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2014. 02. 12  
日曜日には、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。(マタイ9:36)」という御言葉に示されている、イエス様の思いを教えられました。

この「弱り果て、打ちひしがれている」というのは、神様との垂直の関係を見失って、霊的な危機にあるということです。

自分勝手に、それぞれの方角に歩き出して、ボロボロになりながら荒れ野をさ迷っている、そんな羊のイメージです。

神との垂直な関係の確立が、何よりも大切です。

私たち一人一人は、神様の上からの光に照らされて、一人で立たねばなりません。

神のふところに戻って、神に愛されているとの確信を得る・・・。ここから離れ続けると、人間は必ず現実生活においても「弱り果て、打ちひしがれていきます。」

具体的には、聖書を読む、祈り、礼拝の時間を大切にすることです。

今日も、朝・夜の祈祷会があります。これは、私たち自身の霊的ケアのために、神様が与えてくださっている時間なのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちはまことに弱い羊のようで、でもその弱さを自覚しておらず、気付けば取り返しのつかないところまで落ちてしまっているような者たちです。主よ、そんな私たちを憐れんでくださって、あなたとの垂直な関係を確立させてください。
2014. 02. 11  
今日は2月11日。「建国記念の日」とされていますが、これは日本書紀にある神武天皇の即位の日であり、戦前の国家神道において「紀元節」と呼ばれていた日です。

大日本帝国においては、「天皇」は日本国民が崇め、命をささげるべき「現人神」とされ、キリスト教会も天皇崇拝や神社参拝を強制させられました。

そんな「天皇教」と言ってもいいような国家神道体制を復興させたい勢力が、特にこの数年勢いを得ています。

「紀元節=建国記念日」というのは、そんな天皇教の一大イベントです。

ですから、日本のキリスト教会では、この2月11日を「建国記念の日」ではなく「信教の自由を守る日」ととらえなおし、聖書において自らを啓示されるただ御一人の神様への信従を、改めて確認する時としています。

黙示録19:11-16をお読みください。

黙示録は、ローマでの皇帝崇拝を拒んで迫害されたクリスチャンたちに、主イエスの勝利の希望を伝える書です。

「そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、『誠実』および『真実』と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる(黙示録19:11)」

この方こそ、「王の王、主の主(16節)」であるイエスです。

改めて、この方を見上げる一日としていただければと願います。



共に祈りましょう。

万物の支配者である主よ、日本の国をかえりみてくださり、かつてのように、思想・良心の自由がおろそかにされる国にならないようにしてください。

今すでに、さまざまな圧迫を受けて苦しんでいる人たちを助けてください。

「日本人なら当たり前」と迫ってくる、悪しき強制に対抗することのできる信仰の勇気と、知恵と力を、弱い私たちに与えてください。

2014. 02. 08  
今日は大雪になるそうですね、十分お気をつけください。

イザヤ35章などに、「救いの時の到来」が約束されています。

「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。
敵を討ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。
そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。
そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。(イザヤ35:4-5)」

イエス様が地上でなしてくださった数々の癒しの奇跡は、確かに「その時」が来たということの証拠です。

イエス・キリストという、この世界を照らし出す根源的な救いの光が到来した!!

2000年の間、キリストの教会が伝え続けてきたのはこの救いの到来の喜びでした。

2000年の教会の歴史の中には、盲目が癒された人もいれば、そうでない人もいます。口が利けるようになった人がいれば、そうでない人もいます。

でも、その誰もがこぞって証言し続けてきたのです。

私たちは、光を見出した。盲目の人の目が開かれたように、闇に沈んでいた心が解き放たれて、不滅の光を見出したのだ、と。

そして、そういう救いをもたらしてくださった方を、賛美し続けてきたのです。

口の利けなかった人の口が開かれ、喜びの歌を歌いだしたように。


共に祈りましょう。

主よ、今日も私たちの目を開き、不滅の光を見出させてください。この口を開き、感謝と賛美の歌声をあげさせてください。
2014. 02. 07  
日曜日の説教に引用しましたが、ある牧師がヨハネ福音書の9章の「生まれつきの盲人をいやす」というくだりを解き明かされる中で、こんなエピソードを紹介しておられました。

実際に、目の見えないキリスト者たちの会合に参加した時のことです。

その中の多くの人が、そのヨハネ9章に大きな慰めを受けてキリストを信じたそうです。

その方々は、イエス様の癒しによって目が見えるようになったのではないのです。目は見えないままです。

でも、「私には聖書の様な奇跡は起こらない」と絶望してしまうのではなくて、「そうだ、私の目の不自由なのは、私を通して神の業が現れるためなのだ」と、心を高く引き上げられたのです。

ヨハネ9章でイエス様は言われました。「この人の目がみえないのは、本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。(ヨハネ9:2)」

「ああそうなのだ、私の目が見えないのは、私を通して神の業が現れるためなのだ」と、たくさんの盲人の方々が信じることができたのです。

そして全存在を癒され、救われたのです。そういうことがたくさんの人に起こったのです。

その会合は、本当にキラキラと明るかったとのことでした。

光が見えた、確かにここに神の救いの業が表れていると思ったと、老牧師が感動を込めて語っておられました。


共に祈りましょう。

主よ、今日も私の霊の目を開き、あなたの恵みの光を見出させてください。今、困難の中にある方々の心が引き上げられて、神の業が現れるのを待ち望むことができますように。
2014. 02. 06  
昨日の朝の祈祷会では、創世記15章から、信仰の本質としての「待つ」ことを教えられました。

