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2014. 02. 28  
「主はわたしたちを、どのように造るべきか知っておられた。
わたしたちが塵にすぎないことを、御心に留めておられる。
人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。
風がその上に吹けば、消えうせ、
生えていたところを知る者もいなくなる。」

詩編103:14-16の御言葉です。

ずいぶん調子がよくなって、主の憐れみと、皆さんのお祈りに心から感謝しています。

今回インフルエンザをなめていたことを反省しながら、土に過ぎないおのれの本質を、改めて考えていました。

寝ても寝ても、どこまでもぼんやりしている・・・

この世界から取り残されたようなさみしさ・・・

そういう思いを抱きながら、でも、そういう思いを久しく忘れていたことのほうが、本当は怖いことだったのだなと、気付かされました。

健康は傲慢を誘います。でも、おのれが大きくなれば、主の慈しみの大きさが、正しく把握できません。



同じ詩編103篇の11節です。

「天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。」


共に祈りましょう。

主よ、この土くれに今日も注がれている、あなたの無限の慈しみに、心から感謝します。主よ、今、砕かれている人、病んでいる人を、大きな慈しみで満たしてください。
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2014. 02. 25  
先週土曜日からインフルエンザにかかってしまい、日曜日の説教奉仕をすることもできませんでした。

まことに、主とみなさんに対して申し訳なく、自分を責めてばかりです。お赦しください。

自分の健康に対して傲慢であり、予防が不十分でした。

大きな失敗です。ひたすらに主に赦しを願っています。

奉仕がしたくてもできないということが、これほど心惨めなことかと、教えられました。

また、病を得ておられる方の苦しみを、ほんの少しだけ分かち合うことができたかもしれません。


回復がなかなか芳しくなく、また昨晩からぶり返したような発熱があり、明日以降の配信は体調次第ということでお許しください。

思うようにならぬ日々に、いらだちが募る中で、私の心の中で響いている御言葉を分かち合わせていただきます。


「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。(ヨハネ14:1)」

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(マタイ6:33)」


皆様のお祈りを感謝します。皆様の一週間にも、主の慰めと祝福がありますように。
2014. 02. 22  
今週も、はや土曜日ですね。それぞれ色んな思いを抱えながら、この日を迎えておられることでしょう。

体の痛みを覚えたり、肉体の弱さを覚えたりして、切ない一週間を過ごされた方もいるでしょう。

人間の営みの罪深さを思い知らされたり、世界の不穏な動きに心痛めたり・・・

そんな日々に、自分自身の醜さ、不確かさ、無力さに一層気付かされて、くじけてみたり・・・

だれもがそんな風に、罪の悲惨に圧倒されて、一週間を過ごされたのではないでしょうか。

そんな私たちだからこそ、主の前で祈って静まる時が必要なのです。


詩篇65:2-5を味わいましょう。

「沈黙してあなたに向かい、賛美をささげます。
・・・・
祈りを聞いてくださる神よ、すべて肉なるものはあなたのもとに来ます。
罪の数々がわたしを圧倒します。(しかし)背いたわたしたちを、あなたは贖ってくださいます。
いかに幸いなことでしょう。あなたに選ばれ、近づけられ、あなたの庭に宿る人は。
恵みのあふれるあなたの家、聖なる神殿によって、わたしたちが満ち足りますように。」

