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2015. 07. 31  
ローマ14章には、考え方の異なる者同士で裁きあわないで、むしろ相手の嫌がることはしないように配慮しようというすすめがあります。

具体的には、ある人は古い慣習から抜けきれず食べ物のタブーを気にするけど、ある人はそういうことからまったく自由で何でも食べてしまうという、問題を扱っています。

イエス様の十字架以降は、食べ物のタブーは存在しませんから、気にする必要はありません。

14:14でこう言われています「それ自体で汚れたものは何も無いと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。」

でも、その上で、まだそういう確信に至れない人がいるのならば、配慮してあげなさいとすすめるのです。

「それは古い考えだ、間違っている」と断じたり、あえて挑発的に目の前で食べてみたりするならば、それは「愛」の姿勢ではないと言うのです。

14:15にこうあります。

「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。」

こういうところに、「愛」の問題が、具体的にあらわれるのです。

最大のポイントは、「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」ということです。

これについては、明日さらに深まっていきましょう。


共に祈りましょう。

主よ、自分のことしか考えていない私のために、キリストが死んでくださったことを感謝します。私への裁きを、キリストが引き受けてくださったことを感謝します。あなたの愛で、この私をも、愛の人に作り変えてくださいますように。
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2015. 07. 30  
「隣人を自分のように愛しなさい」という教えこそが、最高の律法だと学びました。

しかし、その際に大前提となっているのは、「神を愛しなさい」という教えです。

どの掟が最も重要かという問いかけに対して、イエス様はこう答えられました。

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。

第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』(マタイ22:37-38)」


第一、第二とありますが、第一を優先すべきというよりは、両者には生命的な連続性があると考えるべきでしょう。

神への愛が無くても、隣人への愛があればそれでいいのだとする教えは、聖書にはありません。

同時にまた、神と自分だけの関係に没頭して、隣人のことが視野に入ってこないような信仰も、聖書の教えるところではありません。

神を愛するならば、必ず隣人をも愛し始めるのです。

「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者はみな、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。(Ⅰヨハネ4:7-8)」


共に祈りましょう。

主よ、今日もあなたを愛することができますように。あなたに愛していただいている、自分のことを大切にすることができますように。あなたが与えてくださる隣人との出会いを、大切にすることができますように。
2015. 07. 29  
今週は、「隣人を自分のように愛しなさい」という教えに深まっていきましょう。

ヤコブの手紙2章8節によれば、それは「最も尊い律法」です。

それほどに大切と言われるのは、それが私たちにとって果てしなく難しいからです。

なぜなら私たちは、自分を愛することはできても、同じようには隣人を愛することはできないからです。

自分にとってメリットのないことができない、そういう悲しさを私たちは抱えます。

愛の人になりたいなんて偉そうに言っているが、だれかに優しくするのは、その人を仲間にしたいからではないか?

自分がほめられたいからではないか?どっちにしろ、結局、自己満足のためではないか?

・・・そういう風に非難されるなら、誰も否定できないのではないでしょうか。

否定できると思うなら、それは傲慢かもしれません。

そういう人間の現実から考えて、隣人愛など存在しないのだ。すべては偽善だと、開き直るのも一つのありかたです。

しかし私たちは、開き直るというのではなく、そういう自分の偽善性をしっかり自覚した上で、その偽善的な愛をも用いてくださいと、神に祈る者でありたいと思うのです。


共に祈りましょう。

主よ、真実の愛よ、あなたのようには愛せない自分を恥じます。しかし主よ、どうかこの自己中心で、偽善的な心をきよめてくださって、隣人を自分のように愛するということが本当にできるようにしてください。主イエスが私を愛してくださったように。

2015. 07. 28  
先の日曜日には、ローマ13:8-10の御言葉を分かち合いました。

特に9節です。「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。」

私たち人間は、神のかたちとして創造された、尊厳ある存在です。

今は、堕落により、罪に汚染されてゆがんでしまっているとはいえ、その尊厳はなおも保たれています。

そのような神のかたちがこれ以上壊れてしまわないように、また、人間としてよりふさわしく生きていくことができるようにと、神様は「掟(律法・規範・ルール)」をさまざまな形で与えてくださっています。

そして、そういう掟はつまるところ、一言で言うと「隣人を自分のように愛しなさい」ということに尽きると、言われているのです。

神が愛であるように、人間もまた、愛することのできる者として、また愛することを願う者として創造されました。

そういう私たちの本来の姿が回復される時、隣人愛に生きることは、義務でも重荷でもなく純粋な喜びです。

イエス様が与えてくださる罪からの救いは、そういう喜びの回復でもあるのです。


共に祈りましょう。

主よ、今週私たちが、隣人を自分のように愛するという教えに深まっていくことができますように。他者を排除したり、他者に無関心であったりすることが、主流になってしまっている私たちの時代に、私たちがいかに生きていけばいいのか、あなたの導きを与えてください。
2015. 07. 21  
今週は日曜学校のお泊り会もあり、明日からの配信はお休みさせていただきます。

日曜日のウェルカムチャーチデーには、「私の魂のよりどころ」はどこにあるのか、立ち止まって考える時が与えられました。

エレミヤ17:7-8に、こういう御言葉があります。

「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木・・・実を結ぶことをやめない。」

聖書においてご自身をあらわしてくださる、主なる神を信頼しなさいと招かれています。

この神は、「わたしこそが神、救うことのできるのはわたしだ、他にはいない(イザヤ45:21など)」と言われます。

天地万物を創造し、秩序を与え、導かれる大いなる神です。

イスラエル民族をエジプトから救い、バビロンから救われる救い主である、歴史を導かれる主権者です。

人間に信頼してはいけない、主なる神に信頼しなさいとエレミヤは伝えます。

人間は本当に草にすぎないものです。どんな権力者も無力です。自分もそうです。無力です。弱い人間がいつもいます。その弱さを、人間が助けることはできません。

その事実に気付くと、落ち込みます。空しくなります。でも、そうして人間を悟るところで、神への信仰が立ち上がるなら幸いです。

主が私のよりどころとなってくださる。なってくださっている。この霊の事実を悟ることができるならば幸いです。

個人的なことですが、私は今朝、そのような幸いへと導かれました。


共に祈りましょう。

大いなる主よ、あなたを知り、あなたに信頼することを教えられた私たちは幸いです。主よ、一人一人に用意されたあなたの平和のご計画を信じます。年老いた方々を、若い方々を、大いなる御手で今日も守り支えてください。
2015. 07. 18  
イザヤ書45:22-25を、私訳でお届けします。

「わたしのほうを向きなさい、そしてあなたは救われる。地の果てのすべての者たちよ。

まことに、わたしが神である。ほかにはいない。

わたしは、自分自身にかけて誓った。わたしの口からは義の言葉が出で立ち、これは、戻ってくることはない。

まことに、わたしに向かってすべてのひざははかがみ、すべての舌は誓う。

そして、わたしについて言うのだ。「ただ主にのみ、義と力がある。主に向かっていきり立つ者は、こぞって主に服して恥じ入る。

イスラエルの子孫はみな、主によって義と宣言されて、誇る。」


ご自分が選んだイスラエルを、破滅から救い出すと決断された神の誓いは、決してくつがえされることなく実行されます。

イスラエルは、このバビロン捕囚からの救いを体験し、「ああ、本当に主は力ある神なのだ」と信じ、心を改めました。

このイスラエルの救いは、全世界に対する救いの証し、モデルケースとなりました。

そして今や神は、「地の果てのすべての者たちよ」と、私たち極東の日本人にも呼びかけてくださっています。

イスラエルの救いの神であるわたしが、あなたの救いの神でもあるのだと。


共に祈りましょう。

主よ、唯一の神、救いの神よ。あなたのことを知らなかった私たちが、今やこうして、あなたに祈ることができる幸いを感謝します。今週の導きを感謝します。様々に不安がありますが、すべてを導かれるあなたのご支配にゆだねます。明日はウェルカムチャーチデー、たくさんの方があなたのもとに招かれますように。
2015. 07. 17  
イザヤ書45章20-21節を、私訳でお届けします。

「集まって来なさい、共に近づいて来なさい。諸国から逃れてきた者たちよ。

何も知らないのだ。偶像の木を担ぐ者たちは・・。救うことのできない神に祈る者たちは・・。

言ってみなさい、証拠を出しなさい。さらには共に謀ってみなさい。

誰が、このことを昔から知らせ、以前から告げていたのかを。

それは、主であるわたしではないのか!!

わたしの他に神はいない。義なる神、救い主は、わたしをおいて、他にはいないのだ。」


ここには、まことにはっきりとした神様からの名乗りがあります。

わたしをおいて他に神はない。人間を、あなたを救うことのできる神は、他にはいない。

その証拠として、「このこと」を昔から知らせていたであろうと言われます。

「このこと」とは、キュロスという名のペルシア王を起こして、バビロニア帝国を滅ぼし、捕囚の民をエルサレムへ帰還させるということです。

そのようにして成就したからこそ、イザヤの預言は神の言葉と信じられ、聖書に書きとめられたのです。

今、私たちに届けられているのは、そういう言葉です。あとは、あなたが信じるか、信じないかです。


共に祈りましょう。

ただお一人の神、主よ、今日もあなたの御心がなりますように。今日も私たちに、救いの手を差し伸べてくださり、体も魂も健やかにあることができるように、導いてください。
2015. 07. 16  
昨日、安全保障関連法案が衆議院の特別委員会において、強行採決されました。

このような政治的問題について、私個人の見解を押し付けるつもりは毛頭ありません。

ただ、一連の動きの背景にある「闇、世、悪、罪」の側面を霊的に洞察し、皆さんに正しく聖書に沿ってお伝えすることは、預言者でもある牧師としての私の責任です。

様々にお伝えしておきたいことはありますが、最大の問題は、国家権力の暴走です。「国家」が自らに委ねられた権能の枠を超えて、神のように振舞い始めていることです。

絶対に正しいのは神だけです。「国家」もまた、この神の前に謙遜に自らを戒め、学び、悔い改めつつ歩むべきです。

しかし今や、「国家」は絶対者であるかのように傲慢に振る舞い、国民を隷属させようとしています。

ごく一部の勢力が、その政治的信念を絶対視し、あなたがた国民は何も分からないのだから我らの言うとおりにしておけばいいと考えていることが、次第に明らかになってきています。

そして、そのように暴走を始めた国家権力は、やすやすと悪魔化していくことは歴史の必然です。この国もかつて、そのようにして愚かな道を突き進みました。

私たちは、「国家」よりも偉大な「主なる神」を信じる者として、またその愛と平和と正義と自由を聖書から学ぶ者として、覚めた目をもって、「国家」の悪魔化に対峙する必要があるのです。

「主にひれ伏せ」と為政者たちに告げる、詩篇2篇10~12節の言葉を、フランシスコ会訳でお届けします。

「王たちよ、今こそ悟れ。地を治める者よ、諭しを受け、畏れをもって主に仕えよ。死すべき者らよ、おののきつつ生きよ。

さもなければ、主は怒り、あなたがたは道半ばで滅ぼされる。主の怒りはたちまち燃え立つ。幸いである、すべて主のもとに逃れる者は。」


共に祈りましょう。

大いなる主よ、全世界、全歴史を導かれる主よ。今、私たちの国を憐れみ、どうか愚かな道を繰り返すことのないようにしてください。日本と隣国の、また世界を指導する国々の為政者たちに、あなたへの畏れと、ふさわしい知恵と健全な判断を、またより豊かな想像力をお与えください。かつてのように、私たちの信仰の良心が圧迫されるような時代が到来しないようにしてください。


(余談ですが、現在の為政者たちの背後に、「日本会議」という戦前回帰を公然と掲げる集団があることも記憶すべきです。これは海外メディアにはすでによく知られていることです。)




2015. 07. 15  
イザヤ45:19「わたしは隠れた所で、地の闇の所で語ったことはない。

ヤコブの子孫に向かって、混沌の中にわたしを求めよ、と言ったことはない。

わたしは主、正義を語り、公平を告知する者。」


「混沌の中にわたしを求めよ」という言葉が気になりますね。

不安と混乱の中で揺れ惑う人が、「神はどこにおられるのか・・・」と苦悩し、ますます混沌を深めていくようなイメージが浮かびました。

「わたしを探しても無駄だ」という翻訳もあります。

時代の混迷が深まる中で、今、多くの人は、「神を探しても無駄だ」と思っておられることでしょう。

しかし、「わたしはそのようには、決して言ったことはない」と、神は強調されます。

この方は「正義と公平」を語る、これは、ウソやでたらめを言わないということと理解するのがよいようです。



共に祈りましょう。

大いなる主よ、聖書にはっきりと記されたあなたの言葉を信じます。

今、時代はあなたへの畏れを失っています。貧しい被造物に過ぎないおのれを神とし、自身の正義を疑いもせず、他者を排除する者たちがのさばります。

おのれの富ばかりを追い求め、今この時の享楽に固執して、未来に禍根を残す者たちがのさばります。そのような者たち同士が争いあい、互いに隣人であることを放棄します。

人々の愛が冷えています。言葉が壊れていきます。むなしさが募ります。そして、心痛める人は、神などいないと絶望していきます。

しかし主よ、私はあなたの言葉を信じます。大いなる創造主、救い主よ。我らを導き、時代の闇をぬぐってください。
2015. 07. 14  
次の日曜日に語られる予定のイザヤ45:18-25について、予習をする一週間にしましょう。

18節「神である方、天を創造し、地を形づくり、造り上げて、固く据えられた方

混沌として創造されたのではなく、人の住む所として形づくられた方、主は、こう言われる。わたしが主、ほかにはいない。」

原語では、「なぜなら、主はこのように言っておられるのだ」という言葉から始まります。

文脈としては「まもなく、キュロスというペルシアの王を用いて、バビロン捕囚の屈辱から、イスラエルの民を解放する」と、神様が力強く宣言しておられます。

そして、「それは本当に起こるのだ、信じなさい。なぜなら!!」と言って、理由を語ってくださいます。

「創造し、形づくり、造り上げ、固く据え」と、同義語を何度も繰り返して、天地創造の大いなる御力を神様がアピールしておられます。

しかも、「混沌」ではなく、ちゃんと「人の住む所として」創造したのだと特別に言っておられます。

それは、あなたの身の周りのすべては、無秩序な力に脅かされているのではなく、わたしの計画と支配と愛の中にあるのだという表明です。

わたしこそが、そのようにして生きて支配する神なのだ。他にはいないと、主は言われます。

今日の私たちの歩みも、この創造主の大いなる手の中で導かれています。


共に祈りましょう。

主よ、大いなる創造主よ、あなたの導きの手に、今日も私の人生をおゆだねします。今日何が起ころうとも、あなたをよりどころとして、強く雄々しくあることができますように。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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