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2015. 04. 27  
初夏を思わせるような陽光の下、庭のバラも最初の花をつけました。

いつも日々の御言葉を、共に味わうことがゆるされ感謝します。配信を楽しみに待っていてくださるとの声が、励みになります。

今週は、中会会議やその記録の作成などに追われますので、配信をお休みさせていただきます。

大学院の研究が始まり、皆様に過労を心配していただいていますので、無理をしないでおきます。ご了承ください。

また、来週も、全国青年リトリートなどで神戸に出張しますので、お休みさせていただきます。

二週間の休みとなりますが、皆様の御言葉と共なる生活が、いつも祝福されますように。

「わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。(イザヤ66:2)」

感謝して、坂井
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2015. 04. 25  
<田中剛二「応えられざる祈り」より、抜粋>

祈りが聴かれなかったために、信仰を失ってしまった一人の婦人について、

「彼女は祈りについての誤った教えの犠牲者だ。彼女は神を信ずる代わりに、祈りを信じていたのだ」と言った人があります。

まことに味わうべき言葉ではありませんか。

祈りを信ずる者は、祈りが失敗するとその信仰を失います。当然です。

しかし神を信ずる者は、祈りが応えられない時に、一層深く神の御意志を思い、そこに訓練され、謙虚にされ、従順にされ、忍耐と希望をもって飾られるでしょう。

また、応えられないことこそが、大きな応えであるのだということを、深い慰めと希望のうちに告白して、栄光を神に帰するでしょう。

****
今週一週間、応えられない祈りについて、深く思い巡らしてきました。

今、私の心には、あのダニエル書の言葉が浮かんでいます。迫害を受け、金の像を拝めと強要された三人の少年が、ネブカドネツァル王に敢然と言い放った言葉です。

「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことがおできになりますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、ご承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。(ダニエル3:17-18)」

「そうでなくとも・・・」それは、「祈りが応えられなくとも・・」に通じます。

神を信じるというのは、そういうすさまじいことなのでしょう。


共に祈りましょう。

主よ、私たちに揺るがぬ信仰をください。祈りが応えられず挫けそうになっている私たちの、信仰を大きく深く広く高くしてくださって、新しい祈りを引き出してください。
2015. 04. 24  
<田中剛二「応えられざる祈り」より、抜粋>

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ。めん鳥がひなを羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。・・・(マタイ23:37)」

これは、イエス様を拒むユダヤ人たちのかたくなさに対する、イエス様の嘆き悲しみです。

「何度集めようとしたことか・・・」とあるように、イエス様は、ユダヤの人々の救いのために、真実の愛をもって必死で祈られました。

しかし、その同胞への執り成しの祈りはかなえられず、多くの者たちが離れていき、滅びの道を行きました。

そして福音伝道はエルサレムで拒絶され、伝道者たちは追われることとなりました。

でも、その結果として、福音は異邦人世界へと広がり、救いが全世界に及ぶこととなりました(ローマ11章を参照)。

そのようにして、神の深遠な救いのご計画は、前進していくのです。

私たちによる、愛する者の救いのための祈りも、応えられないことがあります。しかしそれは、空しく葬り去られたのではないのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの深遠な御心に思いを馳せ、この一週間を過ごしています。私たちは愛する家族や友人、また迷走する同胞たちが、主イエスを知ることができますようにと願います。主よ、私たちの思いを超えて、私たちの願いがかなえられますように。
2015. 04. 23  
<田中剛二「応えられざる祈り」より、抜粋>

「・・わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのできる方に、・・栄光が世々限りなくありますように。アーメン。(エフェソ3:20-21)」

間違いだらけの私たちは、自分に害となるようなことを祈り求めている場合もあります。

そして私たちの経験には、祈りが聴かれたゆえの感謝よりも、むしろ、聴かれなかったゆえの感謝のほうが多いのではないでしょうか。

その時は熱心な真実な叫びであったことについても、後になって、「あの時ああなっていなくてよかった」と、感謝をもって神の拒絶を想起するという経験は、決して少なくないのではないでしょうか。

聴かれない祈りは、聴かれるよりも大きく聴かれているのです。

*****
上記のような説教に触れて、「病者の祈り」と題される有名な詩を思い出しました。


私は神に求めた、成功をつかむために強さを。私は弱くされた、謙虚に従うことを学ぶために。

私は求めた、偉大なことができるように健康を。私は病気を与えられた、よりよきことをするために。

私は求めた、幸福になるために富を。私は貧困を与えられた、知恵を得るために。

私は求めた、世の賞賛を得るために力を。私は無力を与えられた、神が必要であることを知るために。

私は求めた、人生を楽しむために全てのものを。私は命を与えられた、全てのものに楽しむために。

求めたものはひとつも得られなかったが、願いはすべてかなえられた。

神に背く私であるのに、言い表せない祈りが答えられた。

私はだれよりも最も豊かに祝福されている。


共に祈りましょう。

「主の慈しみは深く、こらしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない。(哀歌3:32-33)」

