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2014. 06. 14  
昨日、私が教えていただいている山口陽一先生による「実業の日本に生きたキリスト者列伝」という、大変おもしろい講演を聞くことができました。

「ノリタケ」の創立者、森村市左衛門。歯磨きの「ライオン」の小林富次郎。「グンゼ」の波多野鶴吉・・他にもたくさんいらっしゃいます。

キリスト教を経営理念に反映し、社会の公益のため、また伝道のために「実業」に励んだ方々の生涯は、いずれも興味深いです。

その中でも、「キャラメル王」森永太一郎の純粋な信仰の姿には心打たれます。

彼は渡米し、オークランドで回心しますが、「キリスト信者の信じているイエス・キリストが、今も活ける救い主ならば、生ける主なることを知らしてください」と真剣に祈ったそうです。

主はその祈りに応えてくださって、「汝の罪は赦されたり、汝の名は天にある生命の書に録されたり」との御声が電光石火のごとく閃き、私は喜びに満たされたと、自著に書いておられます。

森永は創業時、Ⅰテモテ6:6-12を掲げて、戒めにしていたそうです。

「信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。・・・金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。」

しかし、事業の成功とともに誘惑に陥り、酒におぼれ、彼は信仰から迷い出てしまいます。

でもそんな彼を、信仰の友がたずね、祈り励まし、彼は悔い改めに導かれるのです。

森永家の墓は青山霊園にあるそうですが、墓石には「罪人 中我 首(かしら)」と刻まれているそうです。

Ⅰテモテ1:15「わたしは、その罪人の中で最たる者です。」


共に祈りましょう。

今週も今日まで守られ感謝します。先人たちの生涯に示されたあなたの栄光の証しに感謝します。彼らと共におられたあなたが、私たちとも共にいて、地の塩世の光としてください。
2014. 06. 13  
昨日まで、教派全体の役員修養会で豊橋に行っていましたので、配信をお休みしていました。

同世代の牧師仲間と夜中まで話し込んだり、先輩たちの語らいにひらめきを得たり、たくさんの方々と話をした四日間でした。

現代の日本に生きる教会の課題を分かち合い、励ましあい、知恵を出し合い、そして祈りあいました。

霊的にはとても充実していますが、ちょっと体がくたびれてしまいましたので、頭が回りません。

今日は、聖書の言葉だけお送りします。

神学校の吉田隆校長が、「魂を癒す医者」としての牧師を育成していかねばならない語る中で、この言葉を引用されました。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。・・わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。(マタイ9:12-13)」


共に祈りましょう。

わが魂の主治医であるイエスよ、今日もこの病んでいる者を憐れんでくださり、私自身の思いを超えて、この存在全体のために、必要な癒しを与えてください。
2014. 06. 07  
今週も最後の一日となりました。最初の一日に与えられた御言葉を思い返しましょう。

「人の子は安息日の主なのである」すなわち、わたしこそ安息日の祝福を体現する者だと、イエス様は教えてくださいました(マタイ12:8)。

「安息日」とは、キリスト教会では日曜日のことです。

神様に集中して、神様の祝福に満たされて、神様のもとで魂に休みをいただく(霊的安息)。

そういう日が人間には必要です。

そもそも「安息日」というのは、終わりの時に訪れる新天新地において与えられる、永遠の安らぎを先取りして与えていただく日でした。

黙示録21:1-4「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。・・・・・神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

この、すべての労苦から解放された永遠の安らぎ、神のもとでの安らぎ、これを少しだけ味見させていただいて、疲れを回復させていただく、それが安息日というものです。

イエス様という方は、そういう安息日が指し示している、永遠の安らぎを与えてくださる方なのです。


共に祈りましょう。

安息日の主イエスよ、今、罪の悲惨の中で、疲れている者たちを、病んでいる者たちを、痛んでいる者たちを・・、どうかあなたのもとで、安らがせてください。
2014. 06. 06  
第三の誓約「あなたは、主イエス・キリストを、神の御子、また罪人の救い主と信じ、救いのために、福音において提供されているキリストのみを受け入れ、彼にのみ寄り頼みますか。」

イエス・キリストは、罪人の救い主として、神が与えてくださった方です。

イエス様という方は、神から差しのべられた「手」そのものだと、私はしばしば申し上げています。

これは、独自の表現ではなく、リヨンのエイレナイオスやアウグスティヌスといった、古代の偉大な教父が用いた表現です。


「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走りよって首を抱き、接吻した。(ルカ15:20)」

これは、有名な「放蕩息子のたとえ」の一節ですが、アウグスティヌスはこう解き明かします。

「なぜ父親は憐れみ、心動かされたのでしょう。それは、息子のみじめさに打ちひしがれたからです。

『父親は息子に走りよって首を抱いた』。そう、父親は腕を伸ばし息子の首に抱きついたのです。

御父の腕、それは御子です。・・・」


神を嫌がり、神から離れてみたものの、結局ひとりでは生きていけないで・・・、ボロボロになり、病んでいき、惨めで、孤独で・・・。

そんな「罪人」たちに、いてもたってもいられず、差しのべられた神の救いの手。

それが、イエス・キリストです。


共に祈りましょう。

憐れみ深い父なる神よ、今日、惨めで孤独で、自分の罪深さを嘆いている者がいましたら、その力強い御腕で、救いの光の中へと導き出してください。
2014. 06. 05  
第二の誓約「あなたは、自分が神の御前に罪人であり、神の怒りに値し、神の憐れみによらなければ、望みのないことを、認めますか。」

