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2014. 03. 30  
いつも、日々の御言葉をご愛読いただいて、ありがとうございます。

私は今週、神戸で牧師の訓練会に参加しますので、木曜日まで配信をお休みさせていただきます。

みなさんの一週間の旅路に、主の祝福を祈っています。
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2014. 03. 29  
「髪の毛一本さえも」これは、聖書の独特の言葉遣いです。

自分には把握しきれぬ私の髪の毛のすべてを、神はちゃんと把握していてくださって、その「一本さえも」無駄に落ちないように、心配りしていてくださる。

使徒言行録27章には、暴風に襲われて船が難破してしまうという事件が記録されています。

漂流生活にあって元気を失っていく人々の中で、一人だけ違う世界を生きていた人がいました。

彼こそはパウロ、キリストの使徒です。

彼は自分に与えられた神の約束を信じ、このピンチに少しも動じることなく、船中の人々を励まします。

33,34節です。「夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。『今日で14日間もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの髪の毛一本もなくなることはありません。』」


パウロと共におられた神は、私たちとも共にいてくださいます。

私たちの「髪の毛一本さえも」無駄に落ちることはありません。


共に祈りましょう。

主よ、私たちの生も死も、健康も病も、順風の時も逆風の時も、すべてはあなたの手の中にあることを信じます。すべてを心配りしてくださっているあなたにおゆだねします。この一日に、動じることない信仰をください。
2014. 03. 27  
日曜日に与えられた御言葉の中に、「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」とありました。(マタイ10:28)

これは、地獄に落とされたくなかったら神を信じなさいという、脅しではありません。

そうじゃなく、「体しか殺せない者など恐れることはない」という励ましです。

どんな権力者であれ、悪意に満ちた隣人であれ、体を殺すことしかできません。

あるいは、どんな病であれ、痛みであれ、試練であれ、体を殺すことしかできません。

でも、その向こうにある世界さえも、その手に握っておられる方がいます。

この方をこそ恐れなさい。

そうやって、真に恐れるべき方を正しく恐れることで、私たちはそれ以外のどんな恐れからも、死の恐れからさえ解き放たれるのです。

神は私たちに、死の向こうにある永遠の喜びを開いてくださる方です。

神は、「生命以上に大切なもの」を与えてくださいます。


共に祈りましょう。

主よ、色んな恐れに縛られてしまっている私たちの日常です。主よ、この小さな心を開いてくださり、永遠の光で照らしてください。

※ 明日は所用のため、配信をお休みさせていただきます。
2014. 03. 26  
先の主日の日曜学校で、ダビデとゴリアテの戦いの物語を子どもたちと分かち合いました。

強く印象に残ったのはこの言葉です。「この戦いは主のものだ。(サムエル下17:47)」

巨人ダビデと戦わんとする少年ダビデが言い放った言葉です。

この戦いは、わたしが戦うのではない。わたしの神である主が、ご自身の栄光のためにお前と戦われる。


歴代誌下20:15にも、敵の襲来を迎え撃つヨシャファト王に対する、こういう言葉がありました。

「この大軍を前にしても恐れるな。おじけるな。これはあなたたちの戦いではなく、神の戦いである。

・・・あなたたちが戦う必要はない。堅く立って、主があなたたちを救うのを見よ。・・恐れるな。おじけるな。・・主が共にいる。」


私たちには、今日も様々な形での信仰の戦いがあります。

迫害、思わぬトラブル、難しい人間関係、癒えぬ病、痛み、将来への不安・・・、色んな攻撃が、魂を揺さぶってきます。

しかし、主イエスを信じる神の民のために、主なる神は戦われます。

その戦いは、あなたの戦いではない。主なる神ご自身の戦いです。だから、恐れるな。おじけるな・・・。


共に祈りましょう。

主よ、今日も戦いに直面するすべての民を、どうか背負い、担い、救い出してください。病と闘う者がいます。試練と闘う者がいます。どうか、あなたがその戦いを担ってください。
2014. 03. 25  
旧約聖書においてしばしば、神は「全能の神」という名で呼ばれます。

「全能の神」と翻訳されているのは「エル・シャダイ」という語で、元来は「十全なる方」というような意味ではなかったかとも言われます。

十全・・・、つまり、まったく十分に恵みと祝福を満たしてくださる方。

私たちに対して、100%の愛で向き合ってくださる方、ということです。


およそ1800年前、リヨンの教会を指導したエイレナイオスという有名な教父が、こういう言葉を残しています。

「あたかも何らかの必要を感じているかのように、神がわたしたちに何かを要求なさることはけっしてありません。

むしろ、神との交わりを必要としているのはわたしたちの方なのです。

父である神は、わたしたちをその胸の中に抱き寄せるために、純粋な慈愛からご自身を惜しみなくお与えになります。」


最後に、ローマ書8:32の御言葉をいただいて、一日に向かいましょう。

私たちの味方でいてくださる神は、「すべて」を与えてくださる方です。

「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」


共に祈りましょう。

主よ、今日もあなたの慈愛で、わたしたちのすべてを満たしてください。不安を覚える者を背負ってください。痛みに苦しむ者にやさしく触れてください。主よ、あなたにおゆだねします。
2014. 03. 22  
今週は「最後まで耐え忍ぶ」という言葉を思いめぐらしてきました。

「耐え忍ぶ」とは、悪意を向けられようが、イジメを受けようが、ただじっと黙って我慢しているということではありません。

もっと積極的なことです。

どこまでもイエスの福音にとどまって、迫害者の悪意に対して、愛と平和をもって立ち向かうということです。

ペトロの手紙Ⅰは、迫害に直面している教会のために贈られた言葉ですが、その教えの倫理的気高さに感動します。

悪人呼ばわりされても立派に生活していなさい。

悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。

そして、こう言われます。「しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心にかなうことです。(Ⅰペトロ2:20)」

敵のためにも祈り、愛を示し、それでも不当な苦しみを受けるというのなら、それはもう気にすることはない。

それは神の御心にかなうことをしているのだから、どれだけ苦しみを受けようが、誇り高く、堂々と胸をはっていなさいと言われています。

人種差別撤廃運動を戦ったキング牧師の説教を思い出します。

「我々を刑務所に放り込むがいい、それでも我々はあなたがたを愛するだろう。我々の家庭に爆弾を投げ、我々の子どもらをおどすがいい、それでも我々はなお、あなたがたを愛するだろう。・・・」


共に祈りましょう。

主よ、私たちは弱く、さもしい心しかもっていません。どうか真の愛を、平和を、謙遜を、柔和を与えてくださって、気高い者に作り変えてください。
2014. 03. 21  
テモテへの手紙Ⅱの2章8~13節の御言葉を贈ります。とても大切な言葉です。

ここには、今まさに迫害を受け、いずこかの牢獄で鎖につながれているパウロから、教え子テモテへ贈られた言葉があります。

パウロの心は少しも折れていません。彼は確信してやまない。

死者の中から復活されたイエス・キリストの、決して負けることのない命の力に、自分は永遠にあずかっていることを確信してやまない。

「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。

わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。

この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。

だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。

次の言葉は真実です。

『わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、/キリストと共に生きるようになる。

耐え忍ぶなら、/キリストと共に支配するようになる。

キリストを否むなら、/キリストもわたしたちを否まれる。

わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。

キリストは御自身を/否むことができないからである。』」


共に祈りましょう。

主よ、生きる限り私たちは、キリストのゆえに死にさらされますが、復活の命の力を注いでくださって、最後まで耐え忍ばせてください。
2014. 03. 20  
昨日の祈祷会では、創世記17章の、アブラハムに与えられた「永遠の契約」の恵みを分かち合いました。

7節「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。」

信仰においてアブラハムの子孫である私たちにも、こういう神からの確約が与えられたということです。

「わたしは、あなたの神となる」

どれだけ全能で聖なる神でも、私たちと何のかかわりもない方ならば、切ないだけです。

でも、「あなたの」神として、どこまでもあなたにかかわると、神は確約してくださいました。

あなたがどんなに弱っても、わたしはあなたを見捨てない、

あなたがどんなに離れても、わたしはあなたを離さない・・、と。

神は見えません。でもどんな時も、「あなたの神」として、神はあなたのことを見守り続けておられます。

これは、神が与えてくださった、永遠の、揺らぐことない確約なのです。


共に祈りましょう。

主よ、わたしの神よ、あなたに愛されている者として、今日も朗らかに生きたいと願います。主よ、今信仰が弱っている方々を、病と闘っている方々を、「わたしはあなたを見捨てない」と励まし支えてください。
2014. 03. 19  
使徒言行録には、イエス様から聖霊を受けて、生まれ変わった弟子たちの活躍が描かれます。

それは迫害にも動じることなく、多くの痛みを味わいながらも、イエスに信頼して決して負けない者たちの物語です。

5章には、使徒たちに対するユダヤ教当局からの迫害が報告されています。

鞭打たれた後に釈放された使徒たちの、驚くべき態度が記されています。「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどのものとされたことを喜んだ。(使徒5:41)」


この使徒たちの信仰をほめたたえるよりも、ここまで彼らに思わせる、イエスの魅力を思いましょう。

「イエス」、この方は、私の魂に触れてくださいました。

この方は、私がどこに向かうべきかを教えてくださいました。

私を愛してくれる人、よいことをしてくださる人は、他にもいるかもしれません。

しかし、私のために十字架で死んで、よみがえってくださった方は、この方しかいません。

だからこそ、教会にはいつも絶えることなく、「イエスの名のために」生きることを喜びとする者が、起こされ続けているのでしょう。


共に祈りましょう。

主イエスよ、私のために辱めを受けてくださったあなたに感謝します。あなたの名のために生きる喜びを、少しでも教えてください。

また主よ、あなたの名のために、この世における信仰の戦いを戦うすべての者たちに、守りと祝福がありますように。

2014. 03. 18  
今週は、「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」とのイエス様の言葉(マタイ10:22)に深まっていきましょう。

キリストに連なる者は、この世にあって一味違う雰囲気をまとうがゆえに、警戒され、疎まれ、白い目で見られる。

直接的であれ間接的であれ、なんらかの「迫害」はキリストの弟子につきものです。

迫害というのは、私たちの存在を脅威に感じるサタンからの攻撃ですから、

逆に言うと、何の迫害も受けないというのは、「こいつは放っておいても何の問題もない」とサタンから侮られているしるしなのかもしれません。


わたしたちは必ず迫害を受けます。しかし、最後まで耐え忍ぶなら、「救われる=勝利する、敵から解放される」と約束されているのです。

「勝利する」というより、「決して負けない」と言ったほうがぴったりのように思います。

どれだけぼろぼろにやられても、でも負けないのです。

イエス・キリストが憎まれ十字架にかけられながら、決して負けてしまうことなく、よみがえられたように!!

「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。・・・主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。(Ⅱコリント4:7-15)」

今、病で苦しむ方のためにも、この御言葉を贈ります。


共に祈りましょう。

十字架の絶望からよみがえられた復活の主よ、あなたを信じるわたしたちは、どんな迫害にも苦しみにも決して負けないことを信じます。今日も、この弱い肉体と魂を支え、復活への道を歩ませてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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