主よ、計り知れぬあなたの御心によって、今日も、必要なすべてを備えてください。私たちの貧しい祈りを超えて、あなたの御心がなりますように。
2015. 04. 22  
<田中剛二「応えられざる祈り」より、抜粋>

神の愛は、個人個人に対するのと同時に、全宇宙の全被造物に注がれています。

私たちはあまりにも、ただもう自分のことばかりに没頭し、心を奪われ、神と自分との関係をのみ主張します。

しかし、実は個人の生活は、全体の歴史の一部なのです。

一人一人の人生は、全宇宙をあまねく導く、神の大いなるご計画のうちに織り込まれています。

私一人が神の被造物ではなく、私一人が信者でなく、私一人が祈っているのではありません。

私たちの祈りがたとえいかに熱心で、それ自体正しく見えても、全体に対する神のご計画に沿わないことがあるとは、考えられないでしょうか。

モーセは、荒れ野の40年の旅の後、約束の地に入りたいとの願いは拒まれました。

モーセのカナン入国を許可するのは、イスラエルの民を戒めようとする神の道徳的計画に反するからです。

あのゲツセマネのイエス様の、十字架の苦しみを回避させてくださいとの祈りは拒まれました。

一人の祈りの拒絶は、神のご計画全体に、救いの歴史全体に、大きな意味を持っているのです。


あのイエス様の祈りに合わせて、共に祈りましょう。

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。(ルカ22:42)」

主よ、今、困難を覚える者たちのために祈ります。あなたの大きなご計画の中での、個人的な苦しみの意味を、悟ることができるヴィジョンを、彼ら彼女らにお与えください。
2015. 04. 21  
私はこれから2~3年間、田中剛二という牧師の説教について研究し、修士論文を書こうとしています。

1941年6月に、ある冊子に掲載された「応えられざる祈り」という説教がすばらしいので、今週の配信で、大事なポイントを紹介いたします。

***
聖書の中には、「祈りが必ず聴かれる」との約束が、「祈りなさい」との要求と共に、しばしば与えられています。

それであるのに、信者の熱心な祈りが応えられなかったという経験は、私たちの多く知るところです。

このことは、私たちが祈る時の、一つの最も大きな難関ではないでしょうか。

しかしながら私たちは、この神の表面的な拒絶について、失望する前に反省しなければならないでしょう。

私たちは間違いだらけであり、本当になすべきことをしばしば見誤ります。

そんな私たちが神に望んでいる答えが、最善のまた最も正しい答であるわけではありません。

ですから、その答が与えられなかったからといって、神を不正とすることができましょうか。

私たちは、神に対して、「あなたはこうなさるべきだ」と強要するような、傲慢にふくれあがってしまってはいないでしょうか。

「神は神にて在すという明白なこと、・・・神は我らよりもはるかに比いもなく偉大にて在すという明白なことが、祈りの応えられない時こそ、真実に告白されねばなりません。(田中)」

イザヤ書55:8-9に示された、神の御心の圧倒的な深遠に思いを馳せましょう。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、超えている。」


共に祈りましょう。

「近寄り難い光の中に住まわれる、深遠なる方。偉大な天地の創り主よ。わたしたちではなく、主よ、わたしたちではなく、あなたの御名こそ、栄え輝きますように。あなたの慈しみとまことによって。(詩篇115篇参照)
2015. 04. 18  
使徒信条の学びも、ついに今日で最後です。「永遠の命」の喜びを覚えて終わりましょう。

Ⅰコリント15:19にこう言われています、「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」

キリストの与えてくださる希望は、「この世の生活」だけではなく「永遠の世界」に関わるものです。

永遠の世界のことは、神様ご自身に教えてもらわなければ分かりませんが、聖書というのは、そういう神の啓示を書き記しているからこそ、聖書として大切にされてきました。

そしてその聖書によれば、すべてが終わるその向こうに、死者の復活ということがあるのだと示されています。

そこから始まる「永遠の命」・・・、それは罪と死の呪縛から完全に解放された世界です。

「この世の生活」は、どれほど幸福でも、罪の悲惨があります。死がすべてを空しくします。

しかし、永遠の命の世界は、一切の労苦がありません。憂いがありません。罪が邪魔をしません。

だから、もう誰も傷つかず、愛し合うことができます。自分のことも、ありのままに愛せるようになります。

今まで見えなかった神の恵みが、明らかに見えます。神のすばらしさを、そのすばらしさのままに受け取って、賛美することができるのです!!


