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2015. 06. 30  
我が家には一年生の娘がいますが、毎日楽しく学校に通えているようでなによりです。

今はもう通学にも慣れて、ずいぶんたくましくなりましたが、入学当初は見ていてかわいそうになるほどに、大きな大きなランドセルが重そうでした。

まるでそれは、彼女の背中にのしかかっている大きな不安を映し出しているようで、神様に守りを祈らざるを得ない日々であったことを思い出します。

大人になると、ランドセルの代りに、目に見えない色んなものを背負い込みます。

色んなものを背負い込んで、いつの間にか背中が丸くなってしまう。

背中が丸くなると、呼吸も苦しくなって、窮屈になります。

先の主日にはイザヤ書46:3-4の御言葉が与えられました。

「わたしに聞け、ヤコブの家よ、イスラエルの残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」

この言葉は、打ちひしがれている人、生きることに苦しみを覚えて背中が丸くなってしまっている人のために与えられた言葉です。

いろんなものを背負い込んでいる、そのあなたのことを、神が背負っていてくださいます。


共に祈りましょう。

主よ、今日も不安、心配、思い煩いに心乱れる私たちですが、どうか憐れんでくださって、あなたの大きな背中にもたれさせてください。
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2015. 06. 26  
先主日の説教では、イエス様の教えにまっすぐ向き合おうとしないでごまかした、祭司長たちの姿に学びました。

思い出したのは、このエレミヤ42:20-21の聖句です。

「あなたたちは、致命的な誤りを犯そうとしている。『我々のために我々の神である主に祈ってください。我々の神である主が語られることを知らせてくださるなら、すべてそのとおりにします』と言って、わたしをあなたたちの神である主のもとに遣わしたのは、あなたたち自身である。そこで、わたしが今日それを告げたのに、自分の神である主の声を聞こうとせず、主がわたしを遣わして語られたことを全く聞こうとしない。」

これは、バビロン捕囚の時のこと。生き残った者たちは、エジプトに逃げたいと思いつつ、悩みました。

そこで、預言者エレミヤに頼んで、神様に祈って聞いてもらいました。

エレミヤは、「エジプトに行ってはならない、かえって危険だ」との神様の警告を伝えました。

しかし人々は、その神の声にまっすぐ向き合おうとせず、ごまかしました。

結局は人間的な判断を優先して、エジプトに逃げました。その結果、警告どおりの悲劇になりました。

聞きたくない御言葉を、聞かなかったことにしてごまかした結果、そういうことになったのです・・。

私たちが、そのようにしない者であれますように。


共に祈りましょう。

主よ。今日それぞれに与えられるあなたからの教えに、ちゃんと向き合い、ごまかすことなく応えていくことができますように、私たちの心を整えてください。自分に都合のいいことばかり聴こうとする、私たちの耳を清めてください。
2015. 06. 25  
日曜日の説教では、イエス様を神殿から追い出そうとした祭司長たちの姿に学びました。

彼らは、自分たちこそ神殿において権威を持つ管理者であると自負していました。

ですから、「ここにはほんとうの神礼拝がない」と改革を迫るイエス様のことが、断じて許せません。

神殿の真の主人はイエス様なのですが、その権威を認めようとせず、その教えにも耳を傾けようとせず、かたくなな心で追い出そうとするのです。

私たちもまた、イエス様をこの心から追い出そうとしてしまう「かたくなさ」を抱えていないでしょうか。

私は私自身の支配者ではなく、私の真の支配者はイエス様なのに・・・。


「かたくな」であってはならないと、聖書には繰り返し言われています。

特に今朝は、エレミヤ18:11-12の御言葉が胸に迫ります。

「今、ユダの人々・・に言うがよい。『主はこう言われる。見よ、わたしはお前たちに災いを備え、災いを計画している。お前たちはみな、悪の道から立ち帰り、お前たちの道と行いを正せ。』彼らは言った。『それは無駄です。我々は我々の思いどおりにし、おのおのかたくなな悪い心のままにふるまいたいのだから。」


私たちは、自分の「思いどおり」にふるまおうとするならば、必ず神を悲しませてしまいます。残念ながら、そういう「悪い心」しか持っていないのです。

イエス様を、この心から追い出そうとせず、その教えに真剣に耳を傾け、心を作り変えていただく。

今日も、そのように願って、共に祈りましょう。


主よ。私の支配者よ。どうか、このかたくなな心を砕いてくださって、あなたが様々なかたちで与えてくださる警告に、真摯に耳を傾け、あなたの御心に生活を沿わせていくことができますように。どうか、今日も私たちを聖化してください。
2015. 06. 24  
先主日の説教において、天からの権威か、人からの権威かということが問われました。

「悔い改めよ」と叫んだ洗礼者ヨハネは、天から、すなわち神から遣わされたと信じるか?

あるいは、人から、すなわち自分で勝手に、あるいは周囲の者たちが権威付けているだけか?

天からか、人からか・・・。

使徒言行録5:29の、このような言葉を思い出します。「ペトロとほかの使徒たちは答えた。『人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。・・・』」

あるいは、こういう言葉も心に浮かびます。マタイ10:28です。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」

今朝、私は祈りの中で、神様に背筋を伸ばしていただきました。

そして、「人間を恐れない心をください」との祈りが与えられました。

人間として、他の人間と生きていこうとする時に、私たちはどうしても様々な感情を味わわざるをえません。

思うように心が通じなくて無念で、悲しくて・・、トラブルに向き合うのが恐くて・・、周囲の評価が気になって・・、あれがいけなかったかと後悔して・・・。

色んなことを考えてしまう。しかし、人間の思いに振り回されてはいけません。


共に祈りましょう。

主よ、人間を恐れない心をください。あなたをしっかり見つめ、あなたの御心をなすことだけに、心を注ぐことができますように。間違いだらけの私たちの歩みを、どうか赦してください。そして、今日も人間として、あなたの赦しの愛の中で、精一杯に生きることができますように。
2015. 06. 23  
日曜日に与えられた御言葉から、私たちはイエス様の持っておられる「権威」について考えさせられました。

イザヤ9章5節の、メシア預言を思い出します。

「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」

イエス様は、このような大いなる「権威」を帯びて、神から遣わされてこられた救い主です。

「権威」とは、「資格」と言い換えると、分かりやすくなるかもしれません。

私たちに、「わたしのもとへ来なさい、心の向きを変えなさい」と教えるにふさわしい、資格も力も責任もお持ちです。

絶対者である神と、その遣わされた救い主の「権威」に、ひざまずいて聞き従う・・・。

まずこのことを、よく考える一日にしたいと思います。


共に祈りましょう。

我が神よ、大いなる主権者よ、わたしの支配者であられるあなたに、抗うことをやめて、聞き従うことができますように。小さな自分にこだわるのではなく、大きなあなたに信頼することができますように。
2015. 06. 20  
昨晩は、勝田台教会を会場に、月に一度の東関東青年会の学び会がありました。

勝田台からも、三人の求道の友が参加して、充実した学びと交流ができたようです。お祈りください。

同じ時間に、御茶ノ水クリスチャンセンターでは、KGK(キリスト者学生会)の主催する学び会が開催されていました。

東京基督教大学で聖書考古学などを教えておられる菊池実先生による、聖書の地理を学ぶ機会。

ゆるされれば、私もぜひ参加したいもので、これも毎月一回継続されています。

その学び会で語られたことの一部を、以下のように分かち合っていただきました。

******
「イエスキリストが生まれた国で、どうして戦争ばかりが起こるんですか?」と問われます。

そうではないのです。

二大文明に挟まれて、肥沃な三日月地帯に位置するイスラエルは、黙っていても必ず敵は生じる場所。

大国の利害関係が絶えず生じ、戦争の絶えず止まないところにキリストは来られたのです。

「滅ぼし尽くせ」と声があがり、敵を愛していたらこちらが殺される場所で、キリストはそれでも「敵を愛せ」と語られたのです。その衝撃・・・。
******

「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)」

今こそ、この御言葉を大切に受け止めねばならない時はないかもしれないと、これから20年の歴史の行く末を案じます。

共に祈りましょう。

主よ、私たちに恐れのない愛をください。私たちの限界を超えて、山を動かしてくださって、限りのない愛をください。あなたの思いとひとつにならせてください。どうか、この地にあなたの御心を実現してください。




2015. 06. 19  
ヘブライ人への手紙の13章の解き明かしが、まだ手つかずでした。

最後は、20,21節の祈りの言葉を分かちいましょう。

「永遠の契約の血による羊の大牧者イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。」

この手紙は、迫害と艱難と戦いながら走り続ける信仰者に、大いなる救いの事実を見上げさせ、信仰の勇気を与え続けてきました。

その上からの励ましが、最後の美しい祝祷に凝縮されます。

神の栄光の反映である、神の御子イエス・キリストが、十字架で「永遠の契約の血」を流してくださり、私たちが命に至る道を開いてくださいました。

この主が、憐れみ深い「大牧者」として、迷える「羊」である私たちを、完全な安息へと導いてくださいます。

イエス様が「死者の中から引き上げられた」ことこそが、永遠の救いの契約が成就されたことの確証です。

それゆえ私たちには、神との間に「平和」が与えられています。

この「平和の神」が、世との戦いに疲れ果て、重荷を負う者たちに、永遠の平安を与えてくださいますように。

どうか今日も激しい戦いの中で、脱落せず、つまずかず、「御心」を行い、神の栄光を現すことができますように。

この祝祷を、今日の共なる祈りとさせていただきます。
  
2015. 06. 18  
今日も、不信仰の山を動かしてください、実を結ぶイチジクにならせてくださいと祈りましょう。

聖書には、「実を結ぶ」という比喩がとてもたくさん用いられます。

例えば、エレミヤ17:5-8にはこうあります。

呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし
その心が主を離れ去っている人は
彼は荒地の裸の木・・・

祝福されよ、主に信頼する人は。
主がその人のよりどころとなられる。
彼は水のほとりに植えられた木。
水路のほとりに根を張り・・・実を結ぶことをやめない。

主に信頼する人は、みずみずしく、白髪になってもなお実を結びつづけ、命にあふれ、いきいきとします(詩篇92:15)。

それは、「人間」の力では不可能です。私たちの努力と修練が、実を結ばせるのではありません。

本当に修練を重ねた人は、そういう己れの無力、限界というものを悟るものです。人間には信頼できません。

しかし、人間にはできなくても神にはできる。だから、祈るのです。主に信頼し、祈るのです。

いやむしろ、主に信頼することができるようにというところから、祈り始めるのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちに信仰と希望と愛を与えてください。どうか、豊かに与えてください。あなたと共に生きる喜びを、まだ私たちはほんのわずかしか知りません。主よ、実を結ぶ喜びを教えてください。
2015. 06. 17  
今週は、まことの信仰を与えてください、神との真実な関係を始めさせてくださいと、自分のために祈る一週間にしましょう。

今日覚えたいのは、Ⅰコリント13:2です。「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」

ドキッとさせられる言葉です。

信仰、信仰と勢い込んで、もう他者のことなど一切無視し、この世のわずらわしい人間関係は一切考えず、神様との関係にだけ没頭しようとするなら、自分独りのどっしりとした霊的安定を持つことは案外簡単かもしれません。

でも、イエス様の御心は、明らかにそうではないようですね。

隣人との関わりを無視した、信仰の喜びなどありえません。

むしろ、まことの信仰をいただくことで、愛する力を加えられていく。

その逆もしかりでしょう。愛することができるようにされるなら、人への恐れも不安も取り除かれて、神をまっすぐ信じることができるようにされていくのです。


共に祈りましょう。

主よ、人間が怖いです。友人を愛することができなくてつらいです。家族を愛することができなくて悲しいです。どうか憐れんでください。赦してください。恐れのない愛がほしいのです。そのためにこそ、あなたを信じたいのです。あなたに信頼し、大きな心で隣人と向き合いたいのです。どうか主よ、助けてください。愛し合えないわたしたちの惨めさを、どうか憐れんでください。
2015. 06. 16  
今週私たちは、マタイ21:18-22の御言葉をいただきました。

実のならないイチジクの木のように、実のならない信仰では、たちまち枯らされてしまいます。

ほんものの信仰をもち、疑わないでいなさいと、イエス様は教えてくださいました。

ヤコブ1:6-8の御言葉を思い出します。

「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」

私たちは、そのように揺れ動く人でありたくないという願いが、だれにでもあると思います。

まっすぐに神に信頼し、ゆだね、いつも希望と平安の中で歩みたい、神と共に歩みたいとの願いがあると思います。

でも、それを妨げるような不信仰の山が、自分の中にそびえ立っている・・・。

この山を動かしたいのです。この山が動く時、見えて来る新しい景色は、わたしたちの思いをはるかに超えてすばらしいものです。

動かしたい。そのために、祈るのです。この不信仰の山を動かしてくださいと、自分のために祈ることを習慣にしましょう。この祈りは必ず聴かれます。


共に祈りましょう。

大いなる主よ、私の前にそびえ立つ、あらゆる不安を取り除いてください。恐れを取り除いてください。新しい私を生み出してください。あなたとの真実な関係をはじめさせてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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