私たちは、キリストの十字架のとりなしゆえに、主の庭に宿るという特権にあずからせていただきました。

だから、主の御前に大胆に近づき祈り、赦しと、贖い(あがない)の喜びと、魂の充溢(じゅういつ)を味わわせていただきましょう。


共に祈りましょう。

主よ、この疲れてしまった魂を、御前に休ませてください。あなたの大いなる手の中で、この貧しい存在を満ち足らせてください。


2014. 02. 21  
三週間前から、この御言葉メールの他に、カンボジアのミッショントリップに派遣されるチームのためにも、朝のメール配信をしています。

一週間ごとに、「選びと召命」、「派遣と献身」というテーマで御言葉に聞き、今週は「愛の業=仕えること」というテーマです。

今日は、ヨハネの手紙Ⅰの4:7-21を、指定のテキストにしています。

特にその中で、7,8節を強く意識して、何度も読んでくださいと指示しています。


「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」


「愛する」という形で、私たちの生き方や行動が変わっていかないならば、本当に神を知ったことにはならないと言われています。

「神は愛です」という言葉は有名ですが、それは慰めであるより前に、私たちを突き動かす衝迫力をもった真理なのです。

「神を愛する人は、兄弟をも愛する」はずだ(21節)。神は「愛」なのだから、神の民は必ずそうするはずだ、と。



そして、若者たちには、以下の問いかけをして、できるだけ言葉にして残してくださいと指示しています。

「神様は、今日のあなたに、どんな恵みを、また希望を、与えてくださいましたか。」
「神様は、今日のあなたに、何をなすべきと示してくださいましたか。」
「今日あなたに与えられた祈りは、どんなものですか。」

みなさんも、ぜひデボーション(時間を主のために取り分けること)して、自分の言葉にしてみてください。

具体的に、今日どのように愛を実践するか。私は、誰の「兄弟」になるべきか・・・。


共に祈りましょう。

主よ、今日の私たちが、思いと言葉と行いにおいて、あなたの「愛」を知る者として、世の人との違いを生み出すことができますように。兄弟を愛する力をください。

2014. 02. 20  
昨日の祈り会では、創世記16章を分かち合いました。

その8節に、こんな御言葉があります。「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」

これは、困難な現実に疲れ果てて、自分を見失って迷走していたハガルを、立ち止まらせる言葉でした。



「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」

みなさんも、一日の始めに、ちょっと立ち止まって考えてみてください。



罪人として生きる私たちは、病み、苦悩し、傷つき、傷つけられ・・・、時に怒り、時に悲しみ、時におごり高ぶり、時に激しく落ち込み・・・、ぐるぐると振り回されて、気付けば、自分がどこに立っているのかも見失ってしまいます。

そういう私たちのことを、主はいつも見ていてくださいます。

旅人は北極星を見上げて、位置を確認するように、私たちも天の父を見上げることが必要です。

主との垂直な関係を確認し、自分自身を見つめなおして、新しい一日にのぞみましょう。


共に祈りましょう。

主よ、今日も新しい一日が与えられたことを、ありがたく思います。慌しい日々の中で、昨日と同じことをただ漫然と繰り返すだけでなく、あなたの元に立ち止まって、意義ある生を刻むことができますように。
2014. 02. 19  
今日は、朝夜の祈り会があります。神との豊かな語らいのために、ぜひご参加ください。

また、今日は午後のひと時、K姉宅で病床聖餐式を行います。

参加できる方は限られますが、病と闘うK姉の、魂の平安のためにお祈りください。

その聖餐式の際に、このローマ8:22-25を分かち合いたいと思っています。


被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。
被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。
わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。
わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。


神に背き続ける人間の罪ゆえに、被造世界全体が呪われ、うめいています。

その中で、私たち自身も、うめいています。

病気に苦しみ、無力に悩み、生きる空しさに疲れ、互いに傷つけあい・・・そんな風に、罪の「悲惨」を味わい、うめいています。

しかし、キリストから聖霊を受けた私たちには、希望があるのです。

主は必ずや、私たちを「神の子」として回復し、やがて復活の時、この貧しい肉体までも栄光の体に変えてくださる・・・。

そんな、輝きの時の到来をいつも望み見ているから、「現在の苦しみは取るに足らない(18節)」と、パウロは言うことができたのです。


共に祈りましょう。

主よ、見える現実の中で、誰もが罪の悲惨に苦悩し、うめいています。主よ、その中で私たちに、見えないものを待ち望む強靭な信仰をください。そして、今日という日の現実に、しっかり立ち向かわせてください。
2014. 02. 18  
この日々の御言葉メールは、ブログにもなっていますので、過去1年半の記録も全部読むことができます。

見ていますと、選ぶ聖句に偏りがありまして、詩篇からが一番多いですね。

また、総じて新約聖書からが多く、旧約の、特に歴史書が少ないことが分かります。

早速改善ということで、今日はこれまで選んでいない、ヨシュア記を開きましょう。

「主の僕モーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた。『・・・一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。・・・・わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。』」