私たちは罪人であると、聖書には教えられます。

それは、神様がくださった「律法=おきて・教え・道」があるのに、それを守っていないから「有罪」だという意味です。

こういう「律法」が、実はすべての人間の心に生まれながらに教えられていると、ローマ2:11-15は教えてくれます。

リヴィングバイブルが分かりやすく訳してくれています。

「神様はどんな罪も罰します。(聖書を知らぬ)外国人が罪を犯した場合、たとえ彼らが、文字に書かれた神様のおきてを知らなくてもです。彼らは心の奥底では、正しいことと悪いこととを区別できるからです。心の中には、神様のおきてが書かれてあるのです。つまり、彼らの良心が、彼らを責めたり、また時には弁護したりするわけです。・・・


ここでいう「良心」というのは「善良な心」ということではなく、「こんなことしていたら神に裁かれる・・」と注意報を流す、センサーのようなものです。

今、注意報が鳴っている方がいらっしゃるなら、どうかそれをないがしろにしてしまわないで、

聖書に正確に示された神の「律法」と向き合い、神の前での自分の罪深さを考えてみましょう。

そこから、命の道は始まります。


共に祈りましょう。

主よ、良心の呵責を覚えながらも、罪を重ねてしまうようなこの罪人を赦してください。自分の力では方向を変えることもできません。どうか今日も、聖霊の導きによって、自分の罪と向き合わせてください。
2014. 06. 04  
昨日に続いて、「唯一の神」ということを考えましょう。

聖書には、「唯一の」神だけを一途に愛しなさいと命じられています。

「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申命記6:4-6)」


これは、「絶対にあなたを幸せにする、わたしは裏切らない。だから、あなたもわたしだけを愛してくれ。」という、神様からのプロポーズです。

日本人は、特に日本の男は、そういう一途な愛を軽視する傾向にあるようです。

浮気の一つや二つは、かんべんしてよ。あいつは遊び、お前は本気・・。

そういう方はきっと、愛する喜びも、愛される喜びも、本当には知らないのでしょうね。
 
私たちはどうでしょうか?神様との関係で、そんなことをしてないでしょうか?

神はいつも、本気の、唯一の関係だけを望んでおられます。

本気で愛してみないと、愛される喜びも、いつまでも分からないものなのです。


共に祈りましょう。

私の唯一の神なる主よ、今日もあなたに愛され、あなたを愛する、一途な愛の喜びを教えてください。試練の中でも、愛の確信をもって、強く立つことができますように。
2014. 06. 03  
誓約の6か条の学び、3回目です。

①その第一は、「あなたは、天地の創り主、唯一の生ける真の神のみを信じますか」

今日は特に、「唯一の」ということを学びましょう。

「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。 現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、 わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。(Ⅰコリント8:4-6)」


「唯一の」と言う時、他宗教についてどう考えたらいいのか、難しい問題です。

私の祖父は、御岳山の山の神を信奉する御岳本教の指導者でした。熱心な祈りの人でした。

この祖父のことをどう考えたらいいのかと、洗礼を受ける前、牧師にたずねました。

「① 尊敬すべき宗教家として、今後も交流を深めてよい。」

「② しかし私たちの信仰からすれば、祖父の信仰は、間違ったものを拝み頼ってしまっている。その理解はしっかり保持し、願わくは彼がキリストに回心できるようにと願いなさい。」

こういう答えにひっかかりを覚える方もいるでしょうが、私自身はこの2つのことを聞いて、キリスト教への安心感を増した記憶があります。


ローマ・カトリックでは、どんな宗教も、結局は聖書の神を指し示していると考えるようです。

登り方は違っても、同じ頂上に着くという考えですね。魅力的ですが、聖書の教えとは違うようです。

たしかにみんな同じ頂上を目指しているかもしれないですが、頂上に辿りつけるルート(道)は、唯一のキリストの道しかないのです。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネ14:6)」


共に祈りましょう。

唯一の主キリストよ、あなたとの関係に招かれたことを感謝します。正しい道を知らないままに、懸命に生きておられる方々を顧みてくださり、命の道へと導いてください。
プロフィール

茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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