不妊の妻サライに子が与えられるとの神の約束が、いつまでたっても成就しない。

そういう中でアブラムはさらに、この先400年のヴィジョンを神から示されました(13-16節)。

400年・・気の遠くなるような時間です。まだ、手応えは何一つないのに・・・。

でも、目の前の現実に一喜一憂せず、神の計画に身をゆだね、いのちを約束してくださった神を信頼して、いつまでも「待ち望む」、

それが「信じる」ということだと教えられているように思います。

祈祷会の後である方が、心のスケールが大きくされたと喜んでおられました。

皆さんが今日、神様の広く、高く、深く、大きな恵みのスケールを覚えながら、のびやかに歩まれることを祈っています。

「わたしの魂は沈み込んでいても、再び心を励まし、なお待ち望む。
主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。
それは朝ごとに新たになる。あなたの真実はそれほど深い。
主こそわたしの受ける分と、わたしの魂は言い、わたしは主を待ち望む。(哀歌3:20-24)」


共に祈りましょう。

主よ、またこの朝、あなたの憐れみ、あなたの慈しみを新たに覚えさせていただきました。主よ、今日もあなたにこの身をゆだねます。窮屈な心を解き放ち、永遠に触れる喜びを得させてください。

2014. 02. 05  
今日は夜の祈祷会もございますので、ぜひご参加ください。
******

今週は、霊的開眼によって、救いの光を「見える」ようにしていただくという恵みを、分かち合っています。

思い出すのは詩編146篇です。

「とこしえにまことを守られる主は
虐げられている人のために裁きをし
飢えている人にパンをお与えになる。
主は捕われ人を解き放ち
主は見えない人の目を開き
主はうずくまっている人を起こされる。(6-8節)」

お手元に聖書のある方は、ぜひ146篇全体をお読みください。

この詩の作者は、「人間には救う力はない」と断言します(3節)。

ここまで断言できる、というか、断言せずにはおれないほどの修羅場を、この人はくぐったのでしょう。

しょせん、人間は「土に帰る(4節)」にすぎない、むなしく、無力な存在だと・・・。

そんな人間を解き放ち、目を開き、起こすことのできるのは、天と地とその中のすべてのものを作られた方だけである。

この信仰の先人の確信は、きっとそんな修羅場から立ち上がってきたものです。

そして、これまでの信仰者の歴史の中で、数々の修羅場を通して、「本当にそうだ!!」と証しし続けられてきたものです。


共に祈りましょう。

主よ。私たちも今、信仰の先人たちと共に、あなたの恵みと力を証しします。主よ、あなたに信頼します。今日も暗きにさまよう私たちの目を開き、不滅の希望を見させてください。

2014. 02. 04  
昨日はお休みをいただいて、花見川沿いを妻と犬とともに、のんびり散歩しました。

その道の途中に、黄色いパンジーが一株だけ植えてあるのを見つけました。

誰が植えたのでしょうか。春を待って、まだ小さく身をすくめているような、愛らしいパンジーでした。

昔の私なら、きっと気付かなかったでしょう。

植物を育てるのが好きになってから、こんな風に、道に咲いている花のひとつひとつが「見える」ようになりました。

日曜日には、イエス様による盲人の癒しの奇跡の記録を分かち合いました。

盲人の目が開かれるように、私たちにも霊的開眼が与えられる時、世界は神の救いの光にあふれているのが「見える」ようになります。

列王記下6:15-17を読みましょう。神の守りが「見える」ようにされた人の記録です。

「神の人の召し使いが朝早く起きて外に出てみると、軍馬や戦車を持った軍隊が町を包囲していた。従者は言った。「ああ、御主人よ、どうすればいいのですか。」するとエリシャは、「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言って、主に祈り、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願った。主が従者の目を開かれたので、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た。」


共に祈りましょう。

主よ、私たちの目を開いてくださって、この世界に散りばめられた、あなたの恵みを、愛を、希望を、ひとつひとつもらさず「見える」ようにしてください。
2014. 02. 01  
今週も土曜日まで、主の導きの中で生かされてきました。

日曜日には、会堂長の娘の蘇生の奇跡から、「死で終わらない命」の希望が与えられたことを思い返しています。

「イエスは言われた『・・少女は死んだのではない。眠っているのだ。』人々はイエスをあざ笑った。群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をおとりになった。すると、少女は起き上がった。(マタイ9:24-25)」


考えてみますとクリスチャンでない方にとっては、「死」という言葉は、そんなに日常的に触れるものではないでしょう。

そういうことを真剣に考えることに、ためらいや気恥ずかしさを覚える方も多いようです。

でも、「死」をちゃんと見つめないと、「命」の意義も見失います。


イエスは、私たちを眠りから起こしてくださり、すでに今、この地上の生活において、はじけるような永遠の命の喜びを始めさせてくださる方なのです。

そのイエスの真剣さを「あざ笑って」いては、何も始まりません。

生きているのに死んでしまっているような人がいれば、死を間近に見すえながら命の輝きを放つ人もいます。

皆さんは、どのように生き、死んでいくことを望まれるのでしょう?


共に祈りましょう。

主よ、今週のここまでの歩みに恵みを備えてくださったことを感謝します。あなたに望まれて、今日の私の一日が始まりました。主よ、感謝します。

生まれたばかりの者にも、老いの坂を上る者にも、今日の日に、永遠の命の喜びを満たしてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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