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2015. 02. 28  
今週は、使徒信条の「三日目に死人のうちよりよみがえり」に深まりました。

イエス様が復活されたように、私たちもまた復活すると、聖書は約束してくれています。

そのとき、「どんなふうに復活するのか。どんな体で来るのか」と、心配になる方がいるでしょう(Ⅰコリント15:35)

日本のように火葬してしまって大丈夫という、素朴な疑問もあるでしょう。

復活の時には、まるでゾンビのように、私たちの罪に満ちた魂と、卑しい肉体のままで蘇生するわけではありません。

そうではなく、まったく別次元の、イエス様が弟子たちに現れた時と同じような、栄光の体をいただくのです。

「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。

つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。(Ⅰコリント15:42-44)」


共に祈りましょう。

主よ、病に苦しむこの弱い体が、罪を犯し続けるこの汚れた体が、輝かしいものに復活させていただける日を、希望をもって待ち望みます。この復活の信仰の喜びを、私たちのうちに増し加えてください。
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2015. 02. 27  
使徒信条「三日目に死人のうちよりよみがえり」を学んでいます。

「復活の希望」を考える時に、ぜひ読んでいただきたいのはエゼキエル書37章の御言葉です。

エゼキエルが見せられたのは、枯れた骨でいっぱいの谷の幻でした。

ここには現実に起こった戦争での殺戮によって生み出された光景と、人々のカラカラに渇いた砂漠の心とが重なって映し出されています。

これは罪の極まった終わりの風景です。そんな罪の悲惨に満ちた現実に絶望してしまって、誰も希望を語りえない・・・、私たちもまた、そんな時代に生きているのではないでしょうか。

でもそんな絶望の風景に、神の霊が吹き付けられるとき、命の希望が生まれたと言うのです。

「『・・これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。』・・・主はわたしに言われた。『霊に預言せよ。人の子よ、・・・霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。』 わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。(エゼキエル37:5、9-10)」

枯れた骨が組み合わさって、その上に肉体が戻って、そして神の霊を吹き入れられて生き返る・・・。そのようにして、イスラエルよ、お前たちの国も新しく生まれ変わると、エゼキエルは希望を告げました。

イエス・キリストの復活は、そのようにして、罪の悲惨に絶望する人間を、再起させる希望でもあるのです。


共に祈りましょう。

命の主よ、あなたが希望をくださらなければ、私たちはみな、罪に飲まれ、カラカラに渇いて滅んでいくしかない、絶望的な者たちです。主よ、今絶望している者がいましたら、あなたからの希望によって、よみがえることができますように。
2015. 02. 26  
使徒信条「三日目に死人のうちよりよみがえり」を続けます。

キリスト教会の歴史上最初の説教と言ってもいい、ペトロの説教は、キリストの復活の証言でした。

ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方であり、あなたを罪の悲惨から、神の怒りと呪いから、死のむなしさから、そして永遠の破滅から救い出すことのできるただお一人の方であると、彼は告げます。

なぜなら、この方は、神によって復活させられた方だからです。

以下、使徒言行録2:14-42からの抜粋です。

「・・・このイエスを神は、お定めになった計画により・・あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは・・十字架につけて殺してしまったのです。

しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。

・・・ダビデは預言者だったので、・・・キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない(詩篇16:10)』と語りました。

神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。

・・・だから、・・はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。

・・・悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。・・・邪悪なこの時代から救われなさい。」


共に祈りましょう。

大いなる神よ、私たちはイエスを殺してしまう罪深い者です。しかし、その私たちを救うために、あなたはイエス様を復活させてくださり、命の道を開いてくださったことを感謝します。、
2015. 02. 25  
使徒信条の「三日目に死人のうちよりよみがえり」を考えています。

ルカ福音書24:36からを、ぜひお読みください。

復活されたイエス様と再会した弟子たちは、最初は亡霊だと思って恐れおののきます。でもイエス様が「亡霊ではない、復活したのだ。わたしの手や足を触ってよく見なさい」と言ってくださいます。

そしてイエス様は、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、このように教えてくださったのです。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。』(ルカ24:46)」

