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2015. 05. 30  
今週は、いつも以上に様々な方々との語らいがあり、悩み、励まされ、教えられ、魂が養われました。

その中で特にひとつだけ、ある方から教えていただいた言葉を分かち合わせていただきます。

「永存の希望」

我は我が思想を以て後世に残らんと欲せず、

又我が政策、又は軍功、又は藝術を以て我が名を後世に伝えんと欲せず、

我は我が愛を以て長く人の心に留まらんと、欲す、

我が著書は悉く(ことごとく)忘らるるも可なり、我が事業はすべて失敗に帰するも可なり、

願くは我が愛の永久的ならんことを、

願くは真の愛を以て冷水一杯にても与ふるを得て、小さき一人の心になりと愛の紀念として在らんことを。

馬太傳十書四十二節(明治42年―1909年)

(マタイ10:42「・・この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」)


これは、内村鑑三先生の言葉です。

他の何も残らずとも良い。願わくは、私の愛だけが永久に残りますように。そんな永遠の愛を、神が私の内に起してくださるように。

「それゆえ、信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(Ⅰコリント13:13)」


共に祈りましょう。

主よ、それぞれに与えられた、今週の歩みを感謝します。信仰と希望と愛を豊かにしてくださって、いよいよ恵みの世界へと導いていってください。
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2015. 05. 29  
ヘブライ書9章、特に13,14節を取り上げます。

「なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」


いけにえの首に当てられた刃が振りぬかれると、赤い鮮血が噴き出します。

血は命の象徴であると、旧約聖書に言われます(レビ17章11節など)。

おびただしい血を流し、がくがくと震えて、いけにえが絶命していきます。

自分の身代わりに死んでいくのです。壮絶な光景です。信仰生活に緊張をもたらしたことでしょう。

その神殿祭儀において流された血は、やがて与えられる、イエス・キリストの血による「永遠の贖い(12節)」を指し示すものでした。

「この杯は、罪の赦しを得させるようにと、多くの人のために流す私の血で立てられた新しい契約である」とは、聖餐式の式文です。

そこで思い起こされるのは、あの十字架の上で流された主の赤い鮮血です(ヨハネ19章34節)。

主の壮絶な絶命です。

このイエスの血を真剣に思い起こすなら、私たちの中で必ず何かが変わり始めます。

キリストの血は、私たちの良心を清めて、死んだ行いから離れさせ、生ける神に真剣に仕える者と変えるはずです。
  

共に祈りましょう。

新しい契約の仲介者であるイエスよ、あなたの流してくださった血によって、この汚れた心を清め、雪のように白くしてください。この一日、清い心で過ごしたいのです。
 
2015. 05. 28  
ヘブライ書8章1節です。「今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。」

同じことの繰り返しになりますが、ここにヘブライ書の焦点がありますから、何度でも覚えましょう。

「永遠の大祭司」イエス・キリストは、ただ一度の決定的な犠牲のいけにえとして、十字架において御自身をささげてくださり、私たちに完全な罪の赦しをもたらしてくださいました。

それゆえ私たちは、もはや恐れも負い目もなく大胆に神に近づき、その愛を疑わずに身を委ねることができます。

しかもこの大祭司は、神の右の座に着いて、天にある真の幕屋でご奉仕されていると教えられています。

神の右の座は、神に等しい全権の象徴です(エフェソ1章21節)。

それは、神の御子に当然の栄誉です。

そういう方が、完全に私たちの側に立って、神に執り成していてくださるのだから、もはや何を恐れることがありましょうか(ローマ8章34節)。

ですから、「このような大祭司が与えられて」いるとは、なんとも素晴らしい言葉ではありませんか。

キリスト者の心を、救いの確信と平和と喜びに満たす言葉です。


共に祈りましょう。

神よ、こうしてあなたに祈ることのできるのも、大祭司なるイエス様の執り成しのゆえであることを覚えて感謝します。今日もあなたの赦しの愛の中で、間違いだらけであっても、精一杯歩むことができますように。
2015. 05. 27  
ヘブライ書を読みすすめましょう。今日は7章です。

