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2014. 01. 31  
3月3日から8日にかけて、カンボジアへ、ミッショントリップ(短期宣教)に行かせていただきます。

そのミーティングが、昨日ありました。今回私には、10人以上の若者たちの霊的訓練がゆだねられました。責任が重い働きです。お祈りください。

カンボジアは世界の最貧国のひとつです。

ポル・ポト政権時代になされた大虐殺によって、教師などの知識層はのきなみ殺されてしまい、無学で貧しい方々だけが残りました。

それ以降、貧しいゆえに教育を受けれず、教育を受けれないゆえに貧しい・・・この悪循環が続いています。

今回私たちが行かせていただくホザナスクールは、韓国の女性宣教師が建てた、貧しい方々のための学校です。

そこの子どもたちと触れ合うことが旅の主な目的ですが、おそらく何もできないでしょう。

これまで世界の各地に若者たちを導いてきた宣教師が、こう教えてくれました。

「大切なのは、自分たちに何ができるかということより、自分たちが成長させていただくことです。」


世界の悲惨の現実を知り、自分の無力を知り、打ちのめされ、神の御心をたずねて悩み、「隣人になりたい」と胸をふるわせる・・。

そのひとつひとつの心の動きが、やがて大きな実を結ぶための、私たちの成熟に通じることを願います。

「だからわたしたちは、・・・基本的な教えを学びなおすようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。(ヘブライ6:1~2)」


共に祈りましょう。

主よ、狭く小さな世界に閉じこもって、何も見えていない私たちです。主よ、あなたの見ておられる世界を見させてくださって、この魂を、広く、豊かに育んでください。
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2014. 01. 30  
昨日の夜の祈祷会では、「神の栄光をあらわす」ことに関連する聖句を、ひとつひとつ確認してみました。

その中のひとつが、ヨハネ15:8です。「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」

他にも、Ⅰコリント6:20、10:31、Ⅰペトロ2:12などをご確認ください。


聖書全体が、「神の栄光をあらわす」ことこそ、私たちの「根源的目的」であり、存在意義だと示しています。

そういう「自分の本当の目的」を回復されていくというのが、救われるということです。


包丁は、料理のためにこそ用いられるべきで、人殺しのために用いられれば、その本当の輝きを失います。

私たちもみなそれと同じで、「何のために創造されたのか」を見失い、自分の体を間違った仕方で用いています。

イエスは、そういう私たちを、本当の目的へと回復し、私たちが人間として最も輝きだす生き方・死に方へと導いてくださいます。

それが「神の栄光をあらわす」ということなのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの似姿として創造された私たちの、偉大な尊厳を回復させてください。私が今日、自分を本当に大切に扱い、人を愛し、あなたを愛し、あなたの栄光をあらわすことができますように。

2014. 01. 29  
昨日、東関東中会の牧師が集まる教師会で、ある牧師が教えてくれました。

今、教会には様々な新しい方々が、礼拝に出席されるようになった。

その中には、口外できぬ問題を抱えて、逃げ込んでこられたような方もいる。

ただひたすら寂しくて、居場所を求めて教会に来られた独居老人もいる。その方などは、「自分は教会を利用している」なんて、気恥ずかしそうに言っておられるそうです。

でも、それでいいと思うと、牧師は言っておられました。

その方々が何を思っておられようとも・・、彼らが今はまだ、キリストという救い主を必要としておられないとしても・・、

でも、その方々には、キリストが必要であり、教会が必要であると私は確信していると、言っておられました。教会に来ていなければ、自殺していたかもしれない、と。


人間という、自分が分かっていない罪人は、自分に本当に必要なものをも分かっていません。

だから、救い主イエス・キリストを、はじめから必要としている人などいないのです。

でも、神の方で、あなたには本当はキリストが必要なのだよと、強引に手をひっぱり、キリストとの出会いに導いてくださいます。

どういうきっかけであろうが、教会に導かれた方々はすべて、そういう神の手にとらえられた方々なのです。

「看守は・・自殺しようとした。パウロは大声で叫んだ。『自害してはいけない。・・』看守は・・パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、・・言った。『先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。』二人は言った。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。』(使徒言行録16:28-31)」


共に祈りましょう。

主よ、それぞれに自分の狭い世界で生きている私たちをも憐れんでくださって、その外側から、上よりの希望の光で、今日も導いてください。
2014. 01. 28  
渡辺信夫牧師が、イリアン・ジャヤ(ニューギニア島の西半分)の、原住民の伝道者を養成する聖書学校を訪れた際に、生徒の方からこんな言葉を聞いたそうです。

「福音が来るまで、私たちは自分の住んでいるところが全てだと思っていました。しかし、福音が来て、世界を知りました。また、世界に神を信じる人たちがいることを知りました。」

この言葉に、感動されたそうです。

・・・私にとっても、世界が見えて来るのは福音によってではなかったか。これまで世界だと思っていたものは仮構として却下され、福音によって本当の世界が見えてきたのではないか・・・、そんな風に述懐しておられます。


真に「福音」に触れるとは、「自分の世界」が壊され、再構築されていくことと言えるかもしれません。

しかもそれは、喜ばしい再構築です。

病の床でいつからか知らぬ間に、「周りがよく見えてきた!」との、ある姉妹の証しもいただきました。

私はこんなにもイエスの愛に囲まれているということが、見えてきたと・・・。


ヘブル書の御言葉も引いておきます。皆さんも、「自分には何が見えているのか」と、考えてみてください。

「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。(ヘブライ11:3)」


共に祈りましょう。

主よ、狭く、小さな自分の世界に閉じこもって、何も見えていないことさえ知らないでいる私たちです。主よ、この目を開き、福音の喜びを満たしてください。
2014. 01. 25  
昨日は、朝から晩まで何人もの方とゆっくり話すことができて、色んなことを考えた一日でした。

夜道をドライブしながら、「人間は小さいなあ」と、不意に、口から言葉が漏れていました。

小さくて、無力で、いつも何かに抗っていて、怖がっていて・・・

でも、そんな私たちが、大きな意志によって生み出され、生かされ、出会わされ、互いに魅かれ合い、時に傷つけ合い、祈りあい、やがて、誰もが死なされていく。

宇宙の神秘にまで思いは及んでいく中で、そんな、かけめぐるイメージを、自分の思考がとらえきれないもどかしさを思いました。

帰宅してから、娘と話をしました。

彼女は、自分の最愛の聖句として、ヨハネ15:13を、私の前に差し出してくれました。


「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」


私は・・・、ふるさとに帰ったような、安堵を覚えました。

この罪人を「友」と呼んでくださり、命を捨ててくださったイエス・キリスト。その愛。

そして、あなたも「友」を愛しなさいと、この罪人に教えてくださったイエス・キリスト。

このイエス・キリストとの出会いが、私のすべてなのでした。スタートであり、ゴールなのでした。

この宇宙に起こり来るすべてのことは、このイエス・キリストの愛に覆われているのです。


共に祈りましょう。

主よ、今週も今日まで、あなたによって生かされ、あなたによって愛していただきました。感謝をします。ただ、あなたに感謝をします。
2014. 01. 24  
「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、その悲しみは喜びに変わる。

女は子どもを産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子どもが生まれると、ひとりの人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。

ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。

しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。

その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」

ヨハネ16:20-22の、イエス様の言葉です。

十字架の死の予告を前にして、不安と恐怖に「悲しんでいる」弟子たちに、「その悲しみは喜びに変わる」と言ってくださいました。

なぜなら主は、罪と死に勝利して、復活の朝の光の中で再び出会ってくださるからです。


わたしたちは、永遠の命に至るまでに、この生涯全体を通して、産みの苦しみを味わいます。

主が十字架を負われたように、その兄弟姉妹であるわたしたちも、苦しみ、悲しみを避けることはできません。

だから、「今、悲しんでいる」方も、いらっしゃるでしょう。

しかし、主はいつも、復活の朝の光をもって、その悲しむ私たちに出会ってくださいます。

やがて、わたしたちの誰もが、死という、最大の悲しみに呑み込まれていきます。

でも、その悲しみさえも喜びに変わると言われるのです。再び会うと言ってくださるのです。

この主との出会いの喜びを、わたしたちから奪い去る者は、誰もいないのです。


共に祈りましょう。

主よ、永遠の喜びよ、私たちのあらゆる悲しみを、復活の希望の中で、喜びへと変えていってください。今、痛んでいる者に、悲しんでいる者に、主との出会いの喜びが満ちますように。
2014. 01. 23  
いつも喜んでいなさい・・・・。これほどに厳しい教えもないのではないかと思います。

どんな時も喜ぶ・・・・。それは、断食の苦行よりもはるかに厳しい、霊的修練です。

地上の考えで「喜び」ということを考えるなら、いつも喜ぶなんて不可能です。

私たちに与えられる喜びは、天から来る喜び。神を知る喜び。

神が開いてくださる、人知を超えた喜びの世界です。

病の痛みの中で、十字架の主の痛みとひとつにされていく・・・、こんなことさえ「喜び」となっていくのが信仰の奥義です。

ヤコブは言いました。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。(ヤコブ1:2-4)」

なんて心ない言葉だ!!と、私はかつて、この御言葉を拒みました。

しかし、自分がとても苦しかった時に、この御言葉が与えられ、私は涙が止まりませんでした。

「この上ない喜びと思いなさい」だなんて、できるわけないと、思っていました。

でも、私が「そう思おう」とがんばるより先に、神は私の心に触れてくださり、あの苦しみを「喜び」に変えてくださったのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日もどんな時も、私たちに喜びを与えてください。苦しみの中で、あなたが出会ってください。試練を通って、また一歩あなたに近づくことができるようにしてください。
2014. 01. 22  
私たちに与えられる信仰の「喜び」ということを、よく伝えてくれるエピソードを教えていただきました。

ある方の知人で、若いクリスチャンのご夫妻の話です。

昨年末、赤ちゃんが与えられたのですが、肺に羊水が溜まっていたため、生まれてすぐに治療できる病院へと搬送され、その後も呼吸不全が続いたりで、生死をさまよっていたようです。

この間、ご夫妻の信仰が試されたそうです。

自分の子が死んでもハレルヤと主に感謝をささげることができるか・・・。



しかし、この子が死んでも生きても、御心のままになりますように、と祈れるようになったとき、死の恐怖から解放され、心に平安と喜びがきたそうです。

神様からの平安と喜びはこの世のものが与えることのできないものだということを、初めて経験したそうです。



私たちにも今日、信仰が試されることがあるかもしれません。

でもその経験を通して、この世のものが決して与えることのできない、「信仰の喜びと平和」に至ることができますように。

ローマ15:13の御言葉をもって、共に祈りましょう。

「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」

2014. 01. 21  
日曜日には、祝福の中でI兄が長老に任職されました。赤ちゃんも与えられ、公私ともに重荷が増しておられます。兄弟とご家族のためにお祈りください。

*******
今週は、救いの喜びに深まっていきましょう。

敬虔で、禁欲的なヨハネの弟子たちが、イエス様をこのように非難しました。

「わたしたちはよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか?」

断食とは、自分の罪を嘆き悲しみ、祈りへと集中し、神と自分にまっすぐ向き合うための霊的修練です。

そういう断食に励まないで、むしろ飲んで食って、宴会を喜び楽しんでいる。そんなことでいいのか!と怒っているのです。

イエス様は答えられます。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。(マタイ9:15)」

断食のようなかたちでの修練も大事です。でも暗い顔で、いつも自分をいじめているのは、クリスチャンではありません。

花婿イエス様が一緒にいてくださる喜びが、存在全体からあふれ出てくることを願いたいと思います。

十字架の死の底からよみがえられ、立ち上がられた方が、共にいてくださるのです。

喜びと祝福の源なる方が、私たちの内に生きていてくださるのです。

それなのに、悲しむことができるでしょうか・・・?


共に祈りましょう。

主よ、今日の一日に救いの喜びを満たしてください。あなたに愛されている喜びを、この体に満たしてください。病んでいる者をも、自分の罪に苦しむ者をも、喜びの渦に巻き込んでください。
2014. 01. 18  
明日の主日の礼拝では、I兄の長老任職・就職式が行われます。

教会を支配するのはイエス・キリストです。

教会というのは民主主義の原理で成り立っていません。イエス様による絶対王政によって治められている群れです。

その王様イエスから、「天国の鍵」を握る大きな権能を委ねられているのが「長老たち」だと、改革派教会では考えます。牧師もまた「長老たち」の一人に過ぎません。

I兄は、その「長老たち」の一人として神様から召命を受け、その重い責任を負おうとしておられます。

同時に、明日の任職・就職式では、教会員にも誓約が求められます。

主があなたのために遣わされた「長老たち」の一人として、この兄弟を尊敬し、その働きのために祈り、支えますか?と問われるのです。


最後に、Ⅰペトロ5:1-5を読んで、「長老たち」が与えられることの恵みを確認しましょう。

「さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。

あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。

ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。

そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。

同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。・・・」


共に祈りましょう。

主よ、私たちの群れに、新しい長老が与えられようとしていることを心から感謝します。教会員も、まだ教会員でない者も、この恵みを豊かに受け取ることができますように。

あなたからの召しに応えようとしている兄弟に、聖霊の祝福、励まし、そして導きが豊かにありますように。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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