まさにその通りのことが起こったのだ、これを信じなさい、と。

このイエス様の「復活」は、弟子たちをまったく別人のように変えてしまいました。

イエス様が地上におられる間、弟子たちはとても鈍くて、イエス様がどういう方であるかも、本当には分か

らないままでした。

だから、十字架で殺されてしまった時に、深い絶望と挫折を味わって、逃げるように散っていきました。

しかし、そんな彼らが、死をも恐れぬ伝道者に生まれ変わります。この変化は、キリスト教の歴史における最大の不思議と言ってもいいと私は思っています。

そしてこの変化は、ただ彼らが反省したとかというだけでは、とても説明できないと思います。

そうではなく、十字架で死んだ方の「復活」という、人知を超えた神の希望に触れたから、彼らは生まれ変わったのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日も恐れおののき、不安におびえる私たちの心を開いてくださって、死者の中からよみがえられたイエス・キリストの希望によって、勇気を得させてください。
2015. 02. 24  
今週は、使徒信条の「三日目に死人のうちよりよみがえり」に深まっていきます。

イエス・キリストの「死者の中からのよみがえり=復活」は、キリスト教の信仰にとって「最も大切なこと」であると、先週確認しました。

そうであればこそ、この「復活」が事実であったのかどうかが問題になります。

多くの目撃証言があるにもかかわらず、そんなことはありえないと考え、でっちあげだということにしてしまいたいのは、現代人も古代人も同じです。

マタイ28:11からには、ユダヤ教の指導者たちが、ワイロによって嘘の証言をさせていたことも記録されています。「弟子たちが夜中にやってきて、我々の寝ている間に死体を盗んでいった」と言いなさい、と。

確かにイエス様の復活は、科学的には証明できないかもしれません。

しかし、科学で証明できるから「信じる」というのであれば、それは聖書が教えている「信仰」ということとは、ちょっと違ってきてしまいます。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブライ11:1)」という御言葉も、改めてよく考えてみましょう。


共に祈りましょう。

主よ、2000年のあいだ教会が大切に証言しつづけてきた、復活の信仰を、その大いなる値打ちを、私たちもまた十分に悟ることができますように。今日の一日、この信仰に満たしてくださって、尽きせぬ命と力を得させてください。
2015. 02. 21  
使徒信条の学びを進めます。今日は「三日目に死人のうちよりよみがえり」です。

イエス・キリストの「死者の中からのよみがえり=復活」は、キリスト教の信仰にとって「最も大切なこと」です(Ⅰコリント15:3)。

「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。(ローマ10:9)」

このように、イエス様の復活を信じることこそ、救いの条件とされています。

こんなことまで言われています。「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。(Ⅰコリント15:14)」

こういう大切な「復活」の信仰に、来週は深まっていきましょう。

明日は日曜日です。教会では日曜日に礼拝を守ります。なぜかといえば、主イエスが復活されたのが「週の初めの日=日曜日」だったからです(ヨハネ20:1)。だから、それ以来、日曜日に礼拝を守るようになりました。

あの最初の日曜日、復活の主があらわれて、マグダラのマリアや弟子たちと出会いなおしてくださったように、毎週日曜日ごとに、私たちと出会いなおしてくださることを信じて、礼拝をするのです。


共に祈りましょう。

イエスを死者の中から復活させられた、大いなる神よ、あなたをほめたたえます。どうか明日、復活の日曜日に、それぞれが思いを新たに、イエス様と出会いなおすことができますように。それぞれに、明日を迎えるためのよき準備をなさせてください。
2015. 02. 20  
使徒信条の学びを進めましょう。今日は「陰府(よみ)にくだり」です。

「陰府(よみ)」とは、ヘブル語の「シェオール」のことです(詩篇6:6など)。古代の世界観では、そこは死者の霊魂のおもむく地下の領域であると理解されていました。

日本語では、「よみ」といえば本来「黄泉」のことで、日本神話における死者の世界です。それとある程度共通したところがあると理解されて、「よみ」と翻訳されるようになったのでしょう。

さて、「陰府にくだり」とはどういう意味か。

それは、キリストが低さの極みにまでくだられて、死の苦しみ、不安、恐れを味わいつくされたということだと、理解するのがよいでしょう。

「陰府の支配からわたしは彼らを贖うだろうか。死から彼らを解き放つだろうか。(※いや、そんなことはありえない)。死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか。(※イスラエルへの)憐れみはわたしの目から消え去る。(ホセア13:14)」

ここは難解な箇所でありますが、「お前を陰府から救い出すことなど決してしない」と、罪人に破滅を言い渡す裁きの言葉です。

私たちは、誰もが本来、この言葉におびえて、死に恐怖するしかない者でした。

でも、キリストが、身代わりに、陰府にまでくだってくださいました。

今や、キリストを信じる者の霊魂は、死後、天上の教会へと籍を移され、キリストのもとで安らぎ、復活の時を待つと、私たちは信じます。


共に祈りましょう。

主よ、もし今日あなたに命を奪われることがあっても、キリストのゆえに、安心して死ぬことができますことを感謝します。あなたから召されるその時まで、今日も精一杯、信仰と希望と愛の道を歩ませてください。
2015. 02. 19  
使徒信条の「十字架につけられ、死にて葬られ」を、もう少し考えましょう。

