FC2ブログ
2014. 12. 31  
2014年も最後の一日となりました。今年を振り返る中で、私の心に真っ先に浮かんだ言葉は、これでした。

「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。(ローマ5:3-4)」

神との平和をしっかり確立している者は、苦難の中でも喜びに満ちます。

「苦難」は私たちに、神の恵みを信じて待ち望む「忍耐」を教え、「練達=練られた品性」へと導いてくれます。

「練達=練られた品性」、それは、いかなる苦難にも動じない不動の心ということとは、ちょっと違います。

人生には憂いは多い、しかし、それもまた人生・・と、悟りきった苦労人ということとも違います。

「練られる」とは、不純物がないということです。

心の中の不純物がどんどん取り除かれて、いよいよ神との関係において研ぎ澄まされていくことです。

喜びが与えられれば、鋭く驚き、感謝し、悲しみの時には、はげしく泣き、神にたずね求め・・、自分を神に託すことにおいて、いよいよ無邪気になっていく・・・、そんな感動的な人です。

竹森満佐一という牧師はこう言いました。

「練達の人とは、傷つきやすい柔らかい心の持ち主でありましょう。ただ、その流す涙を人間に向けないで、神に向け、神にぬぐってもらうことを知っている人であります。それならば、いつも神に希望をつないでいる人であるといえましょう。」

皆さんの、2014年は、どんな年であったでしょうか。


共に祈りましょう。

すべてを知り、すべてを導き、すべてを益としてくださる、生けるまことの神よ。この2014年に示されたあなたの恵みの数々に目を開かせてくださって、今日の日を、感謝と賛美に満ちた一日としてください。
スポンサーサイト



2014. 12. 30  
日曜日には、マタイ15:32からの、四千人に食べ物を与えるという驚くべき奇跡の記事を分かち合いました。

イエス様は言われました。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」

「かわいそうだ」というのは、腹わたを震わすような「深い憐れみ」というのと同じ言葉です。

弟子たちには、このイエス様の「深い憐れみ」が、なかなか共有できません。

今年、勝田台教会も、「愛の業に生きる」を目標に、様々に取り組んできましたが、それは、このイエス様の、弱者に対する「深い憐れみ」を共有するためでありました。


考えてみますと、今の私たちの生活から比べれば、イエス様ご自身も、「かわいそう」なほどに貧しい方として生きられました。

私たちが豊かになるために、主は貧しくなってくださったのです(Ⅱコリ8:9など)。

イエス様の「深い憐れみ」を真に共有することができる時、イエス様についての知識も、さらに新しく豊かにされていくのだろうと思います。


共に祈りましょう。

愛なる主よ、今年、私たちの教会に「愛の業に生きる」という目標を与えてくださってありがとうございました。まことに鈍い者たちでしたが、あなたが奉仕の機会を与えてくださり、少しずつ、訓練して整えてくださったことを感謝します。

私たちが、イエス様の「深い憐れみ」をよく悟ることができますように。そして、一人一人を、キリストに似る者として作り上げてくださいますように。
2014. 12. 27  
明日は、今年最後の礼拝になります。

以前に「教会は年末年始はお休みですか?」なんて聞かれたこともありますが、一般的な日本人にとって、毎週毎週、変わることなく礼拝を守り続けるということは、それ自体が驚嘆なのでしょう。

今年もここまで、勝田台教会が、変わることなく礼拝を持ち続けることができたことを、感謝したいと思います。

それは決して当たり前のことではなくて、神の恵みによらねば、成し得なかったことです。

いつも申し上げていますが、「私たちが礼拝を守る」のではなく、「礼拝が私たちを守る」のです。

毎週繰り返し与えられる礼拝の機会は、魂を立て直していただく恵みの時です。

「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。(ネヘミヤ8:10)」

主を喜び祝う礼拝こそ、私たちの力の源です。

明日も、無事に、いつものように変わることなく、礼拝をささげることがゆるされますように。


共に祈りましょう。

主よ、今週はクリスマスを祝うこともゆるされ、たくさんの恵みを感謝します。信仰告白なさった姉妹にも、尽きせぬ祝福がありますように。

明日、またみんなで礼拝をさせていただきたく願います。牧師の説教準備を祝福してください。私たちの心を整えてください。そして、大いなる力を、再び与えてくださいますように。
2014. 12. 26  
クリスマスが終わりました。いよいよ年末だなという気もしますが、教会の暦においては、クリスマスが新しい一年のスタートです。

先日、ある姉妹から、エフェソ6:10-18の御言葉を大事にしていると伺いました。

日々の試練との戦いの中、毎週、礼拝の最後の後奏を聴くときに、この御言葉を心に刻んで祈ったそうです。

みなさんの、クリスマスからの新しい日々のために、お贈りします。

「最後に言う。主によりたのみ、その偉大な力によって強くなりなさい。

悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。

だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。

なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。

また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。

どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」


共に祈りましょう。

主よ、世にあって年末へと向かう慌しさの中、いつもあなたに信頼し、落ち着いていることができますように。今、様々な試練の中にある方々も、神の武具によって強められ、今日の日に、あなたのおだやかさで満たされますように。
2014. 12. 25  
昨晩、夜の祈り会の終わった頃、通りすがりに教会をたずねてくださった青年がいました。

大変気持ちのよい方で、一時間ほど楽しくお話ししました。

ああいう方が、礼拝に通ってくださったらいいなあと、祈り始めています。私にとって、とてもうれしいクリスマスプレゼントでした。

お子様のいらっしゃるご家庭では、今朝は、サンタがあらわれたと大騒ぎでしょうか。

サンタクロースは、四世紀の小アジア(今のトルコのあたり)の教父であった聖ニクラウス(セント・ニック)がモデルと言われます。

そういう意味では、私たちの大先輩で、イエス様の弟子のひとりです。

サンタは、神様の真似をしているんだよ、と我が家の子どもたちには教えています。

独り子イエスをプレゼントしてくださった御父のように・・、

ご自分の命を差し出してくださったイエス様のように・・。

「賜物」という言葉も、プレゼントという意味ですね。

「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。(ローマ6:23)」

今日は、このすばらしいプレゼントを、ひたすらに喜び楽しみましょう。


共に祈りましょう。

主よ、イエス・キリストの御降誕の喜びが、この町のすべての人に届きますように。今、苦悩の中にある方々にも、主の恵みと平和がありますように。
2014. 12. 24  
昨晩のキャンドルサービスの御言葉をお分かちいたします。

「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心にかなう人にあれ。(ルカ2:14)」

この「平和」という言葉は、ギリシア語でエイレーネーといいます。

その語源的な意味をたどれば、「話し合いができる」という意味だと言われます。

そういう意味で、このエイレーネーという言葉は、かつては「おだやか」とも訳されました。

「御心にかなう人」とは、神様のお眼鏡にかなった合格者のことではなく、「神のご好意にあずかる者たち」のことです。

それは、私たち全員です。私たちはみな、神の一方的なご好意にあずかって、「平和の君」であるキリストをいただいたのです。

今、人間の心がだんだん荒んでいっています。魂がやせ細っていっています。

中でも最も深刻なことは、一人一人が、あるいはグループごとに、国ごとに、自分の殻に閉じこもって孤立し、「話し合うことのできない」状態になってしまっていることです。

一方的で乱暴な言葉や行動がぶつけられ、それに対する言葉や行動も乱暴になっていきます。

そのようにして、平和は失われていきます。

しかし神は、私たちに、キリストの「平和」を下さろうとしています。

話し合うことのできなくなってしまった私たちに、話し合うことのできるおだやかさを与えてくださいます。


共に祈りましょう。

主よ、このとげに満ちて、冷え切ってしまった時代に、あなたのやわらぎとおだやかさを与えてください。話し合うことのできなくなってしまった私たちに、話し合うことのできるおだやかさを与えてください。キリストの十字架の血によって、私たちの罪をきよめて、新しい人間を創造してください。
2014. 12. 23  
今日は18時から、キャンドルサービスがあります。

今年は「平和のために祈りましょう。クリスマスの夜だから・・」と呼びかけさせていただいています。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し・・(エフェソ2:14)」

この平和の君を見上げて、みんなで立ち止まることが、今、とても必要とされています。

今の時代を眺めるときに、テモテⅡ3:1からの終末預言が、驚くほどに当てはまるように思います。

「しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、・・・」

金持ちたちは、いよいよ自分の利益を求め、貧しい者たちは、荒んだ心で、いよいよ残忍になっていきます。

金持ちたちは、戦争でもしなければ経済は回らないと言い、

貧しい者たちは、いっそ戦争にでもなって、すべてが終わればいいと思うまでに絶望しています。

このような時代に、飲み込まれてはいけません。

平和の君に祈るのです。それは、私がどこに立っているかを確認する時です。

そこに踏みとどまるために、上からの光を見上げるのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちに、正義と信仰と愛と平和を追い求める思いを与えてください。今、覚めた目をもって、決して絶望に呑み込まれないでいることができますように。
2014. 12. 19  
使徒信条を学んでいます。「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。」

昨日から「我らの主」について考えています。

思い出した御言葉は、ヨハネ10:16です。

「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」

ここで言われているのは、今はまだ信仰共同体に属していないけど、いつか加えられる人の存在です。

イエス様は、彼らも含めた「一つの群れ」のための羊飼いであります。

私たちが、「我らの主」という時の「我ら」の中には、そんなまだ見ぬ「ほかの羊」も入っていることを覚えましょう。

彼らが早く、「我らの主」のもとに帰りつくことができますようにと祈りつつ・・。


共に祈りましょう。

我らの主よ。羊のために命を捨てる、まことの羊飼いよ。今日もあなたに属する「我ら」の一人一人を、よき牧場へと導いてください。
2014. 12. 18  
使徒信条を学んでいます、「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。」

「我らの主」に注目しましょう。

「我は・・信じる」と、神の前での孤独な「我」として、私たちはそれぞれ一人で立たねばなりませんが、

その一方で、主イエスは私一人の「主」なのではなく、「我ら」の主なのです。

神の前での孤独は、孤立とは違います。


コロサイ3:12-15の御言葉を思い出しています。

「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦しあいなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。

これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。

また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」

キリストのもとへ招かれるとは、「キリストの体」である信仰共同体に招かれるということと一つです。

「我ら」が互いに愛し合い、平和を作り出すことこそ、「主」に従う道です。


共に祈りましょう。

我らの主よ、今日も「我ら」のうちに、愛を増し加えてください。教会員も、求道の友も・・、「我ら」の一人一人に今日も平安がありますように。
2014. 12. 17  
使徒信条を学んでいます。「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。」

イエス・キリストは、神の特別な「独り子」であり、正真正銘の「御子」であると聖書は教えます。

イエス様は、神様に対して「アッバ=お父さん」と呼びかけました。

イスラエル留学しておられた牧師の家庭で、幼子がお父さんに「アッバ、お休みなさい」などと親しく声をかけているのを見て、イエス様と父なる神様とのあたたかな関係性が豊かに想像されました。

しかし、神様のことを、お父さんと呼ぶ・・。そんなことはゆるされない冒涜行為でした。

聖なる至高の神に、そんなになれなれしくしていい人間など、いるはずがないからです。

でもイエス様だけは、ゆるされるのです。「御子」だからです。

この「御子」が、彼を信じる者たちの内にご自分の霊(=聖霊)を与え、御子に似た「神の子」として生きる新しい人生に導いてくださいます。

「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、・・お遣わしになりました。それは・・・、わたしたちを神の子となさるためでした。

あなたがたが子であることは、神が「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。

ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。・・・(ガラテヤ4:4-7)」


共に祈りましょう。

大いなる神よ、私たちの長兄である御子イエス・キリストの後に従い、あなたを「お父さん」と呼ばせていただきます。偉大な父よ、今日もあなたのもとで平安をお与えください。そして私たちを、神の子としてふさわしく整えてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
FC2ブログへようこそ!

検索フォーム
カテゴリ
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR