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2014. 05. 16  
「③あなたは、主イエス・キリストを、神の御子、また罪人の救い主と信じ、救いのために、福音において提供されているキリストのみを受け入れ、彼にのみ寄り頼みますか。」

0.00001パーセントも正しいところのない罪人を、神の呪いと怒りから救うために、神と等しい神の御子が来てくださいました。

「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。(マタイ1:21)」

「イエス(ギリシャ語イエースース)」とはヘブライ語にすると「ヨシュア」です。

「ヨ」は、聖書の神のお名前をあらわします。

今はもうどう発音していいのか分からない、聖なる四文字で表されている聖書の神の名(おそらくヤハウェと発音したと考えられています)。

日本語訳の旧約聖書においては、その神のお名前が記されているところは、「主」と翻訳されています。

「シュア」は、救いという意味です。

ですから、「ヨシュア」は、「主は救い」。

イエス様は、そういう名のもとに生まれてきてくださって、罪から救ってくださるのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちは罪人です。それぞれが自分のことしか考えていません。人の愛は冷え、カネとモノに心が奪われ、時代は戦争に向かって進んでいます。主よ、どうかこの罪人たちを赦し、憐れんでください。
2014. 05. 15  
第二の誓約「あなたは、自分が神の御前に罪人であり、神の怒りに値し、神の憐れみによらなければ、望みのないことを、認めますか。」

昨日、朝の祈祷会で、創世記19章のソドムとゴモラの滅亡の記録を読みました。

罪と腐敗に満ちた都市ソドムに対する、神の怒りの裁きの記録です。

そのソドムの滅亡に先立ち、神の友であるアブラハムが、とりなしの祈りをしました。

「神よ、あの町に正しい者が10人いれば、どうか裁きを思いとどまってください。」

このことについて、ある兄弟が黙想しておられました。

きっとアブラハムは、せめて10人くらいはいるだろうと思ったのではないか・・。

今ならば、東京という、あの現代のソドムにも、せめて10人くらいは、正しい人がいるのではないか・・。

でも、これは、人間の「罪」の深刻さを、甘く見ている考えなのです。

神の御前に、正しい人は一人だにもおりません。

そして、私たちの中に、正しい部分は、0.00001パーセントもありません。

「正しい者はいない。一人もいない。」と書かれている通りです(ローマ3:10~18)。

私たちが、そのようであるからこそ、イエス・キリストに来ていただく必要があるのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの御前で、罪人であることを認めることさえできない罪人であります。どうか赦してください。今日の日を、自分の罪を正しく見つめる一日とさせてください。
2014. 05. 14  
M・Kくんが、発熱し、痙攣発作が止まらないとのことで、昨晩入院されました。みなで祈って支えましょう。

昨晩、Kくんのために祈っていたら、この御言葉が心に浮かびました。

「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。

悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。・・・(マタイ5:3)」


「心の貧しい人」というのは、神との関係において「砕かれている人」です。

自分にはもう何もない・・神によりすがって生きるよりないと、悲しみ、疲れ、うなだれているような人。

でもそのあなたが「幸いだ」、喜んでいいのだよ、と主は教えてくださいました。

なぜなら、その粉々になった心は、神をお迎えするのにちょうどいいからです。

その空っぽの手は、神の恵みを受け取るのにちょうどいいからです。

空っぽの手は何も持っていません。

でもその手を組み合わせれば、憐れんでくださいと、祈ることができます。

そして私たちが本当の祈りをはじめるならば、その時神は、私たちを決して見失うことなく、無限の愛で満たしてくださいます。

神の愛と平和で、この貧しい存在のすべてが満たされていくこと、それこそ「天の国」を得ることなのです。


共に祈りましょう。

主よ、どうか私たちを憐れんでください。私たちの愛する兄弟を憐れんでください。その家族を憐れんでください。あなたの無限の愛と平和で、すべてを満たしてください。



2014. 05. 13  
誓約の6か条の学び、2回目です。

①その第一は、「あなたは、天地の創り主、唯一の生ける真の神のみを信じますか」

「それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。 世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。(使徒行伝17:23-24)」
  
クリスチャンじゃなくても、なんとなく「神様」を覚えて、「知らずに拝んでいる」方は多くいます。

大事なのは、真に信頼に足るべき「生ける真の神」とは、どういう方かを、聖書から正しく知ることです。


聖書の神は世界の「創造者」であるということは、全キリスト教会が一致して告白する、根本的な信仰です。

まったく何もないところに、命を生み出すことができるのはこの方だけです。

神が、天と地の一切のものに、始まりを与えてくださいました。

地球も宇宙も、人間も動物も植物も、精神も物質も霊的存在(天使など)も、時間も空間も、すべては神に造られた「被造物」です。

それはすなわち、永遠・無限の神の前で、すべては限りある卑小な存在であるということでもあります。

だから「天地の創り主」以外のいかなるものも、真の信頼には値しません。


共に祈りましょう。

天地の創り主、唯一の生ける真の神よ、あなたに信頼いたします。あなたに不可能はありません。主よ、大いなる御手をもって、今日も私を支えてください。
2014. 05. 10  
今日は、M教会の青年お二人の結婚式に参列させていただきます。

主が結び合わせてくださった二人が、「一途」に愛し合い、祝福された家庭を築くことができますようにと祈るものです。

新共同訳聖書では「一途」という言葉は出てきません(完全な、無垢、まっすぐ・・などの翻訳が近いです)。

でも聖書における、神と私たちの関係性を示すのに、ぴったりな言葉だと思います。

申命記6:4の有名な言葉。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

ここで求められていることこそ、神への「一途」な愛です。

他の神々に目をくれず、ただお一人の神だけを、「一途」に愛しぬきなさい・・。

なぜなら、まず神が、私を「一途」に愛しぬいてくださるからです。

どこまでも裏切らず、見捨てず、かけがえのない者として扱い続けてくださるからです。


このような、神との垂直の関係における「一途」さが、配偶者との水平の関係をも規定します。

「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。(エフェソ5:25)」という言葉もありますね。

「一途」な愛ということを、改めて考えさせられています。


共に祈りましょう。

主よ、今週の歩みにもたくさんの恵みと祝福を感謝いたします。今日も、あなたの愛を満たしてくださって、それぞれの家庭をも祝福してください。
2014. 05. 09  
日曜日に与えられた御言葉を思い返してみましょう。

処刑死を目前にしたバプテスマのヨハネが、イエス様に確認をしようとした場面でした。

「来るべき方(=約束の救い主)はあなたですか、それとも他の方を待たねばなりませんか。」

これは疑いではありません。イエス様を信じているがゆえに、「本当にこの方に委ねていいのだ」とはっきり確認させていただきたかったのです。

私たちはだれも、こういう弱さを持っていますね。

先に召されたK姉も、死を目前にして、そんな弱さを垣間見せておられました。

主が共におられると分かっていても、痛みに心が縛られて、主を見失いそうになってしまう、と。

私は日曜日の説教で、申し上げました。・・私たちは、「信じる」ということを始めたその日から、「信じきれない」苦しさをもまた味わいます。信じているから、信じ始めているから、そんな風に心が揺れるのです。・・

死の直前まで、そういう祈りの格闘を繰り返しながら、信仰を練られていくのがクリスチャンの人生です。

「主よ、あなたはどこですか。あなたを信じていていいのですか。」と本気で問い続けるのです。

主は必ず、その問いかけに応えて、ご自身を明らかにしてくださいます。

あの絶望しきっていたトマスの前に、現れてくださったように。

「・・あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。(ヨハネ20:27)」


共に祈りましょう。

主よ、どこまでも不完全な信仰しか持ち得ない、この罪人をお赦しください。今日もあなたが生きておられ、強く世界を導いておられることを、私たち一人一人にはっきり悟らせてください。
2014. 05. 08  
誓約の第六は、教会への忠誠です。

⑥あなたは、日本キリスト改革派教会の政治と戒規に服し、その純潔と平和のために務めることを約束しますか。


今日はまず、そもそも「教会」に所属する必要などないのではないか、ということから考えてみましょう。

一人で聖書を読み、キリストにつながり、魂に救いを得る・・それで十分ではないか。

私も元来、一人でいるのが好きな人間ですから、そういう風に考えたくなります。

地上の教会における、人間的交流のまずさが、キリストとの出会いの喜びを殺いでしまうこともしばしばでしょう。

しかし、聖書においてイエス様は、「わたしの教会を建てる(マタイ16:18)」と明言しておられます。

聖書を本当の意味で読むならば、信仰の共同体に生きるということへ、必ず導かれます。

「人が独りでいるのはよくない(創世記2:18)」のです。


共に祈りましょう。

教会のかしらなるイエス・キリストの父なる神よ、私たちは罪深く、互いに愛し合うことの素晴らしさを知りません。どうかそれぞれの孤独な魂を癒してくださって、あなたを共に見上げ、互いを受け入れあう、豊かな信仰共同体を形成させてください。
2014. 05. 07  
誓約の第五は、礼拝と奉仕の生活への「献身」です。

⑤あなたは、最前をつくして教会の礼拝を守り、その活動に奉仕し、教会を維持することを、約束しますか。


第四の誓約は、キリストのしもべとしての新しい人生を生きていくという誓いでしたが、

それは具体的にどういう人生かというと、「神への礼拝と奉仕」を喜ぶ人生です。

私は教会に来て最初に驚いたのは、クリスチャンが毎週欠かさず礼拝を守っていることでした。

しかも、長老・執事をはじめ、みなさんが、うどんを作ったり、チラシを配ったり・・無給で教会活動に精を出していました。

「義務を守っていてえらいなあ」と最初は思いました。

でもやがて分かるのは、「義務」であるということより、この方々にとってこれは「喜び」なのだということでした。

しかも、これはサークル活動のような「自己実現と交流」のための活動とは決定的に違う、お一人お一人の神様への「献身」なのだと、だんだん分かってきました。

ローマ12:1の御言葉が、すべての鍵をにぎっています。

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

後日、再びこの聖句を取り上げます。よく覚えておいてください。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの栄光のために生き、あなたの目で世界を見て、あなたに喜んでいただけるように、今日もこの貧しい心と体を動かすことができますように。
2014. 05. 06  
誓約の第四は、キリストのしもべとしての新しい歩みの決心です。

「④あなたは今、聖霊の恵みに謙虚に信頼し、キリストのしもべとしてふさわしく生きることを、決心し約束しますか。」


イエス・キリストがもたらしてくださるものは、私という人間の再創造です。

罪の奴隷であった私が、キリストのしもべ=奴隷に、創りかえられます。

ねたんだり、憎んだり、なんでも欲しがったり・・悪い心に縛られていた私は殺されて、愛と正義と真実を求める、新しい私として生き返らせていただくのです。

そういう、私の再創造は、神の力によらねば決して成しえません。

生命の与え主なる聖霊が、わたしたちの内で存分に力をふるってくださって、私を創りかえてくださいます。

その聖化の恵みに謙虚に信頼し、キリストのしもべとしての「新しい命」を生きていきましょう。

「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。(ローマ6:4-6)」


共に祈りましょう。

主よ、今日私たちの口から、あなたへの賛美があふれますように。私たちの心が、喜びと希望と愛で満ちますように。そんな、新しい一日を過ごせますように。
2014. 05. 03  
今週も最後の一日となりました。今日から四連休の方も多いと思います。肉体の休息と祝福がありますように。

今週の日曜日には、こんな御言葉が与えられていたことを思い出します。

「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水いっぱいでも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。(マタイ10:42)」

ここでイエス様は私たちのことを、「小さな者」と呼んでおられます。

私たち一人一人を顧みますと、確かに、ごくごく小さな、無力な者。また、主の名を汚すようなダメな者たちです。

でも、旧約におけるイスラエルの選びは『どの民よりも貧弱であった』民の選びであり(申命記7:7)、

新約の教会とは『世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者』たちから成る群れのことでありました(Ⅰコリント1:28)。

そういう「小さな者」が神に選ばれ、イエスに選ばれ、大きな責任をゆだねられ、用いられるのです。

しかも主は、その「小さな者」を本当に大切に思ってくださっているのですね。

誰かが私たちに水いっぱいでも親切を示してくれるなら、「本当にお世話になった」と、イエス様自ら深く頭をさげて、その方に感謝をしてくださるのでしょう。

それほどに、大切に思われている弟子は、幸せです。


共に祈りましょう。

主よ、今週もたくさんの恵みを感謝します。あなたの弟子として、ふさわしい歩みができない小さな者ですが、どうぞ私たちを用いてくださり、今週出会ったお一人お一人に、祝福を分かち合うことができるようにしてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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