FC2ブログ
2015. 02. 14  
使徒信条の学びを続けます。今日は「十字架につけられ」です。

以前、私の恩師からこんな話を聴きました。

自分が明確に、自分の罪とその赦しを覚えるようになったきっかけは、「やっぱり十字架だったよ」と。

ある礼拝での説教で、十字架が語られたそうです。

どれだけキリストが痛みを味わわれ、血を流されたのかということを伝えてくれるものでした。

その説教によって自分がキリストを殺したのだということを、はっきり分からされたと、教えてくださいました。

イエス・キリストを十字架にかけて殺したのは、自分なのだ・・・。このことを認めることが、スタートなのです。

私たち人間は、罪なき人、正しい人であるイエス・キリストを十字架につけて殺すという間違いを犯しました。

「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。(使徒言行録7:51-52)」


共に祈りましょう。

主よ、今週も今日まで私たちは、様々にあなたに逆らい、キリストを悲しませてしまったことでしょう。自分自身と、この時代の罪を、よく見つめ、私たちが真に悔い改めることができるように導いてください。
2015. 02. 13  
使徒信条の学びを再開しましょう。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という言葉から、イエス様の苦しみのご生涯の最後の場面を思い出します。

ポンテオ・ピラトは、紀元26年から36年までユダヤの総督をつとめたローマの軍人です。

彼の名がここで出てくることで、イエス様は、確かに私たちと同じ人間として歴史を生きられたのだと、私たちは改めて気づきます。

ポンテオ・ピラトは、弱く卑劣な人物として、聖書では描かれます。

「ピラトは言った。『あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見出せない。』(ヨハネ19:6)」

このように、ピラトは、イエス様に何の罪も見出せないと分かっていました。

しかし、暴動を起こすぞという、ユダヤ人の脅しに屈して、最終的に、十字架につけろと指示しました。

自分の保身のために、長いものにまかれるようにして、無実の人をも見殺しにする・・・、私たちの内にも、そんなピラトがいないでしょうか。

主は、そんな私たちの醜い罪を引き受けて、「苦しみを受け」て死なれたのです。


共に祈りましょう。

主よ、弱く卑劣な私を、十字架において共に死なせてくださって、イエスの愛と義に生きる者として、今日の日を新しく生きさせてください。
2015. 02. 12  
昨日の集会で改めて、「政教分離の原則」について教えていただきました。

日本では、「宗教者が政治のことに口を出してはならない」という原則だと受け取られていることが多いです。

しかし、本来は、「権力と宗教がむすびついてはならない」ということです。特に日本の歴史的文脈では、かつての大日本帝国の国家神道のように、「国家権力が宗教を利用して人心を支配してはならない」という意図が強いものです。

クリスチャンは、日本社会における無力なマイノリティーとして、権力者によって自分の信仰的良心が圧迫されないように、「口を出す」権利があります。

また、そういう発言・行動は、神の前で「生きる」ということの、ひとつのかたちです。

「聖書」は、私たちの内面的・霊的生活だけでなく、各人の政治的活動を含めた、この地上における生き方全般に関わる教科書です(まさにバイブル!!)。

「だからあなたがたは、食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい(Ⅰコリント10:31)」とあるように、教会の活動以外のときも、四六時中、何をするにしても、ちゃんと聖書を教科書にしてものを考え、行動し、神の栄光をあらわすことこそ、私たちに求められています。

ですから、政治に関するようなことも、それぞれで、キリストの隣人愛と平和の精神に即してちゃんと考え、行動するということが、神の前での一つの責任なのです。(その際、それぞれで考えが違うことは当然ありえますし、あっていいことです。)


共に祈りましょう。

地上のすべての事柄を導いておられる大いなる主よ、私たちもまた、あなたの僕として責任をもって、地上のすべての事柄を、ちゃんと考え、行動することができますように。聖書を通して、私たちの生活のすべてを導いてください。
2015. 02. 11  
今日は2月11日。「建国記念の日」とされていますが、これは日本書紀にある神武天皇の即位の日であり、戦前の国家神道において「紀元節」と呼ばれていた日です。

先日、池上彰さんの番組でも、天皇の本来のつとめとしての「祭儀・祈り」について触れていましたが、日本という国は、そういう大祭司としての「天皇」という存在を「国民の統合の象徴」として持つ、極めて特殊な宗教国家であるという一面があります。

大日本帝国であった時代には、そのことが露骨に前面に出ていました。

「天皇」は日本国民が崇め、命をささげるべき「現人神」とされ、キリスト教会も天皇崇拝や神社参拝を強制させられました。

「紀元節」というのは、そんな国家神道体制における一大イベントでした。

ですから、日本のキリスト教会では、この2月11日を「建国記念の日」ではなく「信教の自由を守る日」ととらえなおし、聖書において自らを啓示されるただ御一人の神様への信従を、改めて確認する時としています。

