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2014. 10. 31  
「一人の人を愛しぬく真実」の教えとして、第七戒「姦淫することなかれ」を考えています。

若い女性と結ばれたいために、古くからの連れ添ってきた妻を裏切って離縁する・・・。

旧約のマラキ書2章10~16節は、そんな嘆かわしい振る舞いがはびこった時代に語られた、神の怒りの言葉です。

「彼女こそ、あなたの伴侶、あなたと契約をした妻である。・・・あなたたちは自分の霊に気を付けるがよい。あなたの若い時の妻を裏切ってはならない。(マラキ2:14-15)」

裏切ってはならぬと、厳しく教えられます。

イエス様もまた、この教えを大変厳しく徹底されました。

なぜかといえば、そういう妻への誠実と、主なる神への誠実は、密接につながっているからです。

マラキ書で問題になっているのも、単に若い女性ではなく、異教の神を信じる若い女性です。

ですから、古くからの伴侶への背信は、同時に、主なる神への背信でもありました。

繰り返し申していますが、神との垂直な関係は、人との水平な関係を規定します。

ただお一人の神だけ愛し、愛されるという生き方が、「伴侶を裏切らない」という選択を導きます。


共に祈りましょう。

主よ、あなたに対しても、伴侶に対しても、そしてすべての隣人に対しても不誠実な私を赦してください。どうか、ただ一途に愛し愛されるということの喜びを、私たちに教えて下さい。
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2014. 10. 30  
十戒の第七戒、「あなたは姦淫してはならない(出エジプト20:14)」を考えます。

この問題も考えるべきことが多すぎて、本当は短いこの配信では不十分です。

しかし、「一人の人を愛しぬく真実についての教え」という視点から、3回に分けて考えましょう。

姦淫するなかれというのは、愛を契り合っている男女の結婚関係を破壊してはならない、そのような裏切りをしてはいけない、というところに本質的な意味があります。

先に、十戒の第一戒「わたしのほかに神があってはならない」は、結局は「神への一途な愛」の問題だと学びました。

第七戒も本質的に、パートナーを(あるいは恋人を)、本当に愛しているか?・・・が問われています。


愛したいけどうまくいかないから苦しいのだ・・・。

むしろ、パートナーの方にこそ、自分への誠実な愛を求めたい・・・。

まだ愛し合えるパートナーが与えられないのが悩みなのだ・・・。

・・・・皆さんの中に色んな声があると思いますが、とにかく思いを向けるべきは、「一途な愛」ということの重さです。

神が私たちに示してくださる愛というのは、独り子をお与えになったというほどの「重い」ものだと、聖書は教えます。

誰かを愛するということを、決して軽く考えてはいけないのです。


共に祈りましょう。

主よ、愛に貧しい私たちを憐れんでください。結婚生活に悩む者がいれば憐れんでください。愛に傷つきやぶれてしまっている者がいれば憐れんでください。あなたの大いなる愛で、私たちの愛の貧しさを覆ってください。
2014. 10. 29  
昨日、ある会合で出かけていましたが、素敵な言葉を教えていただきました。

傷ついたり、イライラしたり、自分にがっかりしてしまったり・・、

口を開いたら文句や愚痴しか出ない、だから黙り込んでいる・・そんな時に、心の向きを変えさせてくれる魔法の言葉です。

「本当は、どうなりたいの?」

色んな感情に振り回されてしまいがちな私たちですが、自分自身に問いかけてみるといいでしょう。

「本当は、どうなりたいの?」

ローマ書7章で、パウロは、なりたい自分になることができないもどかしさを嘆きました。

「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善を行わず、望まない悪を行っている。(ローマ7:18-19)」

そして、その後の24節で、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。誰が私を救ってくれるのでしょう。」とつぶやきます。

