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2014. 01. 17  
水曜日の祈り会の時に、創世記15:1-5を分かち合いました。

主の約束が成就することはないのではないかと、疲れてあきらめていたアブラハムに、神が力強く再約束して励ましてくださる場面です。

その神の言葉のはじまりが、「恐れるな、アブラムよ。」でした。

聖書の中で、神は私たちに対して何度も何度も、こうして「恐れるな」と呼びかけていてくださいます。

祈り会に出席されたある方が、「天からの『恐れるな』をいただいた」と、恵みを分かち合ってくださいました。

その方は、こう伝えてくださいました。

新約のマリアや羊飼いたちに与えられた「恐れるな」を思い出しました・・。

イエス様の山上の変貌の場面でも、「恐れるな」があることを今また思い知りました・・。

そして、そんな「天からの『恐れるな』」という神の言葉、神の思いが人間となって、地上に生まれてきてくださったのが主イエス・キリストと言ってよいのでは・・との、洞察を示してくださいました。


イエス様は、その生涯をかけて、全存在をかけて、私たちに「恐れるな」と呼びかけてくださいました。

今日も、呼びかけていてくださいます。


共に祈りましょう。

主よ、今日も私たちの内にある「恐れ」を、あなたは知っておられるでしょう。人間を恐れるものです。痛みを恐れるものです。死を恐れるものです。主よ、こんな私を赦してくださり、「天からの『恐れるな』」をこの耳に鳴り響かせてください、
2014. 01. 16  
昨日の歴史学の授業では、「沖縄から日本の歴史を考える」というテーマで学ばせていただきました。

日本という国は単一民族国家などではなく、明確に、琉球民族などを含んだ多民族国家であるとの立場から、歴史を見ました。

大和民族による琉球民族の同化政策は、植民地のそれと同じと言ってもよいでしょう。

踏みにじられてきた沖縄の人々の思いを、私はあまりに知らなさすぎました。

「集団自決」の事実についても学びました。

金城重明牧師の「集団自決を心に刻んで」(高文社、1995年)などから、証言を聞きました。

それは、生き残ることへの恐怖心が死を選ばせたという、あまりにも悲しい歴史の事実です。

日本軍が植えつけた「鬼畜米英」の恐怖と、天皇のために死を選べとの教育の結果です。

日本軍によって殺された・・、沖縄だけが経験したこの歴史を、私たちは見ようとせず、ある人々は隠そうともします。



この「隠そうとする」ことの罪深さを、教授は指摘されました。

日本では、「罪を認める」ことこそ尊い、「罪を隠す」ことこそ恥という、キリスト教的価値観はまったく根付いていない・・。これは教会の責任でもある、と。

「すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。(ヘブライ書4:13)」

この神の前で、「罪を認める」ことからこそ、キリストの恵みの世界は広がります。

そうしてさらけ出した罪は、神が「覆い隠して」くださいます。

「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである。(ローマ4:7-8 ※詩篇32:1も参照)」


共に祈りましょう。

主よ、私たちはあまりにも多くのものを、見ようとせず、隠してさえいる罪人です。どうか赦してください。人間の罪に、そして自分自身の罪に、しっかり向き合う力をください。
2014. 01. 15  
ホセア6:1-3には、こんな悔い改めの言葉があります。

「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。・・我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。・・・」

良い御言葉だなあと、暗唱聖句にしたくなります。

でも、これらの言葉は、口先だけの「偽りの悔い改め」であると考えられています。

ドキッとして動揺してしまうのは、私だけでしょうか・・・。

こういう偽りを語る私たちに対して、「わたしはお前をどうしたらよいのか?」と神は嘆いておられます(ホセア6:4)。

「お前たちの愛は朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ」と。

そして、こう続きます。「わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、献げ物ではない。(ホセア6:6)」

形式的ないけにえではなく、真心からの神への愛を・・・。

「神を知る」、すなわち、神と一つに結ばれるほどの深い人格的交わりを・・・。


私たちの愛が朝の霧のようであっても、私たちを愛してくださる神の愛は、とこしえに、消え去ることはありません。

だからこそ、「お前の愛がほしい」との神からのリクエストを、また招きを、この朝心に刻みましょう。


共に祈りましょう。

主よ、あなたを真実に愛し、信頼し、大切にすることができますように。隣人を真実に愛せますように。自分を真実に愛せますように。あなたを「知る」ことの、本当の喜びを、今日私に教えてください。
2014. 01. 14  
日曜日には、徴税人や罪人らと共に食事をするイエス様の姿に教えられました。

そうやって、はみ出し者たちを受け入れるイエス様のことを、潔癖なファリサイ派の人々は非難します。

しかしイエス様は、このように教えてくださいました。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。・・・わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。(マタイ9:12-13)」

イエス様という方は、罪という根源的病に侵された魂を、赦し、癒してくださる「医者」です。

私たちにはみな、誰にも例外なく、この医者が必要です。私のために来てくださった医者です。

でも、私たちはみな、これまた例外なく、自分がこの方に癒していただくべき病人であるとの正確な自覚を持てないのです。



私たちのもっとも深刻な罪は、自分の罪が分からないということにこそあると、私は思っています。

イエス様は、「あなたは罪深い。認めよ。そして、罪と戦え。」と、病気に向き合わせようとする厳しい医者です。

でも同時にイエス様は、この罪人を全面的に引き受けてくださって、最後まで背負いとおしてくださる、頼もしい医者です。

「あなたの罪は、わたしが引き受ける。・・・だから、わたしのもとに来なさい」と、今日も招いていてくださいます。


共に祈りましょう。

主よ、今日私たちが、あなたとまっすぐ向き合うことができますように。自分の罪とまっすぐ向き合うことができますように。そして、罪が赦され、癒されるという恵みを、もっと深くまで教えてください。

2014. 01. 11  
日曜日の御言葉に立ち返り、「隣人を自分のように愛する」ことに思いを向け、ガラテヤ書の言葉に聞きましょう。

分かりやすい翻訳で引用してみますので、できれば、お手元の聖書も開いてみてください。

「兄弟たち。あなたがたは、本当の自由を与えられるために救われたのである。その自由を、肉欲のために使わないで、お互いに愛し合い、仕え合うために使いなさい。

律法全体は、一言で言えば、「自分を愛するように、自分の隣人を愛しなさい」ということになる。

お互いにののしり合ったり、憎み合ったりしていれば共倒れになってしまう。だから、気をつけなさい。(ガラテヤ5:13-15)」


私たちは、今や戒律に縛られていません。

だから、隣人を愛せない者は救われない、とは教えられていません。たとえ、ののしり合い、憎み合っても、ごめんなさいと悔い改めれば、神は赦してくださいます。

大変虫がいい話ですが、それが福音信仰です。

「これをしてはダメ、あれをしなきゃダメ」という戒律主義からは、自由にしていただいたのです。

しかし、パウロは教えてくれます。「その自由を、愛し合い、仕え合うために用いなさい。」

「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。

同時に、キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、だれにでも服する。(宗教改革者ルターの「キリスト者の自由」より)」


共に祈りましょう。

主よ、今週の自分を振り返る時に、キリストが与えてくださった自由の上にあぐらをかいて、悪しき思いにも引きずられていました。どうか赦してください。そしてどうか、自由で崇高な愛へと、この貧しい者を引き上げてください。
2014. 01. 10  
昨日、I姉をお見舞いし、かわいい赤ちゃんを囲み、祝福を求めてみんなで祈りました。

詩篇131篇を思い出しています。神に対する幼子のような信頼を歌った珠玉の詩篇です。


「主よ、わたしの心はおごっていません。わたしの目は高くを見ていません。

大きすぎることを、わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。

わたしは魂を沈黙させます。

わたしの魂を、幼子のように。母の胸にいる幼子のようにします。

イスラエルよ、主を待ち望め。今も、そしてとこしえに。」


触れれば壊れてしまいそうな、小さな、実に小さな乳飲み子・・・

何もできず、ただ母の働きかけを待つしかない。

「高くを見る」ことも、「大きすぎることを求める」ことも、何もできない。何一つできない。

ただ母の愛にすべてをゆだねて、注がれる恵みを、受け取っていく。


私たちはみな、大いなる神の前で、そんな、乳飲み子と同じなのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちの父よ、あなたを信頼いたします。この無力な者を、永遠に支え続けてくださるあなたの恵みに信頼します。

今、わたしの魂を、乳飲み子のように沈黙させます。主よ、今日もわたしを抱いていてください。

2014. 01. 09  
昨日から夜の祈り会がはじまりました。四人で、祝福された時間を過ごしました。感謝です。

ウエストミンスター小教理第一問を分かち合いました。

「問:人のおもな目的とは何か。
 答:人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」

「答」も大事ですが、まずその前に、こういう「問」が与えられていることの恵みを覚えます。

「人のおもな(=根源的な)目的は何か・・・」わたしたちは、こんな風に問うたことはあったでしょうか。

これこそ、あなたが問うべき究極の「問」だと、神から示されているのです。


人間の根源的な目的は何か、私の生きる目的は何か・・・。
 

私たちがこの世に生まれ、今日も存在しているのは決して偶然ではありません。

私たちはだれも生まれる前より、神から「目的(役割・使命・意味)」を与えられ、選ばれ、創造され、今日も生かされているのです。


「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。 イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。 神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。(エフェソ1:4-6)」

一昨日生まれたばかりの赤ちゃんも、病の床に伏せている方も、みな「神をたたえる」という「目的」を与えられ、今日、生かされているのです。


共に祈りましょう。

主よ、私には「目的」があることを教えてくださって感謝します。今日の一日を、あなたの栄光をあらわし、そしてあなたを存分に喜ぶために、精一杯用いさせてください。
2014. 01. 08  
昨日、無事に出産がなされたと、Iさんから連絡をいただきました。かわいい女の子だそうです。主の祝福を心から祈ります。

また、今日から夜の祈り会がスタートします。19:30~20:30です。

特に若い方々と、リラックスした雰囲気で話し合い、祈り合える時間にしたいと思っています。ぜひご参加ください。

***********
昨日に続いて、「よきサマリア人」のたとえの読み解くポイントをお伝えします。

最も大切なことは、この「よきサマリア人」とは、イエス様ご自身のことだと理解することです。

サマリア人が差別され、軽蔑されていたように、イエス様もつばを吐かれ、十字架にかけられました。

サマリア人が敵であるユダヤ人を助けたように、イエス様も、本当は敵である私たち罪人に、手を差し伸べてくださいます。

私たちは、恩をあだで返す者なのに。神の子を憎んで十字架にかけてしまうような者なのに。



イエス様が「よきサマリア人」、そして私たちは・・・・、

旅人を見捨てていった「祭司やレビ人」でしょうか?確かにそうでしょう。

でも何より私たちは、血まみれで、滅びを待つよりない「傷ついた旅人」その人です。

誰も助けてくれず、罪人同士が互いを傷つけあい、殺しあい・・・、そんな罪の悲惨の中であえぐ「旅人」です。

でもイエス様は、そんな私たちの「隣人になる」ことを実行してくださいました。

そして、こう言われます。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカ10:37)


共に祈りましょう。

十字架の主イエスよ、あなたが示してくださった驚くべき愛に圧倒されます。わたしの隣人になってくださったことを心から感謝します。この愛に貧しい者を、あなたの愛で満たしてくださいますように。



2014. 01. 07  
日曜日は「よきサマリア人」のたとえを分かち合い、愛の業に生きるための心を学びました。

隣人を自分のように愛する。この隣人愛こそ、聖書の教えの中心です。

では、私にとって「隣人」とは誰なのですか?誰を愛せばいいのですか?

こういう問いに対しイエス様は、「よきサマリア人」のたとえを語られました。

血まみれで倒れている旅人を見捨てていく人たちと、危険もかえりみずに旅人を助けて介抱したサマリア人・・・。

そして、イエス様は言われました。

「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。(ルカ10:36)」

大事なのは、「隣人になった」のは誰だと思うかと、言っておられることです。

イエス様への質問は「私にとって隣人とは誰なのですか?」でしたが、イエス様は、そんな問いは無視されます。

だれを愛せばいいのか・・・、そんなことを考える前に、いつでもまずあなた自身が、誰かの「隣人になる」ことを考えなさいと言われているのです。



共に祈りましょう。

主よ、愛することに決定的に貧しい私たちをお赦しください。今日、誰かの「隣人になる」べき時には、私のわずかな時間や体や財産をあなたに用いていただくことができますように。

また主よ、病んでいる者のための祈りを、愛の業として用いてください。また、病んでいる者のささげるとりなしの祈りを、愛の業として用いてください。
2014. 01. 04  
昨日紹介したジュネーブ教会教理問答問172を、もう一度引用します。

「問172:霊的安息とは何ですか。答:それは、主がわたしたちのうちで御業を行うように、わたしたち自身の働きを止めることです。」

この問答は、「安息日を守りなさい」という第四戒の解説の一環として与えられています。

安息日、すなわち日曜日に礼拝を守るという習慣は、私たちが「霊的安息」を覚えることができるようにと、神が定めてくださった制度です。


たった一週間の間にでも、誘惑や試練にさらされて、私たちの魂はずいぶんとさびついてしまいます。

思いわずらって自分のことしか見えなくなったり、エゴにまみれて思い上がったり・・・

だんだんと、わたしの中で「わたし」がのさばり、神様の働きを窮屈にさせていってしまいます。

だから、一週間に一度リセットさせていただいて、神との垂直な交わりの中で、すべての手を休めることが必要です。

そうして、人知を超えた「霊的安息」を覚えて、心と体を解放することを、リフレッシュというのです。


「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。(申命記5:12)」


共に祈りましょう。

主よ、この一週間、古い年が去り新しい年がはじまり、慌しい日々でもありました。明日あなたが、今年最初の日曜日を与えてくださることを感謝します。今日の日に、よき備えをなさせてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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