Ⅰコリント8:5-6の御言葉に聴いて、確認しましょう。

「現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。」



共に祈りましょう。

万物の支配者である主よ、日本の国をかえりみてくださり、かつてのように、思想・良心の自由がおろそかにされる国にならないようにしてください。

このような特殊な国で、キリスト教信仰を与えられたことの恵みと幸いを心から感謝します。
2015. 02. 10  
他教派の姉妹ですが、山上の説教について調べるうちに、勝田台教会のホームページに行き当たって、私の説教に触れたという方からメールをいただきました。

大変励まされ、毎日の祈りの前に読んでいると知らせてくださいました。

こうやって読んでくださっている方がいるものなのですね。主が用いてくださったことを、うれしく感謝しました。

そう言われて、改めて山上の説教の解き明かしを読んでみると、もう忘れてしまっていて、自分でもハッとさせられます。

施しをする時には、人目につかないようにしなさいという教えを読んでいました。

これは、「あまりにも人間の評価を気にしすぎる私たちの心を、そういう窮屈さから解き放つための、解放の言葉である」と、私は解き明かしていました。

「あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。(6:4)」

あなたの天の父が、報いてくださるよ。だから、人間の評価に縛られるな。

神を見上げよ。ただ神の道に忠実にあれ・・と、イエス様は教えてくださいます。

そうすれば、神はきっと、くしゃくしゃにほめてくださいます。

終わりの時に到来する完全な慰めの中で、神と顔と顔をあわせ、神のもとで安らぐ。その時に、父が、くしゃくしゃにほめてくださるのです。

よくやった私の息子よ、私の娘よ、お前は私の教えに生きようと、精一杯がんばった。

疲れたろう、たくさん傷ついたろう、たくさんの過ちも犯したね、たくさん失敗したね、でもお前は精一杯がんばったと・・・くしゃくしゃにほめてくださるのです。



共に祈りましょう。

主よ、私たちの過ちも、私たちの善行も、すべてを見ていてくださるあなたの前で、赦されながら、励まされながら、今日も精一杯生きていくことができますように。
2015. 02. 07  
もう一度「主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ」を考えます。

イエス様は確かに、人間マリアの胎の中から、私たちと同じ人間として生まれてきてくださいました。

それは、罪を別にして、すべての点で私たちと同じようになるためだったのです。

そうして、私たちと同じように、罪の悲惨に満ちた現実を悲しみ、「死」の恐怖をも味わわれました。

でも主は、死んでよみがえることで、「死」を打ち砕き、あらゆる悲しみと恐怖から、私たちを解き放ってくださいました。

ヘブライ人への手紙2:14,15を読みましょう。リビングバイブルが分かりやすいです。

「神様の子どもである私たちは、血も肉もある人間です。そこでイエス様も、血肉を持った人間の姿でお生まれになりました。それは、人間として死ぬことにより、死の権力をふるう悪魔の力を打ち砕くためです。これだけが、死を恐れて、一生涯、恐怖の奴隷となっている人々を、救い出す方法だったのです。」


共に祈りましょう。

主よ、今日私たちが、恐怖の奴隷となることがないように、死に勝利されたイエス・キリストの御名において、強く雄々しくあることができるように励ましてください。
2015. 02. 06  
使徒信条の学びを再開しましょう。今日からは次の段に入ります。

「主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、葬られ、陰府にくだり・・」

今日は「主は聖霊によりてやどり、おとめマリアより生まれ」を考えます。

一番大切なことは、神に等しい永遠の神の御子が、真に人間として、人間の胎から生まれてこられたということです。

それは、聖霊による誕生だった。つまり、ふつうの人間とはまったく違う、一回きりの特別な仕方で、人間の罪の影響を受けないで生まれてこられるように、神の手が働いたということです。

おとめ(処女)がはらんだというのは、それ自体を素直に信じることができるかどうかで、「信仰か不信仰か」の試金石にされてしまうこともありますが、

そういうことよりも、こういう特別な出来事でもって、「今まさに、私はあなたがたのために手を差し伸べたのだよ」ということを、神様が分かりやすく教えてくださろうとしているのだということを、正確につかんでほしいと思います。

そしてそれは、イザヤ書の預言の成就でもありました。

「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ばれる。(イザヤ7:14)」

インマヌエルとは、「神は共におられる」ということです(マタイ1:23)。

まさに神は、御子において人間となってくださって、私たちと共にあろうとしてくださいました。今日も、この方が共におられます。


共に祈りましょう。

主よ、イエス様が確かに人間として弟子たちと共に歩まれたように、今日も、聖霊が私たちと共に歩んでいてくださることを信じます。今日もすべてを備え、支えてください。
2015. 02. 05  
I兄が、血液の病気のため、今日から再度入院して治療されます。お祈りください。
**********

