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2015. 01. 29  
昨日与えられた、コロサイ1:23について、もう少し考えてみましょうか。

「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」


このように言われていますが、残念ながら私たちの信仰というのは、悲しいほどに、もろく、揺れ動くものです。

いろんなことが原因で、すぐに崩壊します。

悪いことばかりが続く。神様は、祝福なんて全然くださらない・・。周囲との戦いに、人間関係に、労働に、奉仕に・・とにかく何だか疲れてしまった・・。牧師に傷つけられた・・。会いたくない人がいる・・。


神様は、そのすべてのことを通して、私たちに何かを気付かせようとしてくださっているのだと思います。

現実をそのように解釈することのできる力こそ、信仰のもたらす一つの恵みです。

でも、その「信仰」そのものが、崩れてしまった時は・・・・。

そういう人にこそ読んでほしいと思って、毎日配信をしていますが、そういう人は、たとえメールを受け取っても、恵みを受け取れなくなっておられることでしょう・・。

イエス様は「あなたの信仰が無くならないように祈った」と、裏切るペトロを憐れんでくださいました。

主の憐れみにすがって、牧師もまた、皆さんのために祈っています。


共に祈りましょう。

信仰の創始者また完成者であるイエスよ、今もし、信仰の喜びがしぼんでしまって、あなたを見失っている者がいましたら、どうか憐れんでください。どうかあなたが、深く深く、その魂に寄り添ってくださって、慰めと、力を与えてください。




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2015. 01. 28  
先の日曜日の説教に対する応答として、ある方が、この聖句をあげてくださいました。

コロサイ1:23「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」

「福音の希望」とは何でしょう。

以前は神から離れ、神と敵対して、神の怒りと呪いにさらされていた私たちが(コロサイ1:21)、

今や、御子イエスの十字架の死によって、神とのあいだを和らがせていただいて(平和・和解)、聖なる者、とがめるところのない者としていただきました(コロサイ1:22)。

だからこそ今や、神は私たちの味方でいてくださいます。どんな時も。

どんな苦しみの時も、病の時も、さみしい時も・・。死の陰の谷を行く時も、神が共にいてくださると信じてよいのです。

終わりの時の裁きも恐れることはありません。

「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛(ローマ8:39)」から決して離されることなく、永遠の命まで導かれます。

この全体が、「福音の希望」です。


共に祈りましょう。

主よ、あなたは私たちの父、救い、盾。私たちが、この一日、信仰に踏みとどまり、福音の希望の光の中で、喜び生きることができますように。


2015. 01. 24  
「我は、その独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。」

最後に、イエス様は「まことの祭司である」ということを考えましょう。

旧約時代の「祭司」の役割は、罪深い人間と、義である神様のあいだに立ち、犠牲のいけにえをささげることでした。

イエス様は、人と神のあいだに立たれる、新しい契約の仲介者です(ヘブル9:15、Ⅰテモテ2:5-6)。

そして、旧約の祭司と決定的に違うのは、ご自身の命を、罪の赦しのための犠牲のいけにえとしてささげてくださったことです。

ヘブライ人への手紙には、イエス様こそ永遠の大祭司であると丁寧に教えられていますが。その中で、7:25-27を分かち合いましょう。


「それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。

このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。

この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。」


共に祈りましょう。

大いなる神よ、大祭司イエス様の執り成しによって、今日もあなたに親しく近づくことができますことを感謝します。あなたの愛の守りの中で、今日も安心して歩ませてください。
2015. 01. 23  
「我は、その独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。」

「キリスト」であるイエス様は、私たちの「まことの預言者」です。

「預言者」とは、神からの特別な啓示を預かり、それを人々に伝えて、隠された神秘を教える人のことです。

ヘブライ人への手紙冒頭の言葉を覚えてください。

「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。・・・(ヘブライ1:1-2)」

神様は、イエス様を通して、私たちが知るべき救いの真理をあますところなく、最終的に教えつくしてくださいました。


イエス様はこんな風にも言ってくださいました。

「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。(ヨハネ15:15)」

親友にすべてを打ち明けるように、イエス様は、私たちにすべてを打ち明けてくださったというのです。

あまりにももったいないことです。

そういう思いで知らせていただいたことを、あますところなく受け取らせていただきたいという思いが与えられました。


共に祈りましょう。

まことの預言者なる主イエスよ、あなたが教えてくださる救いの真理を、十分に受け取れず、またその価値を知らず、喜べない、鈍い者たちをおゆるしください。どうか聖霊が耳を開いてくださって、あなたの教えが深く理解できますように。喜びを覚えることができますように。
2015. 01. 22  
使徒信条の学びを再開します。「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。」

イエス様が「キリスト」であるということは、「まことの王・預言者・祭司」であるということだと学びました。

今日は「まことの王」であるということを覚えましょう。

ゼカリヤ9:9に、こういう預言があります。

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。」

この預言が、イエス様のエルサレム入城の際に成就しました(マタイ21:1-11)。

イエスという王様は、ご自分の言葉と霊によって私たちを支配される「王」ですが、決して高ぶる暴君ではありません。

雌ロバの子に乗ってこられるやさしいお方であり、柔和で謙遜なお方です。

この方は、裸の王様のように偉そうにはしません。する必要がないからです。人から弱いとなめられても、何も気にしません。

徹底的に神を信頼し、神とひとつであることで満たされておられるからです。

そういう王様に支配していただくなら、私たちもまた、魂が砕かれていくという幸いにあずかるでしょう。


共に祈りましょう。

まことの王なるイエス・キリストよ、今日も私たちの歩みを力強く導いてください。そして、私のすべてをあなたがご支配くださって、神の御心に一致することができるようにしてください。
2015. 01. 21  
昨晩から、邦人二人がイスラム国の人質とされた事件に、心を痛めています。

その中の一人、後藤健二さんは、日本基督教団田園調布教会の会員である信仰者です。

この記事に、くわしく証しが書かれています。
国際ジャーナリスト・後藤健二〜それでも神は私を助けてくださる〜

彼が大切にしているという、詩篇54篇を分かち合い、主の助けを共に祈りましょう。

神よ、御名によってわたしを救い
力強い御業によって、わたしを裁いてください。
神よ、わたしの祈りを聞き
この口にのぼる願いに耳を傾けてください。
異邦の者がわたしに逆らって立ち
暴虐な者がわたしの命をねらっています。彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。
見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる。
わたしを陥れようとする者に災いを報い
あなたのまことに従って
彼らを絶やしてください。
主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ
恵み深いあなたの御名に感謝します。
主は苦難から常に救い出してくださいます。わたしの目が敵を支配しますように。


主よ、今、私たちの世界で、罪人たちの悪しき思いがぶつかりあい、憎しみと悲惨が増し加わっています・・。主よ、願わくは、御心が天になるごとく、地にもなりますように・・。そして主よ、我らの助けなる主よ。今捕われている者に、どうか助けをお与えください。
2015. 01. 20  
先主日の礼拝説教に、多くの方から喜びの反響をいただきました。

それぞれ、心に響いた御言葉があったことでしょうが、メッセージの中心は、「信仰を与え、支え、確立してくださるのは、ただ神の恵みである」ということであり、「だから、信仰を与えていただいているということを、もっと大切にしたいですね」ということでした。

「あなたがたは、わたしを何者だというのか?」というイエス様からの問いに、「あなたはメシア、生ける神の子です」とペトロは応えました。

これは、大変重要な信仰告白です。

それに対しイエス様は、こう言ってくださいました。

「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」

「あなたは幸いだ!!」と祝福してくださいました。

これは、山上の説教のはじめの八つの祝福や、詩篇1篇、119篇冒頭と同じ、「幸いの宣言」です。

あなたに正しい信仰告白が与えられた、それはすばらしいことだよ、喜んでいいのだよ。天の父が与えてくださった、この上ない祝福なんだよ・・。


今日、あなたにも、イエスを自分の救い主とする信仰が与えられているならば、それはいかに幸いなことでしょう・・。


共に祈りましょう。

主よ、あなたを信頼して歩むすべての者たちと、今日も共に歩んでくださり、永遠の希望の光で、その歩みを照らしてください。
2015. 01. 17  
「我は、その独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。」