私たちも、みんな同じではないでしょうか・・・。

そんな私たちに、「本当は、どうなりたいの?」と、イエス様が問いかけておられるようです。

イエス様は、私たちの願いを、いやそれ以上の恵みを、必ず与えてくださいます。


共に祈りましょう。

願いを聞いてくださる主よ、私たちを、御前に聖く整えてください。苛立ち、ねたみ、焦り、不安・・色んな悪しき感情から解き放ってくださって、今日もすべてを喜ぶことができますように。
2014. 10. 28  
先の日曜日は、ジョン・ゴー宣教師をお迎えして説教をいただきました。

印象的だったのは、次の御言葉を取り上げられたことです。

「パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。(使徒言行録17:16)」

日本にも偶像があふれています。

それは、神社仏閣ということに限らず、人間が自分勝手にこしらえた、たくさんの神々があふれています。

おそらくこれほどに、「神」という言葉が軽く扱われる国も、他にないでしょう。

パウロは、そういう状態に「憤慨」します。

自分の手の中で、都合よく神々を作り出していく人間の罪に対して・・

また、そのようにして人間を、まことの神から離れさせていく偶像たちに対して・・。

私たちには、この「憤慨」はあるでしょうか?


共に祈りましょう。

主よ、神ならぬものを神とするこの世界に、慣れきってしまっている私たちの過ちをお赦しください。

日本に住む私たち一人一人が、正しく偶像から離れ、天地の創造者であるあなたを仰ぐことができますように。
2014. 10. 25  
昨晩から我が家に、千葉地区の学生たちが7人ほど集まり、クリスマス会の企画をしています。

未信者の友人をお招きするために、どうすればいいかと工夫をこらし、共に祈りました。

勝田台教会でも、明日はウェルカムチャーチデーです。

この配信はインターネットを通して、会員以外のたくさんの方々も読んでいてくださいます。

ぜひ明日、礼拝にいらっしゃってください。皆さんの魂に必要なものが、必ずそこにあります。

ご自分の魂の飢え渇きを、ないがしろにしないでください。

神様からの招きの声に耳を傾けてください。

「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。・・・

・・・わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。

耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。(イザヤ55:1-3)」

「イエスは『来なさい。そうすれば分かる』と言われた。(ヨハネ1:39)」

「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。(Ⅰペトロ2:3-4)」

「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。(黙示録22:17)」


共に祈りましょう。

主よ、命を見失っていたこの私が、あなたから招いていただいたことを感謝します。どうかたくさんの方々が、あなたのもとで、魂を癒されて、命の潤いを得ることができますように。

2014. 10. 24  
「殺してはならない」との第六戒では、自分自身の命を守ることも求められています(ウ小教理68問)。

それは、自分の霊肉全体を、正しく愛するということです。

レビ 19:17-18 「心の中で兄弟を憎んではならない。・・・復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」

「殺すな」というのは、このレビ記にあるように「憎まず、復讐せず、恨みを抱かず・・」ということだと、イエス様は教えてくれました。

それは、「隣人を愛する」ということです。さらには「敵をも愛する」ことです。

そしてその隣人愛は、「自分自身を愛する」ということが常に前提です。

箴言19章8節にこんな言葉があります。「心を得た人は自分の魂を愛する。英知を守る人は幸いを見出す。」

色んな翻訳がありますので、比較してみましょう。

「口語訳) 知恵(知識)を得る者は自分の魂を愛し、悟りを保つ者は幸いを得る。」

「新改訳) 思慮を得る者は自分自身を愛する者、英知を保つ者は幸いを見つける。」

自分の魂を愛するための、「心、知恵(知識)、思慮」とは何でしょうか。

安易に答を得るのでなく、お手元の聖書を開いて、神様と対話なさってください。


共に祈りましょう。

主よ、今心くじけて、自分自身を愛せなくなっている人がいましたら、どうか憐れんでください。あなたに愛していただいた、私たち自身の尊厳を悟らせてください。
2014. 10. 23  
「殺すことなかれ」とは、殺人の禁止にとどまるものではありません。

隣人へのねたみ、憎しみ、怒り、復讐心のような、「殺人の根」が問題になります。

すべてそのようなことは、神の前で「一種の隠れた殺人」です。(ハイデルベルク106問)

しかし、主イエスが私たちを連れて行こうとしておられるのは、さらなる人間性の高みです。

殺さないだけでなく、愛するように。

忍耐、平和、寛容、慈愛、親切を示し、その人を守り、その人のために祈るように、と言われます。


「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。・・すべて人殺しには、永遠の命がとどまっていません。

イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。

だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。

・・・・子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。(Ⅰヨハネ3:15-18)」


共に祈りましょう。

主よ、口先ばかりの私たちを赦してください。他人が犯している罪には敏感でも、自分の犯す殺人に気付かない私たちを赦してください。

私たちを傷つけたあの人に、今日平安がありますように。また、私たちのことを憎んでおられる方に、平安がありますように。
2014. 10. 22  
今週残りは、「殺してはならない(出エジプト20:13)」という、第六戒を考えましょう。

「殺してはならない」と、禁止命令に翻訳されることが多いですが、元来は、「君は殺しはしないだろう」という言葉だと言われます。

もっと言えば、「殺すことなどありえない」といった理念を示しています。

なぜなら、神の愛を経験しているからです。

十戒は、窮地から救済された者たちのために差し出された、命の道です。

あなたは、無限の神の愛によって、滅びを免れ、命拾いさせていただいた。

そんなあなたが、「他者を殺すことなどありえない」。

しばしば申し上げますように、垂直の神との関係が、水平の人間関係を規定するのです。


共に祈りましょう。

私の命を慈しんでくださる主よ、あなたの憐れみの中で、今日も与えられた命を精一杯生きていきたいと願います。

同じようにあなたに愛されている、他のすべての方々のことを、私も大切にし、その心と体と魂を殺すことなく、むしろ守ることができますように。
2014. 10. 21  
昨日は、朝の10時から夜の10時まで、2つの学び会に参加しました。

魂のために充実した休みをいただきました。


昨日の学びで印象的だったのは、「神の業と言葉には、一定の傾斜、強調、方向性がある」というカール・バルトの言葉です。

神の業と言葉には、然りと否、福音と律法、生と死、光と闇、救いと裁き・・と、二重性があります。

しかしそれは、同じ重さではないのです。極端なアンバランスです。

常に、然りが勝り、福音が勝ります。生が、光が、救いが勝ります。

ローマ書の7章が、8章よりも信頼すべき、重要な、愛すべきものとなることは許されないのです。

「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。(ローマ7:24)」

このローマ7章の暗さは、ローマ8章の示す救いの光に凌駕されるのです。

「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。

キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。(ローマ8:1-2)」


共に祈りましょう。

主よ、今日もこの世界と私たちは、あなたの福音の光に覆われていることを感謝します。どんな時も、あなたの示してくださる生を、希望を、光を見上げることができるように、この心を導いてください。
2014. 10. 18  
明日の礼拝は、Tさんの洗礼式があり、子どもと共なる礼拝でもあります。ぜひご参加ください。

急に寒くなってきましたので、皆さんの健康が守られますように。
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洗礼は、神様が私たちの確信のために与えてくださる、救いのしるしです。

洗礼を受けた私は、もう確実に神の救いの中に置かれていると、確認させていただいていいのです。

同時に私たちの側からすれば、神と教会の前で示す、決断のしるしです。

私は今より後、キリストと共に、キリストのために生きると決断したという、決断記念日になるのです。

それは、ゴールなのではなく、新しい人生のスタートラインです。

星の数ほどの信仰者たちが、「今日」から私はこの道を行くと・・、

神に与えられたスタートラインを、踏み出してきたのです。

「わたしたちを造られた方、主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。

主はわたしたちの神、わたしたちは主の民。主に養われる群れ、御手の中にある羊。

今日こそ、主の声に聞き従わねばならない。(詩篇95:6-7)」


共に祈りましょう。

神よ、教会の歴史に名を連ねようとしている一人の兄弟を、大いなる祝福で包んでください。また私たちそれぞれが、あなたと共に生きる新しい人生について、深く思いめぐらすことができるように導いてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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