昨日に続いて、東ドイツのキリスト者のエピソードを紹介します。

東ドイツでは、牧師の子どもは、大学に入学するチャンスを閉ざされるなど、あからさまに排除されました。

ある牧師家庭で夕食を共にする時、その12歳の息子が涙を流し始めました。

国語の授業において、激しく教師から怒りをぶつけられたのです。

詩人ハイネの「織物職工たち」という詩の暗誦を命じられたのですが、どうしても第二節を口にすることはできないと拒んで、抵抗したためです。

なぜならそこには、過酷な状況にある職工たちが神を呪う言葉が、記されてありました。

神に従う者として、たとえ詩人の言葉であったとしても、神を呪う言葉を口にすることはできないと、抵抗したのです。

両親はこう言ったそうです。「また学校から呼び出しを受けるでしょう。しかし、私たちは、こういう息子を与えられていることを誇りとします。息子の神に従う信仰の良心の戦いを支えるより他ありません。」


もう一度だけ、この御言葉に聴きましょう。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。(マタイ16:24,25)」


共に祈りましょう。

主よ、わたしたちに、本当の「命」はどこにあるのかを教えてください。永遠なるあなたの御前で、真に尊厳ある生を刻むことができますように。あなたがそのように、私を歩ませてくださいますように。
2015. 02. 04  
一昨日読み終えた書物にあったエピソードを紹介します。

かつて東ドイツという国がありました。人間が人間として扱われない国でした。

そんな国の中で、キリスト教信仰に生き続けることは、すさまじい戦いでした。それでも、人々は信仰を捨てることはありませんでした。

なぜでしょう?・・・それはやはり、イエス・キリストが唯一の希望だからでしょう。

その国では、9歳から軍事教育が始まりました。

それに抵抗する10代のキリスト者たちとの語り合いの思い出を、著者は記憶していました。

彼らが、自分たちの抵抗運動について討論する言葉を傾聴しながら、ひとつ質問したそうです。

学校当局ににらまれ、大学入学資格を奪われる危険にさらされながら、どうしてなお教会堂に集まり、誠実に信仰を貫こうとするのか・・・。

しばらく、沈黙があったそうです。

やがて、一人の少年がぽつりと言いました。「教会に来ると、ここだけが、ぼくを人間扱いしてくれるような気がするんです。」

国家に役立つ歯車ではなく、ただ人間として尊ばれる・・。

神に創造された尊厳ある存在として、そして、独り子を与えていただいたほどに神に愛されている、大切な存在として、自分自身を取り戻す。

それが、「命」を得るということなのでしょう。教会とは、そういう「命」に満ちた場なのでしょう。

昨日の御言葉を繰り返します。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。(マタイ16:24,25)」


共に祈りましょう。

主よ、あなたこそ私たちの希望。あなたを知ることがゆるされ、あなたに知っていただいている私は幸いです。今日、信仰の戦いに直面する者たちの「命」を豊かに燃やしてください。
2015. 02. 03  
先の日曜日には、こういう御言葉が与えられました。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。(マタイ16:24,25)」

「自分を捨て、自分の十字架を背負う」とは、イエス様に従いきろうとする、根本的な構えのことです。

自分がどうしたいかではなく、イエス様がどうしろと願っておられるかを、中心とする。

イエス様の愛に生きる。平和を造る。正義を伝える・・・。

そうやって、主に従って歩もうとすれば、肉体の生命が危険にさらされることもあります。

神は、独り子が十字架で苦しみ死ぬのを見て耐えられたように、信じる者が、苦しみ死ぬのを見て、その悲しみを耐えておられる時があります。

死を与えないでほしいと、私たちは祈ります。しかし、死が与えられます。そこには神の神秘があります。

御心が分からなくて、私たちは肩を落とします。しかし、聖書にはっきり示されているのは、その死は終わりではないということです。

肉体の生命は失われます。しかし、「命」を得るのです。

「命」とは、存在そのものと言ってもいいのではないでしょうか・・。

神のかたちとして創造された、一人一人の固有の存在、その本来の尊厳が輝きだすのです。その「命」は永遠の次元に通じます。・・永遠の存在となるのです。

そしてその「命」は、後に続く者たちをも生かすのです。・・突き動かすのです。


共に祈りましょう。

主よ、十字架の死の向こうに復活の朝が開かれます。その希望を、はっきりと教えてください。主よ、主イエスよ、私たちを、あなたと共に十字架に死なせ、あなたと共に復活させてください。


プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
FC2ブログへようこそ!

検索フォーム
カテゴリ
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR