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2014. 06. 28  
恐るべき迫害者だったサウロが、突然に光に打ちのめされて回心し、使徒パウロになります。

使徒言行録22章で、パウロはその時の体験を振り返ります。

その回想によれば、彼が回心の途上で最初に口にしたのは「主よ、どうしたらよいでしょうか(10節)」だったようです。

悔い改めが生じると、心に変化が起こり、生き方そのものに変化が起こります。

「自分が何をしたいか」ではなく、パウロのように、「主が何を求めておられるか」をたずねもとめるようになります。


でも、何よりの変化は、主に従いきれぬ自分の罪の深さの自覚です。

悔い改めをすればするほどに、自分の悔い改めがいかに貧しく、自分の変化がいかに不完全かを知るのです。

そうであるからこそ、私たちにはイエス・キリストの救いが必要なのです。

Ⅰテモテ1:15にあるパウロの言葉から、そんな彼の変化がよく分かるのです。

「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。」


共に祈りましょう。

主よ、私は、悔いてはまた罪を犯し続ける、まことに情けない、罪人の最たる者です。今週の歩みを赦してください。主よ、願います。あなたの憐みによって、私を御心にかなう者に変化させてください。
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2014. 06. 27  
真の悔い改めは、罪から神へと方向転換をすることです。

そこでは、自分が抱えている具体的で特定な罪を憎み、それを捨て去るということが考えられる必要があります。

それは100%聖霊の主導権で起こることでありつつ、100%私たちが行うことです。

聖霊は、「もうあの罪は犯すまい」との私たちの決心を起し、その決心において行動されます。


私は、このようなことを偉そうに取り次げる人間ではありません。

今週、「自分の具体的な罪を捨て去る」ということをずっと考え続け、悩んでいます。

でもイエス様は、私が正義の道のスタートラインに立てる様にと、その命を捨ててくださったことを大切にしたいのです。

あなたのこれまでについては、私が全部責任を持つ。

あなたのこれからについても、私は責任をもって、あなたと共に歩む。

さあ、あなたのその罪と戦おうと、肩を抱いていてくださっています。


「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。(ヨハネ5:14)」

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。(ヨハネ8:11)」


共に祈りましょう。

主よ、今日、私たちが罪を犯さないように、あなたの助けを与えてください。今、日々繰り返してしまう罪に悩んでいる者がいましたら、どうかあなたの良き導きを与えてください。
2014. 06. 26  
「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、わたしは後悔しません。・・・あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。

あなたがたが悲しんだのは神の御心にかなったことなので、・・・神の御心にかなった悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。

神の御心にかなったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、こらしめをもたらしたことでしょう。(Ⅱコリント7:8-11)」


パウロはコリント教会の人の不正や過ちを厳しく追求する「手紙」を書いたようです。

その結果として、教会の人たちは「悲しんだ」。

でもそれは「神の御心にかなった悲しみ」であり、彼らを悔い改めに導いたようです。

彼らは、自分が神を悲しませてしまっていたことを知り、悲しんだのです。

その意味で、神へと垂直に向かう悲しみです。

それとは違って、自分にばかり向かう悲しみもあります。

「とんでもないことになった・・」と結果を後悔したり、「こんな自分はダメだ・・」と自分を責めたり・・、そんなことをぐるぐると繰り返している・・。

でも、そうではいけないのです。それでは、イスカリオテのユダと同じです。

そんな自分をなお愛してくださり、「あなたにはそのままではいてほしくないのだ」と語りかけ続けてくださる、神へと心を向けたいのです。


共に祈りましょう。

主よ、自分の罪や恥が暴かれることは恐れても、あなたを恐れてはいないような、まことに不誠実な者たちです。あなたを悲しませてしまっていることを、悲しみます。どうか今日一日、あなたに喜ばれる歩みをなさせてください。
2014. 06. 25  
日曜日の説教への応答として、ある兄弟がアモス書を思い出したと教えてくださいました。

イエス様が、悪を裁く神の正義を伝えるように、アモスも正義の預言者と呼ばれ、社会の不正や腐敗を糾弾します。

でも、イエス様のメッセージが、断罪ではなく悔い改めへの招きだったように、

アモスもまた、人間の滅びを望まぬ神の、切ないまでの愛情を伝えます。

「まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。わたしを求めよ、そして生きよ。(アモス5:4)」


わたしを求めよ、わたしのところに帰っておいで・・。

「そして生きよ。」

これは、「死んではならない」との神の訴えです。



この御言葉は、解説していくと、どんどん言葉の力を邪魔してしまいそうで、今日はもう何も語りません。

ご自分と神様との関係の中で、自由に黙想を深めてください。

「わたしを求めよ。そして生きよ。」この御言葉と共に、一日をお過ごしください。


共に祈りましょう。

主よ、私たちは、死んでしまっているのでしょうか。きっと私たちは、あなたが言っておられる「生きる」喜びを、まだこれっぽっちも知りません。どうか、教えてください。生きたいのです。
2014. 06. 24  
日曜日の御言葉から、「悔い改め」ということを考えさせられました。