ヨシュア記1章1-9節より抜粋しました。

礼拝で最後にさせていただく「祝福の宣言」には、この言葉が響いています。

強く、雄々しくあれ・・・。今日も主が共におられる。

モーセと共にいたように、ヨシュアと共にいたように、わたしはあなたと共にいる。だから、強く雄々しくあれ。

今日は、ただシンプルに、この言葉をいただきましょう。


共に祈りましょう。

主よ、励ましてくださってありがとうございます。今日も病と闘う者や、苦悩している若者や、・・・私たち一人一人すべての者が、あなたとしっかり向き合って、強く雄々しくあることができますように。

今日は神戸改革派神学校の入学試験日です。昨年証ししてくださった三川共基君も受験します。若者たちを祝福してくださいますように。
2014. 02. 15  
「飼い主のいない羊のように弱り果てている」罪人の有様を見て、「深く憐れまれた」イエス様は、彼らの救いのために「働き人を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と言われました(マタイ9:38)。

大事なのは、「願いなさい」と命じられていることです。

「働き人になりなさい」ではなく、「収穫の主に願いなさい」と。

イエス様と同じ思いになって、つまり、ハラワタちぎれる思いで世界の霊的荒廃を見つめ、本気で祈れ!!願え!!と、命じられているのです。


ただ「願う」だけなんて無責任だと考える必要はありませんし、考えるべきではありません。

私は今年になってから、「祈ることしかできない」という言葉は、もう使うまいと思わされています。

祈ること、願い続けることは、そんな簡単なことではないと私たちは知っているはずです。無責任なことではないのです。

働き手を送ってくださいと、本気で私たちが祈るなら、必ず収穫の主は答えてくださいます。



共に願いましょう。そうせよと、命じられているのです。

収穫の主よ、天国へと人を刈り取ってくださるあなたの力を信じ、願います。どうか、働き手を送ってください。

私自身のために、私の家族の救いのために、私の友の救いのために、駅ですれ違うたくさんの人々の救いのために、カンボジアの子どもたちの救いのために・・・どうか、霊的危機にあるすべての人たちのために、働き手を送ってください。
2014. 02. 14  
「飼い主のいない羊のように弱り果てている」罪人の有様を見て、イエス様は「深く憐れまれた」とあります(マタイ9:36)。

これは、ハラワタがちぎれるような思いで、痛い、痛いと、イエス様が心を痛めておられるということです。

そんなイエス様の思いは、十字架の苦しみへと通じていきます。

十字架において、イエス様は文字通りハラワタを裂かれ、痛み、苦しみ、おびただしい血を流し、死んでくださいました。

それぞれ自分勝手にさまよっていた私たちが、罪の赦しと和解を得て、神との垂直な関係を回復することができるようにするために、犠牲のいけにえとして血を流し、死んでくださったのです。。


それは、Ⅰペトロ2:24-25に書かれているとおりです。

「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」


共に祈りましょう。

主よ、ハラワタちぎれる思いで愛してくださり、十字架にかかってくださったイエスの愛に、ただ感謝します。その愛の中で今日私たちが、罪に対して死んで、義によって生きることができますように。
2014. 02. 13  
「飼い主のいない羊のように弱り果てる」とは、まことの神との垂直な関係を見失って、魂がさまよい続ける霊的危機を表しています。

旧約聖書の中で、そういう表現が何度も出るのです。

最も重要なのはエゼキエル書34章です。できれば全部お読みください。

「イスラエルの牧者たち」、すなわち、民を導くリーダーとして立てられた王や祭司らへの、神からの痛烈な批判です。

彼らは搾取によって民を疲弊させ、のみならず、神との契約をないがしろにし、霊的にも倫理的にも神の民を腐敗・荒廃させました。

その結果、バビロン捕囚の悲劇を招き、「羊たち=神の民」は故郷を失い、ちりぢりになり、さまよい、傷つき、野の獣の餌食となりました。

神を見失って魂がさまよっていた神の民が、本当に、荒れ野をさまよう難民になってしまいました。

霊的危機は、そんな風にして、現実的危機を引き起こすのです。

そういう状況の中で、神はいてもたってもいられず、自らが羊飼いとなる!!と宣言されます。

「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。(エゼキエル34:11)」

主イエスは、この神の約束の通りに、失われた者を探して救ってくださるのです。


共に祈りましょう。

まことの羊飼いイエスよ、どうか今日も正しい道を示し、さまよいがちな私たちを、霊的な危機からお救いください。そして現実的な危機から守ってください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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