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2014. 09. 30  
「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事をしてはならない。(出エジプト記20:8-10)」

第四戒は、日曜日の過ごし方に関するものです。

キリスト教では、日曜日をキリスト教的「安息日」として、礼拝して過ごします。(ユダヤ教では土曜日)

イエス・キリストが復活されたのが日曜日でしたので、日曜日に礼拝するようになったのです。

日曜日を、礼拝の一日としてしっかり取り分ける。

いろんな予定を入れずに、自分のための時間ではなく、神にささげる時間として取り分ける。

それが、安息日を「聖別する」ということです。

そうして礼拝に集中し、神の祝福と平安の中で、魂の休みをいただくのです。

体や脳の安息も大事ですが、この神のもとでの魂の休みがないと、私たちはカラカラになってしまうのです。


共に祈りましょう。

主よ、過ぐる日曜日には、本当に祝福された礼拝の喜びを感謝します。今日もそれぞれの一日に、あなたと共に生きる希望と確信を満たしてください。
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2014. 09. 27  
神の名をみだりに唱えることなかれ、との第三戒を考えてきました。

最後に、明日の礼拝に向けて思いを整えるために、この戒めを受け取りなおしましょう。

礼拝においてこそ、神の名を呼ぶということの、本当のすばらしさが味わわれます。

招きの言葉において、神は名乗り出てくださり、わたしの名を呼べと招いてくださいます。

私たちは三位一体の神の名に呼びかけ、イエス・キリストの名を通して祈ります。

まことをもって神の名を呼ぶ、その切実な祈りには、御言葉の説教を通して、必ず答えが与えられます。

「わたしはここにいる。あなたのために、あなたと共に、いつもここにいる」との、神の名に込められたメッセージが、あなたの魂に語りこまれます。

祈りと賛美と感謝と、畏れと敬虔をもって、神の名を呼ぶのです。


どのようなときも、わたしは主をたたえ
わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。
わたしの魂は主を賛美する。
貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。
わたしと共に主をたたえよ。
ひとつになって御名をあがめよう。(詩篇34:2-4)


共に祈りましょう。

主よ、今週も今日までの歩みを感謝します。あなたの名を汚してばかりの日々であったことを、悔います。今改めて、この貧しい魂を立て直してください。。
2014. 09. 26  
神の御名をみだりに唱えてはならないとの、第三戒を考えています。

アメリカでは、「Jesus」というイエス様の偉大な御名が、非常に悪い口汚い言葉として用いられます。

Oh,Jesus!!といえば、「くそっ、むかつくぜ」・・・。悲しい限りです。

イエス・キリスト、この御名は 私たちが呼びかけるべき神の名です。

神が与えてくださった、もっとも親しく、あたたかい名です。

神の名の意味が「わたしはある」であるように、イエス様も「わたしはある」と言われました(ヨハネ8:24)。

そしてまた「世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」、そう言われました。

この名に呼びかける者は、いつでもその約束を思い出すことが出来ます。

この名に込められた、神の救いの意志を確認します。

だからこの名に呼びかける者たちは、決して暗闇に沈むことはありません。

「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。(使徒言行録4:12)」

そういうお名前だとわきまえて、心をこめて「イエス様!!」と呼びかけたいと思います。


共に祈りましょう。

イエス様、心を込めて、あなたの偉大な御名をあがめます。あなたの名を呼ぶ、貧しい魂の叫びを、どうか聞き入れてください。

重荷を負う者、痛んでいる者を、お守りください。イエス様!!・・・
2014. 09. 25  
聖書の神様にはお名前があると昨日申しました。

今ではどう発音したらいいか分からないYHWHの四文字の名です。

神様に名があると知り、私は最初、戸惑いました。

神はすべてを超越しておられる方で、名前などあってはいけないのでは・・と思ったのです。

でも、そのすべてを超越しておられる方が、私たちに親しく名乗り出てくださった・・これは恵みです。

「わたしの名を呼び、わたしに求めよ」と。

そして、神の名の聖四文字は、それ自体意味のある啓示だと考えられます。

出エジプト記3:14の有名な場面で、神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と名乗られました。

「わたしはある。」これが、神様の偉大なお名前の意味です。

「わたしはある。」この不思議で深遠な啓示には、「わたしはここにいる。あなたのために、あなたと共に、いつもここにいる」とのメッセージが込められています。


共に祈りましょう。

「わたしはある」と名乗ってくださった神よ、あなたの御名を親しく呼ぶことのできる私たちは、いかに幸いなことでしょう。真の畏れと敬虔をもって、あなたの御名を賛美することができますように。

(2012年11月13日の日々の御言葉も参照してください)
2014. 09. 24  
今日は、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない(出エジプト20:7)」という、第三戒を考えましょう。

私たちの信じる聖書の神には、お名前があります。

それは、今や、どう発音していいのか分かりません。

なぜなら、神の民であるイスラエルの人々が、「みだりに唱えてはならない」という戒めを徹底し、名を呼ばなくなってしまったからです。

その代わりに、「神よ」「主よ」と呼びかけるようになりました。

元々、どう発音していたのだろうか?と、研究者たちが考え、「エホバ」となりました。

でもこれは、さらに研究が進むと、間違いであったと判明しました。

今は、おそらく「ヤハウェ」というのが聖書の神様のお名前だろうと言われます。

この偉大なお名前を口にすることに、畏れ(恐れ)を覚えた先人たちの敬虔には、見習いたいと思います。

神の名がみだりに唱えられる時に、人の心は荒れるからです。


共に祈りましょう。

主よ、偉大なあなたの御名があがめられますように。今日の一日、私たちが、まことの畏れと敬虔をもって、丁寧に歩んでいくことができますように。

2014. 09. 23  
おはようございます。今日もさわやかな朝ですね。

今日は休日なので短く、最近キリシタンの歴史から学んだことを紹介します。

キリシタン用語で、お祈りのことを「オラショ」といいます。

これは、もともと「対話」という意の言葉です。

その当時の日本では、「祈祷」という言葉は、密教的な半狂乱の宗教儀礼を指しました。

ですから、そういう言葉を避けて、ポルトガル語をそのまま用いたのです。

お祈りとは、神様との親しい対話です。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。(Ⅰテサロニケ5:16-18)」


共に祈りましょう。

神様あなたは、私たちがお休みの時も、休むことなく、私たちのために働いていてくださいますから感謝します。

今日もあなたとの絶えざる対話へと、招いてください。心が沈んでいる人にも、祈りの平安がありますように。
2014. 09. 20  
偶像崇拝を禁ずる第二戒を考えてきました。

神様は、決して形にあらわすことのできない偉大な方です。

でも私たちは、目に見えるものを欲しがる弱さを持っています。

そんな私たちのために、神は自ら下って、目に見えるものとなってくださいました。

それが、神が人となられたイエス・キリストです。

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。(ヨハネ1:18)」

私たちは、偶像を拝まないだけでなく、

神の本当の像(イメージ)であるイエス・キリストを礼拝することへと、進んでいかねばなりません。

そうして、キリストと結びつく人は、だんだんと確実にキリストに似せられていきます。

「あなたを見ていると神様が分かる」と言っていただけるような、

神のイメージをあらわす人となるまでに、聖化させていただきたいものです。


共に祈りましょう。

主よ、イエス様の偉大な人格とそのご生涯に示された、あなたの無限の愛、真実、知恵、正義、力をもって、今日も私たちを守り導いてください。
2014. 09. 19  
偶像崇拝を禁じる第二戒を、引き続き考えましょう。

出エジプト記32章に、金の子牛の故事があります。

エジプトから救出され、シナイ山で神との契約を結んだイスラエルの民。・・・でもその直後に、金の子牛の像を造り、みんなで拝むという大失態を演じました。

これは、異教の神を拝もうとしたのではないと思います。

主なる神様が共にいてくださることを、目に見える形で確認したくて、像を造ったのです。

私たちには、こういう弱さがあります。

見えない神を、見えないままで信じ続けることのできない弱さです。

しかし私たちには、神が生きておられることを確かに教えてくれるものが、与えられています。

それは、聖書の御言葉です。

私たちは、像ではなく、言葉によって、神を知り、神を礼拝することへと招かれています。

「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。(ローマ15:4)」


共に祈りましょう。

主よ、今日も御言葉によって私たちを励まし、信仰の確信を増し加えてください。心が騒いでいる者も、聖書を通して光を受け、その心が照らされますように。
2014. 09. 18  
十戒の第二戒は、刻んだ像を造ってはならないです。これは、純正な礼拝のための戒めです。

「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。(出エジプト20:4-5)」

どうして像を造ってはならないか。

それは、偉大な神を引き下げて、自分の手の中におさめることになるからです。

奈良の東大寺の大仏は、本当に大きいですね。

あれは、毘廬舎那(びるしゃな)如来という、宇宙大に広がる仏を形にあらわしたものです。

その偉大さをなんとか形に表したいと、あれだけ大きくなったのですね。

あのようなものを作り上げた古代人の叡智と信仰には、学ぶべき点も多くあります。

でも、どれだけ大きく造ろうとしても、そこには人間の限界があります。

そして、見えない神様を見える形にあらわすならば、それは結局、私たちの想像の範囲を超えません。

そういう人間の限界の中に、偉大な神を引き下げることになってしまいます。

神の愛、栄光、正義、希望・・その偉大さ、すばらしさは、決して形に表せないのです。


共に祈りましょう。

見えない神よ、私たちにあなたは見えなくても、あなたは私たちを見ていてくださいますから、感謝します。大いなる神よ、今日も私たちの思いをはるかに超えた、最善の導きをお与えください。
2014. 09. 17  
昨日は早朝から、のぞみセンターに行っていました。

のぞみセンターは、宮城県山元町に建てられた、被災者支援の拠点です。

毎週火曜日朝のミーティングに参加し、共に祈りました。

街で出会うお一人お一人の名を挙げながら、配慮しておられる姿が印象的でした。

男手一つで男の子を育てているIさんが、重い顔をしておられたとか。

Tさんは、スタッフとの将棋の勝負を楽しみにしておられるとか。

会ったことはなくとも、私もお一人お一人の抱える痛みを想像し、祈りを合わせました。

「ここは、無理やり入信させられる恐れがない。あたたかく迎えてもらえるから好きだ。みんなええ人。」との声をいただいたと、うれしそうに報告しておられました。

一人一人の名を呼ばれる神の愛の光が、豊かにあらわされますように。


「イザヤ43:1 ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」

共に祈りましょう。

すべての人間を造られた主よ。今日もあなたの愛しておられる一人一人に、最善の備えを与えてください。痛んでいる人、倒れそうになっている人を、かえりみ憐れんでください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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