共に祈りましょう。

主よ、永遠の命を与えてくださって感謝します。地上の事柄によって心を小さくしてしまう私たちの目を開き、永遠の喜びをとらえさせてください。
2015. 04. 17  
使徒信条「身体のよみがえり、永遠の命を信じる」を考えます。

世の終わりの時に「復活」させていただく時、私たちは、イエス・キリストの復活の身体と同じ、栄光の身体を与えられます。

「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。(フィリピ3:21)」


しかし、そのキリストの栄光の体には、十字架の傷跡が残ったままであることを、忘れてはいけません。

罪を引き受け、苦難を受けて、血を流した、あの生々しい傷跡が残ったままです。

それと同じように、私たちの復活の体にも、きっとたくさんの傷跡が残るのでしょう。

この罪と死と病との戦いにもまれた人生において、私たちが味わった痛み、悲しみ、苦しみが、様々な傷跡となって、この体に刻まれています。

迫害された人の傷も残るのでしょう。激しく転んだ傷や、乗り越えた手術の跡なども残るのかもしれませんね。

それらすべては無駄ではなかったのです。それらもすべて、神が与えてくださったものです。意味ある傷跡です。だから、残ります。

その傷跡に刻まれた神の恵みが、今は見えませんが、復活の時には、きっと明らかに見えるようになります。

今まで、コンプレックスでしかなかったものも、私たちの永遠の生を彩る大切な思い出の数々として、私たちに与えられ直す・・、それが復活の希望の時です。


共に祈りましょう。

主よ、今日も私たちはこの地上の生涯に取り組み、たくさん傷つき、疲れ果ててしまうかもしれません。でも、そのすべてが栄光の輝きを帯びる、復活の体の希望を仰ぎ見ます!!主よ、今日も心を高く引き上げてください。
2015. 04. 16  
使徒信条の最後、「身体のよみがえり、永遠(とこしえ)の命を信じる」を学びましょう。

ちょうど昨日、引退牧師の横田隆先生をお迎えしての「キリスト教の『終活』のススメ」という集会がありました。

コヘレトの言葉12:1-8を引きながら、人生の終わりに差しかかる中での、肉体の衰えによる不安や、死に向かう恐れについて語られ、参加者の共感を呼んでいました。

「止まない雨はない」というのは若いときの話で、年を取ると何もかもが億劫になり「明日もまた雨」と思う・・・。

手足が震え、ビンのふたが開けられない・・。針に糸を通すことができない・・。

そうして肉体は衰え、最後は「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。(コヘレト12:7)」と、死を迎えます。

そういう具合に、人間は結局だれも朽ち果てていく。だから「なんと空しいことか、・・すべては空しい」と、コヘレトは言います(8節)。

確かに、神との正しい関係を失ったまま死を迎えるならば、そこには空しさしか残らないでしょう。

しかし、聖書は、その空しさから人間をあがなう、身体のよみがえりの希望を告げるのです。

「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。(Ⅰテサロニケ4:14)」


共に祈りましょう。

大いなる全能の創造主よ。どうか私たちが、死に向かっていく恐れ、不安、空しさにのみこまれてしまわないように、復活の希望を確かにしてください。
2015. 04. 15  
使徒信条「罪の赦し」を信じるを考えています。

カルヴァン先生が、「キリスト教綱要」の書き出しにこう書いています。

「人間にとって二つの認識が重要である。それは神を認識することとわれわれ自身を認識することである。」

神を認識することと同じだけ、我々自身をしっかり知ることが大事です。

それは、「神に赦されねば滅びるよりない罪人としての自分自身」を知るということです。それをなくしては、神を正しく知るということもままならない。

そしてこういう風に言います。「・・・自分自身に対する不快感を抱き始めてからでなければ、神を真剣に渇望することはできないのである。」

「自分自身に対する不快感」という言葉が、刺さります。

こんな自分はもうまっぴらだ、がっかりだ・・という思いです。

自分自身の罪深さ、弱さ、醜さということをまっすぐ見つめると、自分を嫌いになります。

でもそうやってもう頭を上げることもできないくらいに、うなだれて、ひざまずく時に初めて、神を真剣に渇望するようになる・・。


実際は、そうもうまくはいかないでしょう。残念ながら、人間というのは、そうやって自分に絶望しながらも、なお自分にしがみつき、自分の道を行く愚かさを抱えています。

それが、人間の「罪」の深刻さです。その「罪の赦し」のために、十字架の犠牲が必要でした。

「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。(イザヤ53:6)」


共に祈りましょう。

主よ、私たち自身の罪深さを、本当に知り、認めることができるようにしてください。そして、あなたの真実の偉大さを、愛の深さを、本当に知ることができますように。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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