかったのは2013年の日本だけではありません。最初のクリスマスの夜から、ずっとそうだったのです。

しかし、「理解しなかった」と訳されている言葉には、「阻止できなかった」という意味もあります。

暗闇はいつも、光をのみこもうとします。しかし、光を阻止することはできなかった・・・。

神がともしてくださった小さな小さな光は、決して暗闇に打ち負かされることなく、2000年の時を越えて、今も輝き続けているのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日もあなたの命の光で、この暗い世界を照らしてください。私の中の深い闇を照らしてください。今、病の中で、試練の中で、暗闇に襲われている者にも、希望の光を見出させてください。
2013. 12. 24  
今日は19時半からキャンドル・サーヴィスを行います。心よりお待ちしています。

先の日曜日には、H姉の洗礼式が執り行われ、「この人の罪が洗われた」と確認させていただきました。

イエス・キリストは、私たちを「罪から救う」ために来てくださった救い主です。

有名なヨセフに対する天使のお告げの場面で、こう言われています。

「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を“罪から救う”からである。(マタイ1:21)」


ウクライナ人の友人から、ウクライナでは伝統的にクリスマスを、自分の「罪」を見つめ、悔い改める時として過ごすと聞きました。

クリスマスツリーにリンゴの飾りをするのは、アダムとエヴァが食べてしまった禁断の木の実を象徴しているそうです。

そうして、私たちの根源的な「罪」を深く見つめるがゆえに・・・

その「罪」から救ってくださった方の誕生は、喜びとなるのです。


共に祈りましょう。

罪からの救い主、イエス・キリストの父なる神よ、あなたが与えてくださった救い主に感謝します。わたしたちは、自分の「罪」についてよく分かっていない罪人ですから、どうかこの日、正しく悔い改めることができるようにしてください。

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また、M兄が日曜日にぎっくり腰になられましたので、癒しをお祈りください。
2013. 12. 21  
早朝のホームレスミニストリーから今帰りました。配信が遅くなってすみません。
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いよいよ明日はクリスマス記念礼拝ですね。ぜひ礼拝にご出席ください。

今年のクリスマスは、H姉の洗礼式が予定されています。

主がHさんの心を整えてくださって、イエス・キリストを信じ従うとの誓約を、ふさわしくなさせてくださいますようにと祈っています。


洗礼に立ち会う皆さんも、ローマ6:1-14を読んで、よく備えてください。

「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが・・復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。(3-4節)」

洗礼を受ける者は、十字架のキリストと共に、一度死にます。

その意味で、洗礼式は、古い自分の葬儀です。

しかし、同時に洗礼式は、新しい自分の誕生でもあります。

死者の中からよみがえられた主イエスと共に、まっさらな新しい自分として生まれ変わらせていただくのです。



共に祈りましょう。

主よ、明日、新しい歩みを始めようとしている者に、今日の一日、慰めと平安をお与えください。そして、私たち一人一人も、洗礼式の恵みを十分に受け取ることができますように、よく備えさせてください。
2013. 12. 20  
「ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。

しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、

なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。(ガラテヤ4:8-9)」


「神を知らずに、神でない神々に仕えていた」・・・まさに私たちのことです。

占い、おみくじ、初日の出、破魔矢・・、年末年始には、そんな「神々」の因習をいつも以上に覚えます。

そのほかにも、「神々」の中には、「マモン(=富)」や「どん欲」、「人間の思想」といったことも含まれます。

そういう「神々」すなわち「支配する諸霊」のことを、「この世の小学」だと、黒崎幸吉という先生は翻訳します。

「小学」、それは人間として幼稚な、初歩の段階ということでしょう。

そんな、無力で頼りにならない「この世の小学」に逆戻りしてはならない。わたしたちはまことの神を知っているのだから・・・。

しかし、わたしは神を知っている「大学」で、未信者は「小学」だと蔑むのは間違いです。

大事なのは、「いや、むしろ、神から知られているのだから」という言葉です。

ただ神の恵みによって、神にこの小さな存在を知っていただき、神と深く知り合う特別なステージに招かれた、

この喜びに堅く立って、逆戻りしないようにしたいものです。


共に祈りましょう。

主よ、今日もこの小さな者の一日があなたに知られ、あなたに愛されていることを感謝します。今日も悪の諸霊の脅威から私たちを守ってくださり、心を強く高くさせてください。

※ 明日の早朝、ホームレスミニストリーに出かけます。お祈りください。

2013. 12. 19  
次の日曜日に、公に信仰告白されるHさんをはじめ、皆さんにぜひ覚えていただきたい言葉があります。

ジュネーブ教会教理問答問111です。

「真の信仰」とは何か?という問いに、こう答えています。

「それは、わたしたちに対する神の慈愛についての、確実な揺らぐことのない認識です。」

つまり、「わたしは、どんな時も、何があっても、絶対に神に愛されている」と、どこまでも信じることです。

なぜそんなことを信じることができるか?聖書に書いてあるからです。

自分の考えや、人間の言葉は二の次にして、とにかく聖書に書いてある「神の慈愛」を信じるのです。

こう書いてあります。「だれがキリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・・わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(ローマ8:35-39)」

どんな力をもってしても。目に見えない、悪の諸霊などの勢力をもっても、決して引き離すことはできない。この確信です。

信仰の旅路には、外からの悪霊の揺さぶりと、内なる罪人のうごめきとの戦いが待ち受けています。

その戦いの中で、「自分はなんとダメか・・」と、自分で自分を愛せなくなることもしばしばです。

でも、神はどんな時も、そんなわたしを愛していてくださる。

「わたしたちに対する神の慈愛についての、確実な揺らぐことのない認識」を、持っていいのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日もお一人お一人が、あなたの慈愛に信頼し、強く雄々しくあることができますように。病を得ている者や、試練の中にある者たちも、あなたの慈愛を見失うことがありませんように。
2013. 12. 18  
「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた(マタイ4:24)」

以前に、「きつね憑き」のおばあさんの話を聞いたことがあります。

親戚のおばあさんが、きつねに取憑かれていて、油揚げを料理しはじめたらおかしくなったやらなんたら・・。

日本には、そういう独自の霊的世界観があります。地縛霊だとか、心霊写真だとか・・。

しかし、聖書でいうところの「悪霊に取りつかれている」というのは、そういうこととは違います。

ここでも、色んな病気と並列されていますので、手の施しようのない難病や精神疾患を指して、そのように言っていた可能性があります。

聖書的思考は、日本の迷信に満ちた世界観に比べて、はるかに合理的・科学的です。

とはいえ、「悪霊なんて原始的な古代人の迷信だ」と割り切るのも、聖書的ではありません。

聖書の住人たちは、自分の限界を謙遜に見極めて、見えない霊的世界の脅威をあなどりませんでした。

人間の知恵では解明できないことも、たくさんあるのです。

大事なことは、そんな見えない霊的世界までも、主イエス・キリストの恵みの支配は行き渡っているということです。

このキリストの手の中で、恐れずに行けばいいのです。



共に祈りましょう。

主よ、今日も私たちを脅かす様々な脅威があります。見える脅威からも、見えない脅威からも、どうかお守りください。そして、見えないあなたの恵みの御手を、この心で見させてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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