神からはぐれたままの罪人は、みんな永遠の滅びに至ると聖書にははっきり示されています。

Ⅱテサロニケ1:8-9「主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。彼らは、主の面前から退け

られ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。」


「永遠の破滅」とは、人知を超えた恐怖であり、まだだれにも分かりません。

でも、十字架にかけられたイエス様を見るなら、それがどういうものかがすでに示されています。

イエス様は十字架の上で、この「永遠の破滅」を味わっておられます。

私たちのために。私たちの身代わりに。

十字架の死は、最も悲惨な処刑であり、神に呪われた死でした(ガラテヤ3:13)。

その十字架にかけられ、神から完全に見捨てられるという、誰も味わったことのない恐怖を、悲惨を、裁きを・・、たった一人で味わわれ、

「わが神わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と、痛ましい叫びをあげられました。

私たちの罪を、一人で引き受けて死ぬというのは、そういうことだったのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちの内に、永遠の破滅の恐ろしさに向き合う真剣さをください。そして、そこから救われた喜びと平安を、もっと深く味わい知ることができますように。
2015. 02. 18  
使徒信条「十字架につけられ、死にて葬られ」を続けます。

イザヤ1:4-6にこんな御言葉があります。

「災いだ、罪を犯す国、咎の重い民/悪を行う者の子孫、堕落した子らは。彼らは主を捨て/イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けた。何故、お前たちは背きを重ね/なおも打たれようとするのか/頭は病み、心臓は衰えているのに。頭から足の裏まで、満足なところはない。打ち傷、鞭のあと、生傷は/ぬぐわれず、包まれず/油で和らげてもらえない。」

まるで十字架の上のイエス様のことを言っているような、痛ましさです。

これは、紀元前701年、アッシリア王によって攻められた後の、エルサレムの人々の様子を描いています。

罪にまみれた神の民の末路を、預言者は見ています。

頭から足の裏まで、もはやどこもボロ雑巾のように傷つき果てている人々。神に背いた時代のなれのはてです。

それは今の私たちの姿でもあります。十字架のイエスと同じような、傷つき果てた人間の時代・・・。

でもそんな有様になっていても、なお罪を犯し、ますます傷を広げていく。

神はそんな私たちを見て、やりきれぬ思いで嘆いておられるのです。

「なにゆえ、お前たちは背きを重ね、なおも打たれようとするのか。・・・そんなにボロボロになってしまって」。


共に祈りましょう。

主よ、この罪深い時代を憐れんでください。傷ついた者同士が、さらに傷つけあっていくような、悲しみを止めさせてください。十字架の主イエスの愛で、私たちを覆ってください。
2015. 02. 17  
使徒言行録を学んでいます。「十字架につけられ、死にて葬られ・・・」

イエス・キリストが、私たちのために犠牲になり、私たちの罪の身代わりに、十字架にかかって死んでくださったと、私たちは信じます。

私という、罪深い存在を、完全に引き受けてくださったとも言えます。

昨日、黒澤明監督の「羅生門」という映画を見ました。自分勝手で、自分をとりつくろうことから逃れられない、人間の「さもしさ」が扱われていました。

そういう「さもしさ」のことを、聖書では、罪と言います。

そういう「さもしい自分」を認めることは、とてもとても苦しいことです。苦しくなければ嘘です。そして、泣きたくなるほど悲しいことです。

でも、その悲しみこそが必要です。それこそが、パウロの言う「神の御心にかなった悲しみ」であり、「救いに通じる悔い改めを生じさせる」ものです(Ⅱコリント7:10)。

そういう自分を本当に悲しむことができたのなら、もうそれで十分です。それ以上、自分の罪をほじくりかえして、自分をいじめても仕方ありません。それは自己憐憫に過ぎません。

そうではなく、十字架を見上げるのです。主は、そのあなたのために、あなたの代わりに死んでくださいました。あなたは、赦されています。


「打ち砕かれ悔いる心」をもって、共に祈りましょう。

神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって、深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。・・・わたしを洗ってください。雪よりも白くなるように。・・神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。(詩篇51篇より)
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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