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2015. 07. 11  
今週はコヘレトの言葉から学んできましたが、最後に12:1を分かち合いましょう。

「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。(12:1)」

ここでは、単に創造主ではなく、「お前の、あなたの」創造主に目を留めよと言われます。

「あなたを造られた方」がおられることを大切に考えよということです。

「あなたの創造主」がいるということは、あなたが生まれたのは、偶然ではないということです。

人知を超えた深いご計画と愛情の中で、「あなた」は、「あなたの創造主」の御手により、特別な意図をもって創りだされました。

その創造された本来の意図・目的に沿って生きる時に、私たちの尊厳は輝きだし、「あなたの創造主」は喜ばれます。

たとえば、包丁は、おいしい料理を作るために創られたのであって、それが人殺しのために用いられれば、輝きを失います。

そして、その時一番悲しむのは、丹精込めて包丁を生み出した職人さんでしょう。

同じように、「あなた」が間違った道を歩めば、「あなたの創造主」は深く悲しみます。

罪の子ではなく神の子としての、「あなた」の本来の姿を回復するために、イエス様は来てくださいました。

主イエスの教えに誠実に従い、愛と正義と平和の道をあの方と共に歩み始める時に、「あなた」の尊厳も輝きだすのです。


共に祈りましょう。

主よ、コヘレトが求めた「幸福」とはなんだったのでしょうか?私たちもまた、人生を空しさから解き放つ、まことの幸福がほしいと願います。主よ、わたしの創造主よ、わたしが最も輝く道へと、いつも導いていてください。
2015. 07. 10  
「空しい、空しい、すべてが空しい」とのコヘレトの言葉を、今週は聞き続けています。

あんまり聞き続けますと、そうか生きることは空しいのだと、どうせ誰もが死ぬのだから・・と、虚無感にひきずりこまれてしまいそうです。

コヘレトとは、「賢者、導師」というような意味ですが、ちょっとひねくれすぎの感がありますね。

でも、彼が最終的に伝えたいことは、大いなる神が生きておられるということです。

この書物のいたるところで、やや屈折した仕方ではありますが、神の偉大さがたたえられます。

人間にはすべてのことを悟ることはできないが、神はすべてを知っておられる。

私たちの思いを超えて、ひとつひとつ、神の定めておられる時があると、諭します。

そして最後のページにこう結論するのです。「すべてに耳を傾けて得た結論。神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべて。(12:13)」

神を畏れかしこみ、信頼して歩むこと。その神の「戒め」、すなわち神の示してくださる愛の道、正義の道に、一歩一歩誠実に取り組んでいくこと。

そういう歩みこそが、人間のすべてである。すなわち、人間のなすべきことのすべてである。

そうやって神の前で誠実に生きていくところに、私たちが求めてやまない、真の幸福があるという教えです。


共に祈りましょう。

主よ、自分は何をしているのか?と、迷い悩む時が、だれにもあると思います。若い者にも、老いた者にも、聖書の教えをふさわしく与えてくださり、確かな道を歩んでいるという手応えを与えてくださいますように。
2015. 07. 09  
コヘレトの残した教えの中で印象的なのは、どれほど快楽を味わっても幸福にはなれないというものです。

彼は、人生の空しさを忘れるために、「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう」と考えます。

「・・・この天の下に生きる短い一生の間、何をすれば人の子らは幸福になるのかを見極めるまで、酒で肉体を刺激し、愚行に身を任せてみようと心に定めた。(コヘレト2:3)」

このように考えて、酒に女に金銀財宝と、この世の「快楽」を味わいつくしました。王様であるがゆえの、やりたい放題です。

遊んでばかりいたわけじゃなく、できる男として、一大事業に取り組んだことも書かれています。

そんな風にして、仕事やレジャーの喜びという「愉悦」もたっぷり味わったのでした。

しかし、その結果は、「見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない。(2:11)」という寂しいものでした。


彼が求めていた幸福とは、物質的なものではなかったようですね。そういうものは、すべて手にしたのですから。

彼が求めていたのは、もっと魂のことだったのでしょう。

自分の魂の深い深いところに確信を与えてくれる霊的な喜び。それは自分の存在の意味を知ることであるかもしれない。

そういうものは、太陽の下では得ることができないと断言するのは、太陽の上におられる方を、さりげなく指差すためなのでしょう。


共に祈りましょう。

太陽の上におられる大いなる主よ、太陽の下のことばかり思い巡らす私たちの不自由さを砕いてください。あなたに従う道において「幸い」があるとの約束に生きさせてくださって、貧しい心を豊かに満たしてください。
2015. 07. 08  
なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい・・・。

今までこつこつ積み上げてきて、せっかくここまで来たけど、もうすべてがどうでもいい。

自分の無力を思い知らされて、あるいは自分のダメさを思い知らされて・・。

精神力の強い人なら、この程度の困難は乗り越えていくはずなのに、自分にはできない。

どうしたらいいか分からなくて、本当はただ逃げているだけなのに、もう疲れたなどと同情を求めるばかりで、でもそういう自分の情けなさを、自分が一番よく知っていて・・。

そんな風に思ってしまう時が、皆さんにはないでしょうか?


コヘレトに合わせて口ずさんでみました。「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。」

不思議に、気持ちが楽になりました。

しばらくすると、内なる聖霊が、問いかけてくださいました。「言いたいことは、それでおしまいかい?」と。

「いえ、まだ続きがあるのです」と言えたこと。これは自分の中からは出てこない言葉でした。まぎれもなく、神の力によることでした。


共に祈りましょう。

主よ、今、困難に立ちすくんでいる者がいましたら、憐れんでください、助けてください。太陽の上に輝く、見えない光をもって照らしてください。あなたが共に戦ってください。
2015. 07. 07  
先の日曜日には、コヘレトの言葉1:2を分かち合いました。

「コヘレトは言う。なんという空しさ。なんという空しさ、すべては空しい。」

・・・夢も希望もないような言葉ですが、この言葉に共感を覚えるという方がたくさんいるようです。

この言葉は、神様が私たちの心に寄り添うために、差し出してくださっている言葉です。

私たちのすべてをご存知の神様が、私たちの心の中にある思いを代弁するかのように言葉を差し出してくださっています。

しかし、「すべては空しい・・」と人生を投げやりに過ごすことが、神の御心であるわけではありません。

「空しく思えてしまうよね・・。でもこっちを見てごらん」と、神の大らかな愛を信じる信仰の光の下へと私たちを招いてくれるのが、コヘレトの言葉です。

太陽の下で起こるすべてのことは空しいかもしれない。

でも、大いなる神は、太陽の下ではなく上におられるのです。


共に祈りましょう。

主よ、人生の空しさ、苦しさ、はかなさに、私たちがのみこまれてしまうことがないように、今日もあなたを見上げさせてください。あなたが共に歩んでください。信仰の光の下に導いてください。
2015. 07. 04  
聖書においては、神が人を「造った」と教えられます。

この「造った」という言葉には愛の響きがあります。

大切な宝として造った。最愛の我が子として造った。だから、だれひとり見捨てる事などできないという、愛のメッセージが込められています。

私たち一人一人が、天地万物の創造者の愛を一身に受けて作り出された、かけがえのない存在だと、聖書は教えてくれます。

この宇宙というのは人間の生存のために驚くほどぴったりに造られていて、しかも細部に至るまで正確に設計されているということが、ますます明らかになってきています。

そんな風に神は、人間のために、私のために、この宇宙さえも用意してくださったとさえ、言うこともできましょう。

それほどに愛されて造り出された私たちです。

自分で自分が愛せなくなることがあっても、私を造り出された神は、どこまでも私を愛していてくださるのです。

「あなたを造り、母の胎内に形づくり、あなたを助ける主はこう言われる。恐れるな、わたしの僕ヤコブよ。(イザヤ44:2)」

「ヤコブよ、あなたを創造された主は、・・あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな。わたしはあなたをあがなう。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。(イザヤ43:1)」


共に祈りましょう。

私を造ってくださった神よ、あなたが今週も今日まで、すべてを備えてくださったことを感謝します。わたしの創造主であるあなたへの畏れと信頼を、ふさわしく持つことができますように。
2015. 07. 03  
今週は繰り返し、イザヤ書46:3-4の御言葉を思い返しています。

「わたしに聞け、ヤコブの家よ、イスラエルの残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」

おなかの中にいた時から、私はずっとあなたを背負ってきたよ。

同じように、これからも背負い続けるよ、あなたがどれだけ年老いても、決して変わらないよと、神様は語りかけていてくださるのですね。ありがたいことです。

実は原語のヘブライ語で見ますと、この短い言葉の中に、「わたしは、わたしは!!」という強調が、実に5回もなされています。

かなり神様の自己主張が強いのです。

わたしは確かに生きているぞ。わたしこそ生けるまことの神だ。わたしがあなたを背負うから、わたしを信じなさい・・・、と。

しつこいほどの熱心で、呼びかけてくださっています。

聖書の神はこういう方です。私たちのために必死になられる方です。

私たちが重荷を負って苦しんでいるなら、決して冷静ではいられない、無関心ではいられないで、わたしはここにいるよと、名乗り出てくださる方なのです。


共に祈りましょう。

神よ、今日も私たちを愛おしく思ってくださるあなたのまなざしを、もったいなく思います。あなたが生きておられることを信じます。この一日、信仰の喜び、慰め、平安をわたしたちに満たしてください。
2015. 07. 02  
最近私は、急速に白髪が増えてきて、年をとったものだと悲しくなりますが、そんなことを言っていますと、教会のご年配の方々にいつも怒られます。

ましてや、若い方々や幼い子どもたちには、年を取っていく悲しさは分からないでしょう。

先日、尊敬する引退牧師を通して、「老いていく心細さ」ということを学びました。。

平坦な道でも、大冒険であって恐怖に満ちている。階段の上りは壁、下りは崖のよう・・。

昨日までできていたことができなくなっていく・・。覚えられない、名前が出てこない。

一番印象的だったのは、「明けない夜はない、やまない雨がない」とはとても思えなくて「明日もまた暗い、明日もまた雨」と思ってしまう・・。

老人じゃなくても、そんな風に思ってしまう方もいらっしゃるかもしれない。

そういう心細さ、だれからも必要とされていないかのような寂しさ。

でも、そういうあなたをどこまでも背負っていくと言ってくださる神がいます。「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで背負って行こう(イザヤ46:4)」

白髪になるまで、いや、白髪になってもだと翻訳する人もいます。そういう翻訳が可能です。

白髪になっても、むしろそこからこそ、私はあなたを背負っていくと、父なる神は言ってくださいます。


共に祈りましょう。

主よ、老いの坂を上り行く者たちに、今日も憐れみを注いでください。雨露をあびて伸びていく若枝のような者たちに、今日も慈しみを満たしてください。私たちを、あなたの翼に乗せてくださって、空高く心をあげることができますように。
2015. 07. 01  
医学の進歩というのはすさまじいもので、今や超音波による映像でおなかの中の赤ちゃんの表情までくっきりと見ることができます。

すごい時代だなと思います。現代に生きる私たちは、そのようにして母親のおなかの中をわずかに垣間見ることがゆるされていますが、古代の人々にとってはそれは完全な神秘でした。

おなかの中で何が起こっているのか、今でも分からないことだらけでしょう。

でも確かに見えざる力が働いて、確実に一人の人間を作り出して、愛の中に誕生させられるのです。

そういう出産の驚きに、神の奇跡を覚える感性を持つことができれば、幸いだと思います。

詩篇139篇16節にこういう御言葉があります。

「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている、まだその一日も造られないうちから。」

お母さんのおなかの中にいる時から、神様は私を見守っていてくださった、これは聖書に繰り返し見られる教えです。

人間の手の届かないところで、人間は生み出されます。でもそこに、神の手は届いています。

生まれる前から、神は私たちを背負っていてくださいます。

人は一人で生まれ死んでいくと言われます。確かにそうでしょう。しかし、孤独ではないのです。

神がどこまでも、あなたを見守り続けておられます。


共に祈りましょう。

永遠の神よ、すべてに始まりと終わりを与えられる、大いなるあなたの御名をあがめます。私の命の始まる前から、終わる時まで、いやその先までずっと見守り続けてくださる、あなたの大きな手に支えられて、今日も喜び歩むことができますように。
プロフィール

茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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