「キリスト」というのは、イエス様の名字ではなくて、職務です。

アラム語「メシア」を、ギリシャ語にしたもので、意味は「油注がれた方」です。

明日の礼拝説教の予習にもなりますが、マタイ16:16で、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と言いますが、そのようにして「あなたこそがメシア(=キリスト)であると信じます」というのがキリスト教信仰です。


そして、イエス様が「キリスト=油注がれた方」であるということは、この方こそ、「まことの王・預言者・祭司」であるということです。

かつて旧約時代、「王・預言者・祭司」という重要な職務に召された者が、聖別されたことの象徴として、美しいオリーブ油を頭上から注がれました。

例えば、サムエル記下5:3に、ダビデが油注がれて王となったという記録があります。

イエス様の時代には、すでに王家は絶え、預言者は400年現れず、祭司たちは腐敗してしまっていました。

だからこそ人々は、「王・預言者・祭司」の職務を一身に引き受ける、前代未聞の偉大な「救い主=キリスト」が、いつか到来されることを待望したのです。


共に祈りましょう。

私たちにキリストを与えてくださった神よ、今週も、今日までの恵みの導きを感謝します。キリスト到来の喜びをいよいよ増し加え、礼拝への備えをなさせてください。
2015. 01. 16  
「我は、その独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。」

昨日読んだ書物から、考えせられたことを分かち合います。

人間が生涯問い続けるのは、人間とは何か、私とは何ものか、ということでしょう。

自分とは誰か。どこで自分は望みをもって自分であり続けることができるか・・。

聖書の言葉で言えば、どこで自分は、真実に、自分を愛することができるのか・・。

自分自身に対して、絶望してしまう時が、人間にはあります。

絶望してしまって、自分を見捨てて投げ出すか・・・、あるいは、まるで決死隊のように、絶望的に自分自身に閉じこもり、誰の言葉にも耳を貸さずに突撃をしようとするか・・・。

その絶望の淵で、なお自分を捨てず、自分を生かしきる・・、それはもう決して自分自身では不可能なことです。

その絶望している私自身を、まるごと創造された方である、神に信頼するよりありません。

そして、その絶望している私をも、なお愛おしみ、「ご自分のもの」として大切にしてくださる、イエス・キリストを信じることです。



「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。(ローマ14:8)」



共に祈りましょう。

主よ、今、絶望の淵に立たされている者を憐れんでください。罪の悲惨の現実にもがいて、苦悩している者を、十字架の愛で覆ってください。私のこの一日を、あなたが生かしきってください。
2015. 01. 15  
「我は、その独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。」

「イエス・キリスト」を「主」とする信仰ということを考える時に、思い出すのはガラテヤ6:17の御言葉です。

「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。」


昔、奴隷の額か腕に、その所有者の紋章を焼きつけて、所有者のものであるしるしとしました。

パウロが身に受けた「イエスの焼き印」とは、具体的には、迫害によって受けた体の傷跡のことでしょう。

ガラテヤ教会を扇動した反対者たちに対して、「私を煩わせるな。どれだけ私の福音伝道を邪魔しようとしても、私は屈しない。」と宣言しています。

なぜなら、私はキリストの焼き印を身に帯びているからだ、と。

「私には大切なことはただ一つより無い。他のすべてのことは、この一つに比べれば大切ではない。何事でも、私にこの大切な一事を捨てさせ、思いあきらめさせることはできない。それは、私がイエス・キリストの僕であり、私がキリストのものであるということである。そのしるしの焼き印を、私は体に押されている。この焼き印が終生私の体から消えないように、私はキリストのものであり、キリストの僕である。(田中剛二「ガラテヤ書講義」より」


共に祈りましょう。

主よ、私の所有者よ、私の支配者よ。私を私以上に知ってくださり、大切にしてくださるあなたに、今日も私のすべてをおゆだねします。いよいよ、あなたの御心と一つにしてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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