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2014. 07. 26  
来週からしばらくキャンプなど続きますので、9月9日まで配信をお休みさせていただきます。

暑さが本当に厳しいですが、夏の間の諸行事が守られ、皆さんに喜びが豊かにありますように。
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明日は「子どもと共なる礼拝」です。子どもメッセージでは、私たちが神の家族に加えられて「神の子」とされている喜びを、共同体全体で確認したいと思います。

近年、「神の子とされる」という教理が注目を集めています。

「神の子とされる」ということにこそ、救いの究極的な喜びがあると、言われるようになってきました。

カルヴァンは、自身の遺言においてこう語っています。

「わたしには、理由なしに子としてくださった神の恩恵のほかには、救いのためにどのような砦も避けどころもない。わたしの救いはただこの恩恵(=神の子とされたという恩恵)にのみ依拠している。」

彼にとって、「わたしは神の子とされている」という恵みの事実こそが、最大にして究極のよりどころでした。

大いなる神が、キリストの贖いゆえに、この小さく罪深いわたしの、お父様になってくださった。

わたしは、この父に愛されている神の子なのだ・・・この確信が、死の恐れをも取り除く、究極の慰めをもたらしました。

この「神の子とされる」喜びに、深まっていっていただきたいと願います。

「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実またそのとおりです。(Ⅰヨハネ3:1)」


共に祈りましょう。

主よ、わたしの大いなる父よ、今日もあなたの子どもとして、あなたと共に歩んでいきます。お父様、すべてを守り、慈しみをもって私たちを導いてください。
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2014. 07. 25  
「神はこれらすべての言葉を告げられた。

『わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。

あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。・・・・』(出エジプト20:1-17)」

この厳かな神の宣言から、十戒は始まります。

昨晩、志を同じくする牧師の集いで、「十戒」を学ぶ機会がありました。

ウェルカムチャーチデーに来て下さった大嶋重徳先生が発表され、私や、朝岡勝先生をはじめとしたメンバーが意見を出し合い、最終的に大嶋先生の本として出版されるようにと願っています。

言葉が通じ合っているという信頼感に満ちた、本当にうれしい学びでした。今後の展開のためにもお祈りください。

大嶋先生の構想は、十戒を手がかりにしながら、神が私たちに与えてくださる新しい物の見方、世界の見方(世界観)を提示することです。

世の人々とは異なる「キリスト者の世界観」を確立することで、日常生活の色々な場面で「今、どのように行動すればいいか・・」の判断を的確にくだすための、一貫した指針・基準をもちたいのです。

一貫性ということが大切でしょう。

継ぎ接ぎだらけの場当たり的な信仰で、行き詰っては聖書を開いて、傷ついたところにだけ御言葉の絆創膏を張るような、そんな生き方ではなく・・。

私は、キリストと共に生きる者として、こっちを向いて生きていくという、大きな方向性をこそ、聖書からは受け取りたいものです。

十戒というのは、そのための大切な手がかりです。


共に祈りましょう。

主よ、あまりにも多くの情報に取り囲まれ、多様な価値観を持つ人々と過ごしながら、翻弄され、揺れ惑い、自分を見失ってしまいそうになる私たちです。一貫した指針・基準を持つことができるように、御言葉によって教えてください。
2014. 07. 24  
昨日の夜の祈祷会で、神様の「摂理」の御業について学びました。

「摂理」とは、宇宙全体とあらゆる被造物の営みを保ち、統べ治め、一瞬一瞬の時を創り出していかれる神の御業です。

イエス様は、この神様の大いなる「摂理」の中で、あなたがたの髪の毛一本さえ無駄に落ちることがないように、配慮されていると教えてくれました。(マタイ10:29-31)

神様が必要なすべてを備え、すべてを最も善く導いてくださる。だから、恐れることはない。

独り子イエスを与えてくださったほどに、私を愛しておられる父なる神が、決して悪いようにはなさらない。

こういう「摂理」を信じる信仰をもって、今日備えられる、一瞬一瞬に取り組みたいのです。

今日、思いがけないアクシデントが与えられるかもしれません。

でも、それは無意味で空しいものではありません。主が、今日のあなたのために備えられた、あなたに必要な試練です。

今日、やる気が起きないようなつまらない仕事、避けたい人間関係もあるかもしれません。

でも、それもまた、今日のあなたに必要な導きです。

すべては、神の栄光に向かう永遠のご計画において定められた、熟慮に満ちた、神からの最善の備えです。

「人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していようか。(箴言20:24)」


共に祈りましょう。

主よ、今日もあなたの愛を信じます。あなたが備えてくださるすべてのことを、感謝して受け取り、前向きに取り組むことができますように。逆境の時にも、心落ち着け、強く雄々しくあることができますように。
2014. 07. 23  
神様の創造の御業を考える時、ローマ4:17は、大切な聖句です。

「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。」

存在していないものを呼び出して存在させる・・・

口語訳では、「無から有を呼び出される」とあります。

神はそのような、私たちが持っていない力を持っておられます。

人間には、何も無いところから、命を作り出すことはできません。

1952年、シカゴ大学のミラーとユーレイは、30億年前の地球の状態を実験室で模擬的に作り出すことに成功しました。

水素とメタン・アンモニアガスを混ぜた沸騰水の中に電荷を加えると、一週間後その液体の中に生命の元素である有機化合物を含むアミノ酸を確認したというのです。

しかしそれはDNAのような精巧な分子にはほど遠いものです。

しかもそれは、そこに材料が存在していたからこそ起こりえたに過ぎません。

存在していないものを存在させること・・、無から有を生じさせることは、人間には不可能なのです。

信仰の父アブラハムは、そのような人知を超えた創造の神を、自分の救い主として信頼しきって、「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じた」のです(ローマ4:18)。


共に祈りましょう。

無から有を生み出される大いなる主よ、あなたに信頼いたします。今日も私たちの思いを超えて、必要なすべてを満たし、最善の導きをお与えください。
2014. 07. 22  
昨日まで日曜学校の子どもたちのお泊り会で、会堂で宿泊し、大はしゃぎでした。祝福されて感謝します。
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今日も、宇宙を創造された神の御業に驚きましょう。

元来、科学とキリスト教信仰とは対立するものではありませんでした。

神が創造された宇宙や自然の仕組みを解き明かすことで、その偉大な御心に近づき、ほめたたえたいとの願いが科学の始まりだったと言われます。

緻密で精巧にできているものと言えば、時計やコンピューターなどはそうですね。

でも、宇宙や自然、また私たちの肉体の仕組みや成り立ちを探求していくならば、その緻密さ精巧さは比べ物になりません。

その背後に、深い知恵をもったデザイナーがいると想定するのか、そうでないかでは、人生観も大きく変わるでしょう。


創世記のはじめの、六日間の創造の記事が教えてくれるのは、神がご自身のデザインにしたがって、明確な意図をもって、宇宙と自然を、また私たちの肉体を、丁寧に秩序正しく組み立ててくださったということです。

「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの。(詩篇24:1)」

宇宙の歴史、生命の歴史は、神の書かれた大いなる交響詩の一部であり、それを語り告げるものが聖書です。

そこには、この交響詩を書かれた創造者が、ご自身でそれを解説し、その意図と目的を教えてくれているのです。


共に祈りましょう。

大いなる主よ、今日も、私たちの思いをはるかに超えた、あなたの意図にしたがって、この宇宙を導いてください。そして私たちが、あなたの目的を悟り、目的に沿うことができますように。
2014. 07. 19  
今週、「神の栄光をあらわすこと」について考えてきました。

それは、「人生のすべてにおいて神を礼拝すること」という風に言い換えることもできます。

礼拝は、私たちの人生の一部ではなく、人生のすべてです。

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(ローマ12:1)」

礼拝とは、人生のすべてを「聖なる生けるいけにえ」として神に献げることです。

自分の仕事、家事、趣味、ボランティア・・あらゆる活動を通して神のすばらしさを表現しようとするなら、それが礼拝です。

人生に与えられるあらゆる出来事に、いつも新鮮な喜びと驚きを見出し、神をほめたたえ、感謝し、喜び楽しむことです。

「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(コリントⅠ10:31)」

食べる飲む寝る遊ぶ・・何をする時も、いつも神を見上げ、ほめたたえ、祈り・・。

いつもうれしそうに、讃美歌を口ずさみながら生きている人になりたいですね。

そして、そんな礼拝的人生の中心にあるのが、日曜日の礼拝です。

明日の礼拝で、あの私たちに与えられた会堂で、生きておられる神が、まさにあふれる栄光をもって現れてくださいます。

みんなで共に、神の御前に出て、心からの賛美をささげたいですね。


共に祈りましょう。

神様、今週もたくさんの恵みと守りと祝福を感謝します。試練を味わわれた方には慰めがありますように。明日の礼拝を楽しみにします。この一日、よい備えの一日になりますように。
2014. 07. 18  
昨日、他教派の友人である牧師夫妻と食事を共にしました。

人格的に豊かな信頼する先輩たちなのですが、そんな方々でも、一時は霊的・精神的にどん底だったという話を伺いました。

その時は、自分のことを犠牲にして会員のため、教会のため、苦悩する求道の友のため・・と、自分を追い詰めていたそうです。

でも、自分のためにもっと時間を使っていいんだと、ある集いで教えていただき、窮地を脱したそうです。


先に、「自分の栄光のため」という生き方は、「神の栄光のため」と対極にある、罪深さを本質としていると指摘しました。

でもそれは必ずしも、自分を犠牲にしてということではありません。

神の栄光をあらわすためには、私たちが、神の最愛の作品としての私たち自身を、心から大切にし、喜ぶことも必要です。

まず自分自身を大切にしてあげなくては、他者を大切にはできません。疲れてしまうだけです。

疲れてしまっては、賛美の歌も歌えません。

「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。(箴言4:23)」という言葉もあります。

この言葉だけ独り歩きさせないように注意が必要です。

これは、神様の言葉によく耳を傾け、それをしっかり心に納めることによって、自分の心をよくチェックしろ、という文脈です。

でもいずれにしろ、自分の心というものを、しっかりと関心の中心におくことは間違いではありません。


共に祈りましょう。

神様、今日もお一人お一人が、自分自身を心から愛し、大切にできるように導いてください。そして、あなたの栄光を反映できるような喜びの生活をなさせてください。


2014. 07. 17  
世界中の人が、憎み争うことをやめて、神様を賛美することができますように・・。

私は礼拝の中でしばしば、そのように祈ります。

神様の栄光があふれるというのは、そんな風にして、全世界が一人の神を見上げ、それぞれに心満たされて「ああ、神はすばらしい・・」と、賛美の声をあげるというイメージです。

病で苦しむ人も、戦火におびえる人も・・、罪の悲惨にあえぐ私たちすべてが、救われ、解き放たれて、みんなで喜びの歌を歌うことができれば、どんなにすばらしいでしょう。

神は、そんな光景を望んでおられるのです。

「主の慈しみに生きる人々よ
 主に賛美の歌を歌い
 聖なる御名を唱え、感謝をささげよ
 ・・・
 泣きながら夜を過ごす人にも
 喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。(詩篇30:5ー6)」

泣きながら夜を過ごすあなたの口から、賛美と喜びの歌があふれるように、神は必ず、憐れみ助けてくださいます。

もしあなたが、その助けを味わっている人ならば、大きな声で賛美の歌を歌いましょう。

それが、神の栄光をあらわすことです。

あなたに、そんな賛美の喜びを味わわせたくて、神はあなたを創造されたのです。


共に祈りましょう。

神様、あなたを賛美する喜びで私たちのこの日を満たしてください。今、嘆き悲しんでいる人たちも、賛美と喜びの歌を歌うことができますように、そのために私たちをも用いてください。
2014. 07. 16  
日曜学校の子どもたちが取り組んでいる、初歩教理問答の第三問にこうあります。

「神様はなぜ、あなたやすべてのものを、造られましたか。」答「神様ご自身のみ栄えのためです。」

ここでいう「み栄え=栄光」とはどういうことだろう?との問いかけをいただきました。

確かに、神様のご栄光と簡単に言いますが、考えてみると難しいことですね。

ただ、聖書が私たちに教えていることの中心は、「神の栄光とは何か?」という知識よりも、「どうすれば神の栄光をあらわすことができるか?」という実践であるようです。

初歩教理問答でも、第四問でこのように続きます。

「どうすれば神様のみ栄えを、あらわすことができますか。」答「神様を愛し、神様のご命令を守ることです。」

私たちが、神様を「愛し=大切に重んじて」、その「命令=教え・道」に忠実に生きるなら、この世界に、神の愛と正義と希望の光が広がっていきます。

その反対は、「自分を愛し、自分のために、自分のおきてにしたがって生きること」になります。

そんなことを考えながら、昨日、北野武監督の「アウトレイジビヨンド」を観ました。

だましだまされ、殺し殺されのヤクザの世界を描いた、全員が汚く惨めな悪者の映画です。

自分のために生きるということを突き詰めると、結局こうなるのかもしれません。

今週、もうしばらくこのことを考えてみましょう。

「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。(テトス2:11-13)」


共に祈りましょう。

主よ、わたしたち自身の栄光のためにではなく、あなたの栄光のために生きるということのすばらしさを教えてください。そして、そのように生きることができるように、今日も助けてください。
2014. 07. 15  
現代の物理学者たちは、宇宙には始まりがあったと考えています。いわゆるビッグバンです。

宇宙は、ビッグバンの爆発力と、これによって生じた破片を再び集めようとする重力との競い合いによって生じたといわれます。

興味深いのは、この二つの力の、信じがたいほどに微妙で危ういバランスです。

もしもビッグバンの爆発力が、わずかでも弱かったら、宇宙はすでに縮んでつぶれてしまっている。

また逆に、もっと強かったなら、宇宙の膨張が速すぎて、銀河や星雲は形成されませんでした。

爆発力の強さが、10の60乗分の一違っただけで、現在見られる宇宙は存在しえなかったことになるのだそうです。

それは、二百億光年の向こう、宇宙の果てに立てた1センチの標的に砲弾を当てようとする場合よりも、さらに厳密な精度なのです。


このような事実を前にして、物理学者は「すべては偶然だ・・」と発言する以上のことができません。

しかし聖書は、それらすべての過程が、全能なる神の創造の御業であるという見方を提供します。

宇宙の背後にあって、宇宙そのものを成り立たせている、大いなる意志があります。

「ただひとり、驚くべき大きな御業を行う方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。

英知をもって天を造った方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。

大地を水の上に広げた方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。

大きな光を造った方に感謝せよ。慈しみはとこしえに。(詩篇136:4-7)」


共に祈りましょう。

主よ、この宇宙も、私たちの生命も、あなたの永遠の慈しみによって生み出され、支えられ、今日も保たれていることに、おそれを覚えます。主よ、今日も慈しみにしたがって、私たちを導いてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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