「(27節)この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。」

イエス・キリストは、神の絶対不変の誓いによって立てられた「永遠の大祭司」です(20~22節)。

この大祭司イエスの開いてくださった神への道に、命と救いの道にとどまるようにと、試練の中で苦しむ兄弟姉妹を励ましているのがヘブライ書です。

この「永遠の大祭司」は、創世記14章に登場するメルキゼデクと同じような、特別に神から立てられたユニークな方です。

何より、「御自身」の体を「いけにえ」として、「ただ一度」だけ献げられたというところに、そのユニークさは極まります。

その「ただ一度」のいけにえ、すなわち十字架の死によって、罪の贖いは完全に「成し遂げられ」ました。

私たちは、もうこれ以上何も加える必要はありません。

私がどれだけ神に背いてしまっても、もうすべては神の赦しの愛の中に置かれています。

神の怒りを怖がる必要はありません。自分を自分で裁く必要もありません。

成し遂げられた完全な救いを信じるのです。


共に祈りましょう。

主よ、間違いだらけの私たちを、今日も憐れんでください。あなたの赦しに感謝します。主イエスの成し遂げてくださった救いに感謝します。今日の日、この感謝をもって、あなたの喜びに仕えることができますように。
2015. 05. 26  
昨日はじめて、日曜学校の教師の姉妹たちとの、平日の学び会をしました。

これから毎月一回、継続していきたいと願っています。お祈りで支えてください。

上から「こうあるべき」と押し付けるだけの教育ではなく、イエス様の大きな赦しの愛の中で、子どもたちと痛みを分かち合い、励ましあう、そんな関わり方をしていきたいのです。

教師自身の抱えている、疑いや迷いや、イエス様に従いきれぬ弱さをさらしつつ、でも、その私をイエス様は赦してくださったという喜びと、今より後イエス様のために生きたいと願う小さな決断を、子どもたちに豊かに証しさせていただきたいと願います。

何より、神さまの子どもとしていただいたことの喜びを、豊かに証しできる教師になりたいのです。

あの放蕩息子が、父に抱かれた時の喜びと平安ですね。

こんな私が、神の目にかけがえのない子として、ただ愛されている。

まことにかたじけない、ありがたい・・・、この喜びが、「私も、父を愛したい。父の喜んでくださることをしたい。」との熱心を呼び起こします。

この愛し愛される神との親子関係の喜びが、子どもたちの人生のすべての時間を、強く支える軸となることを信じます。

「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。(ヨハネの手紙Ⅰ3:1)」


共に祈りましょう。

天のお父様、あなたの子とされる資格のない私に、走りよって、抱きしめ、接吻してくださるあなたの愛の中で、今日も朗らかに歩ませていただきたいと願います。あなたの子として、あなたの喜びに仕えることができますように。また、愛する子どもたちに、この「あなたの子とされる」喜びを、証しできますように。
2015. 05. 23  
明日はペンテコステ(聖霊降臨記念日)です。ぜひ礼拝にお集いください。聖霊の与えてくださる喜びを、一人でも多くの方と分かち合いたいのです。

聖霊は、御父と御子キリストより出ずる霊であり、私たちの内に住んでくださって、永遠に共にいてくださる方です。

この方が、私たちの内に、すべてのよいことをもたらしてくださいます。

信仰を与え、希望を与え、愛、喜び、平安を与えてくださいます。

やさしく、強く、スケールの大きく、愛の深い人間へと作り変えてくださいます。


いくつかの聖句を分かち合って、共に祈りましょう。

「(ローマ 5:5) 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

「(Ⅰコリント 6:19) 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。

「(テトス3:6-7) 神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです

「(Ⅱコリント 13:13) 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」

主よ、この私にも聖霊が与えられていることを感謝します。どうぞ今日の一日、静まりと祈りの時間を備えてくださって、内なる聖霊との豊かな交流を与えてください。入院している者にも、聖霊の慰めと平安がありますように。
2015. 05. 22  
昨日、姉妹方と読書会で、カルヴァンの「信仰の手引き」にある、祈りについての教えを分かち合いつつ、ダニエル書9:1-19節の、ダニエルの祈りに心を合わせました。

それは、私たちの持つ祈りのイメージとは全然違うかもしれない、自らの民族の罪をとうとうと想起し、「わたしたちがダメだったのです・・・」と、ただひたすらに、神に向き合い、自分に向き合って言葉をつむいでいました。

「祈りとは、こういうことでもあるのですね」という発見があったようです。

祈祷会での共同の祈りや、礼拝での祈りなどの、形式にとらわれてしまうと、祈りの本質を見失ってしまうかもしれません。

「祈りとは、神と私たちとの間の語り合いのようなもので、これによって私たちは神に、自己の願い、喜び、嘆き、要するに心の思いのすべてを申しのべるのである」と、カルヴァンは教えてくれます。