イエス様は、「正義を知らせる方」です(マタイ12:18)。

その意味は、悪しき者を裁く神の正義の道へと立ち返りなさいとの、「悔い改め」を伝えるということに通じると申し上げました。


「悔い改め」こそ、イエス様のメッセージの中心と言っていいだろう・・・

マタイ福音書の解き明かしをしながら、そのように確信しつつありましたところに、最近、神学校の同級生による研究の成果を伺い、その確信を深めました。

彼女が教えてくれたのは、ルカ24:47です。

「また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」

ここには、教会が宣べ伝えるべきなのは「福音」じゃなくて「悔い改め」だと書いてあります。

でも、本当の悔い改め(メタノイア)こそが、福音(良き知らせ)なのです。

それは「罪の赦しを得させる悔い改め」だからです。

彼女はこの1ヶ月、この言葉を調べて調べて、真のメタノイアを実現してくださる神さまの憐れみ深さを知って、とても嬉しかったそうです。

今週は、色んな角度から、この「悔い改め」の恵みを考えていきます。


共に祈りましょう。

主よ、悔い改めを迫られるあなたの声を、拒んだり、厳しいと感じてしまう私たちです。そこに込められているあなたの愛や恵みを、よく分かるようにしてください。
2014. 06. 21  
東京都議会の本会議での、心ないヤジ事件に、私は憤っています。

妊娠や出産に悩む女性への支援策について都側に質問していた女性都議に対し、「自分が早く結婚したらいいじゃないか」「産めないのか」などのやじが飛びました。

女性蔑視とかセクハラということ以前に、より根源的に、「相手への尊敬」の欠如が問題です。

些細な事柄と考える人もいるでしょうが、「人間の尊厳」をおとしめる時代の悪が、こういう事柄に象徴されていると私には思えてなりません。


「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。(ローマ12:9-10)」

国会中継を見ていても、かみあった議論など見られず、互いへの「尊敬」の感じられない議員さんばかりいるように感じます。

ワールドカップでも、代表選手への「尊敬」が感じられない非難ばかりです。

そして、ヘイトスピーチ、「Japanese Only」といった差別・・・。

相手を人間と見なさないような「尊敬」の欠如が、今後必ずや巨大な悪に行き着きます。

もっと丁寧に、互いに心通わせあう社会になってほしいのです。

すべての人が、神のかたちに創造された、高価で尊い存在なのですから。


共に祈りましょう。

主よ、どうかこの悪しき時代に、人間の尊厳を回復してください。まことに、私たちの罪深さを思います。主よ、あなたの愛を知った者たちが、まず互いを真に尊敬し、丁寧に心を通わせることができますように。聖霊の助けを与えてください。
2014. 06. 20  
ここのところ、様々な機会に、「夕べがあり、朝がある」ということの恵みを分かち合っています。

昨日も、仲間の牧師が、少し心が傷ついてしまったので、電話越しに共に祈り、「夕べがあり、朝がある」と確認しました。


「夕べがあり、朝があった。第一の日である。(創世記1:5)」

朝が終わって、夕べが来る、ではありません。

暗い闇の「夕べ」が終わって、希望の「朝」が来るのです。

「夕べがあり、朝がある」。必ずこの順番で、神は、歴史を進めていかれます。

真っ暗なゴルゴタの丘での十字架の絶望の風景がありましたが、復活の朝が明け染めます。

ペトロは、三度否んだ深夜の記憶を悲しみましたが、朝の光の中で主と食事し、立ち直ります。

世界は、混沌と深い闇の「夕べ」からはじまり(創世記1:1)、最後は、主の命の光によって永遠に照らされる「朝」で終わります(黙示録22:5)。


「ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。
泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。(詩篇30:6)」

「わたしの魂は沈み込んでいても、再び心を励まし、なお待ち望む。
主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。
それは朝ごとに新たになる。あなたの真実はそれほど深い。(哀歌3:20-23)」


共に祈りましょう。

大いなる神よ、今日も新しい朝を感謝します。今、悲しみの夕べに沈んでいる者がいましたら、その心を励まし、希望の朝をもたらしてください。
2014. 06. 19  
誓約の第六です。「⑥あなたは、日本キリスト改革派教会の政治と戒規に服し、その純潔と平和のために務めることを約束しますか。」


勝田台教会は「日本キリスト改革派教会」という小さな教派に属しています。

日本のキリスト教というのは、世界中の教派がラインナップされているという極めてユニークなものです。

世界のあちこちからそれぞれに宣教師を送り込んできて、それぞれに教会を建てた結果としてこうなったのです。

その中で、私たち「日本キリスト改革派教会」というのは、色んな面でかなりこだわりをもって、自らの聖書理解を貫こうとする教派です。

その意味でとてもユニークな教派として有名で、学びを深めた末に、「ここにこそ私の求める教会がある」と、決心をもって移ってこられる方も多くいます。

(もちろん、欠点もたくさんありますので、出て行かれる方もいます。)

私個人としては、たまたま最初に行った教会が「改革派」だっただけですが、神様が私にぴったりの教会を与えてくださったと感謝しています。


「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。・・一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。(Ⅰコリント12:4-7)」

これを教会にあてはめると、こういう風にも言えるでしょうか。

「教派にはいろいろありますが、それを建てられたのは同じ聖霊です。一つ一つの教派を用いて聖霊は働かれ、キリスト教界全体の益としていかれます。」

皆さんが、「改革派」という教派を通して、より豊かにキリストを知ることができたと喜べるなら、それは「全体」のためにとてもうれしいことです。


共に祈りましょう。

神様、日本キリスト改革派教会を豊かに用いてくださり、今日もお働きください。また日本中のあらゆる教派の宣教を通して、あなたのご栄光が表されますように。
2014. 06. 18  
昨日わたしは何人かの方と語らって、「教会」が存在していてよかったなあ・・、「教会」はやっぱり必要だ・・、としみじみ思いました。

ここでいう「教会」とは、生身の兄弟姉妹の存在であり、群れを導く牧師の存在であり、みんなが集まる具体的な場所としての会堂です。

つらくてどうしようもない時に、牧師と共に祈りたいと、立ち寄ることのできる場所です。

理屈をこえて、神様からの恵みと慰めを受けることができる、礼拝のなされる場所です。


「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。(詩篇133:1)」

これは、主の家である神殿において、兄弟姉妹と共に礼拝できる・・、ただそのことの喜びが胸に迫ってきた人の歌です。

今私たちは、神殿ではなく、会堂に集まり、みんなで同じ神を見上げて座ります。

聖霊は、そういう「教会」に、人知を超えた平安を満たしてくださいます。


第5の誓約は、そんな具体的な場所としての会堂を維持し、牧師の生活を支えることを促すものです。

「⑤あなたは、最善をつくして教会の礼拝を守り、その活動に奉仕し、教会を維持することを、約束しますか。」

救いを必要とするすべての魂のために、また自分自身の魂のために、「教会」をこれからも維持していきたいと思いました。


共に祈りましょう。

教会のかしらなる主イエスよ、あなたが立ててくださった牧師を感謝します。あなたが建ててくださった会堂を感謝します。そして、あなたが与えてくださった兄弟姉妹を感謝します。主よ、私たちの「教会」をこれからも強く導いてください。
2014. 06. 17  
6か条の学びの続きをしましょう。

「④あなたは今、聖霊の恵みに謙虚に信頼し、キリストのしもべとしてふさわしく生きることを、決心し約束しますか。」

聖霊とはどんな方か?聖霊は、「命の与え主」と言われます(4世紀のニケア信条)。

この場合の命とは、霊的命です。その反対は、霊的な死です。

聖書にはしばしば、生きているのに死んでいるという表現があります。

「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。(エフェソ2:1)」

「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。(黙示録3:1)」


「生きているのに死んでいる」とはどういうことか?

それは、ルカ15章の放蕩息子のたとえに示されています。

気付いたらひとりぼっちで、行き詰って、愛されることにも、愛することにも飢えていた放蕩息子。

その息子が帰ってきた時、父は「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と、大喜びしたのです。(ルカ15:24)

聖霊は、そんな「生き返り」を与えてくださる、「命の与え主」です。


共に祈りましょう。

聖霊よ、きてください、命を与える聖霊よ。炎が暗闇を照らし出すように、わたしの心を照らしてください。いやしてください。慰めてください。愛を教えてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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