「心の思いのすべて」をさらそうとすると、ダニエルのように、「わたしはダメです・・、ごめんなさい」という言葉ばかりになってしまう時もあるかもしれません。

すべてを知っておられる神の前では、それでいいのです。

そして、そうしてすべてを申しのべると、神様に願わざるを得なくなると思います。赦してください。助けてください、と。

ダニエルもそうでした。今朝、共にこの祈りに心を合わせましょう。

「わたしたちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます。主よ、聞いてください。主よ、お赦しください。主よ、耳を傾けて、お計らいください。わたしの神よ、ご自身のために、救いを遅らせないでください。(ダニエル9:18,19)」
2015. 05. 21  
今日はヘブライ書6章、特に11,12節を分かち合います。

「わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見習う者となってほしいのです。」

ヘブライ書の最初の読者たちは、信仰のための迫害による様々な艱難に苦しんでいたであろうと想像されます。

だから本書を一貫して信仰の励ましがなされ、救いにとどまるようにと伝えられます。

とはいえ、その教会が福音を捨てて堕落してしまっているわけではありません。

むしろ、熱心な愛の業となって表れてくるような、生きた信仰を持っていました(10節)。

だからこそ、その熱心を保ち、最後まで救いの希望にとどまってほしいと言われます。

それは、私たち「おのおの」の魂の状況を御心にとめていてくださる、主ご自身の切なる願いでしょう。

熱心、それは時を経ても冷めない熱い思いです。

しかし残念ながら私たちは、悲しいほどに冷めやすい・・。そして、心は燃えても体が弱い・・。

信仰生活は長いマラソンです。

坂道に苦しみ、足を痛めてあえぐ時こそ、ゴールにある圧倒的な希望を思うのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たち一人一人、それぞれの試練がありますが、どうか最後まで走りぬかせ、栄光のゴールへ導いてください。若者たちに、今起されている情熱を保たせてください。老いの坂を上る者には、はじめの熱心を回復させてください。
2015. 05. 20  
ヘブライ書を読み進めます。今日は4:14~5:10です。

「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。(5:7)」

私たちの地上での生活は、荒れ野をさまよったイスラエルの日々と同じく試練続きです。

神は本当に私を守り導き給うのか・・、疑いとつぶやきが心に沸き起こる。

まさに、信仰が試される修羅場というものがあります。

イエス様も私たちと同様に試練を味わわれました。

最大の試練は十字架上の苦しみです。

しかし、「激しい叫び声をあげ、涙を流しながら」も、神に対する信頼を全うされました。

神は確かにその信頼に応えられ、イエス様を復活させ「死から救う」こととされました。

この大祭司イエスの後に続くことへと招かれています。

思えば、私は入信する前、試練ということをちゃんと考えた記憶がありません。

信仰を持ったがゆえに、苦しみは試練として意味を持ち始めました。

試練とは、信仰が試されることです。

でもその度ごとに、主イエスとの新しい信頼関係が始まる、恵みの機会です。


共に祈りましょう。

主よ、今日も私たちの信仰を深め、さらなる恵みの世界を味わわせてください。今、試練を味わっている者がいましたら、どうかその信仰を支え励ましてください。
2015. 05. 19  

「だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例にならって堕落する者が出るかもしれません。(ヘブライ4:11)」

「この安息」とは、イエス・キリストを信じる者に約束されている、永遠の完全な憩いです。

イエス様の下で、すべての涙をぬぐわれ、すべての労苦から解き放たれ、安心して息ができる・・。

この安息に「あずかるための努力」とは、具体的には、礼拝に積極的に参加し、そこで告げ知らされる福音を受け取り、信じることと言えるでしょう(2,3節)。

もちろん信仰は、私たちの努力ではなく、聖霊の恵みによって起されるものですが、聖霊のお働きは、私たちの側の積極性を用いてくださるという仕方でなされます。

「不従順の例」にならってはいけません。

かつてイスラエルの民は、ヨシュアによってカナンという「安息」の土地に導かれましたが、

その時、不従順と不信仰によって、安息にあずかれなかった人々がいました。

今週も、私たちの地上の日々は、荒野の旅路のように試練続きです。しかし、そこでこそ信仰は意味を持ちます。

約束された永遠の憩いを仰ぎ見て、主の道にとどまりましょう。



共に祈りましょう。

私たちに大いなる安息を与えてくださる主よ。あなたのもとで憩うその時まで、この小さな信仰をあなたがかえりみてくださって、あなたと共に歩ませてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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