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2015. 09. 30  
自分の持ち物には、ちゃんと自分の名前を書いて大切にしておられる方も多いでしょう。

神様も、「神のもの」である私たち一人一人に、御自分の名前を刻み込むようにして、大切に扱ってくださっています。

創世記に記された、カインのことを思い出すのです。

彼は、エデンから追放された後の、どんどん悪くなっていく人間の始まりです。

ねたみからひねくれて、弟アベルを殺してしまった・・・。その罪を問われて、呪われる者となって追放されます。

しかし、神はそのカインのために特別な守りの「しるし」をつけられたのです。

「カインは主に言った。『わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。』

主はカインに言われた。『いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。』

主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。(創世記4:13-15)」


この「しるし」とは何だったのか謎ですが、まるで御自分の名前を刻んでおられるかのようです。

「これは私の愛するものだ、手出しをするな」と示しておられるのです。

カインは、ねじけてしまったすね者です。でも神は、そのカインをまだ愛し、守られるのです。

「できそこないだが、私の大切な宝物だ、だれにも手出しはさせない」と。これが、すべての罪人に向けられた神の愛だと私は思います。

この愛に気づいた者が、この愛に感謝し、この愛に応答していく。「神のものを神に返す」とは、そういうことでもあるのです。


共に祈りましょう。

愛する主よ、あなたのご栄光を汚す私たちを、なお御自分の宝と見なしてくださる、あなたのお取り扱いに驚くばかりです。私たちの鈍感な心を開いてくださって、注がれ続けるあなたの愛に気づかせてください。そして、この冷めた心を燃やしてください。
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2015. 09. 29  
今週は、「神のものを神に返しなさい(マタイ22:21)」に深まっていきましょう。

古来伝統的に、ここで言われる「神のもの」とは、人間である私たち自身と言われてきました。

デナリウス銀貨にローマ皇帝の肖像(イコン)が刻まれたように、私たち人間は神のかたち(イコン)にしたがって創造されました。

「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。(創世記1:27)」

これが「神の似像」としての人間創造の神秘であり、特別なご計画のもとに被造物の冠として創造された人間の「尊厳」を教えてくれる、聖書の真理です。

そういう私たち自身を、燃やしてささげて、神の御用のために用いていただく・・。

それが、「神のものを神に返す」ということの基本的理解といえましょう。

日曜日には、こひつじカフェが催され、子どもたちをはじめ教会みんなで、仕え合うことができました。そして、カンボジアのホザナスクールへ5万円の献金をささげることができました。

「神のものを神に返す」ことを、ほんの少しだけ学ばせていただいたことを感謝します。


共に祈りましょう。

主よ。私の体も心も魂も、すべてはあなたのものです。今週一週間、あなたのものをあなたに返すということを、様々な時と場において意識しながら過ごすことができますように。小さな者に過ぎませんが、主よ、用いてください。
2015. 09. 26  
日曜日に学んだたとえには、婚礼の礼服をちゃんと着ないでいたために、パーティー会場から追い出された人のことも教えられました。

ここで言う「礼服」とは、「神様の前でのふさわしさ」です。

そういう「ふさわしさ」が無いなら追い出される・・・そう聞くと、ずいぶん厳しく感じます。「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない(マタイ22:14)」ともあるように、神の御前に出ることには厳しさが伴うことも事実です。

でも、「礼服=ふさわしさ」は、自分で用意するものではなく、王様=神様が用意してくださるものだということも、私たちは学びました。

イザヤ61:10には、私たちに美しい「救いの衣」を着せてくださる主のやさしさが示されています。

「わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び踊る。主は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる。」

そして、ガラテヤ書の表現では、それは「キリストを着させていただく」という風に言われます。

「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。(ガラテヤ3:27)」


神様は、私たちに「キリスト」という素晴らしい礼服を着させ、神の子らしく仕立てようとしておられるのです。

私たちには、そういう礼服を身にまとって、ふさわしく振舞おうと努める「霊的な身だしなみ」が求められます。

明日の礼拝にも、そんな身だしなみを整えて集いたいものですね。


共に祈りましょう。

主よ、身だしなみの整わない私たちをも、十字架の恵みと憐れみによってお救いくださることを感謝します。どうかそのあなたの愛に応えて、あなたの御前にふさわしい者となっていくことができますように、私たちを聖化し、キリストに似せていってください。
2015. 09. 25  
先の日曜日には、マタイ22章の婚宴のたとえから学びました。

イエス様のたとえ話というのは、ありえないような極端な設定で、人間と神様の関係を浮き彫りにするものです。

ある王様が催した、盛大な結婚パーティー!!しかし、その婚宴への招きを拒む人々がいるというのが、たとえ話のポイントのひとつです。

「『食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。(マタイ22:4-6)」

求道の友が、素朴な疑問を伝えてくれました。

「そんなパーティーに招かれたら、ふつうは出席するでしょ?どうしてこんなに拒むのですか?」

そうですね、ふつうは出席するはずです。すばらしい招きなのですから。でも、拒む人がいる。

こういう、ありえないような極端な設定で、イエス様が表現しようとしておられるのは、神の国への招きを拒む、私たち人間の愚かさです。

誰かに福音を伝えようとする時に、この「拒絶」を経験された方は多いでしょう。

あるいは、私たち自身、この招きのすばらしさを十分には理解しないで、自分の「畑や商売」、すなわち毎日の日常生活にいっぱいいっぱいになっているのではないでしょうか。


私たちは言ってはいないでしょうか?「今は忙しいから、神様のことは後にします・・・。」

でもそれは、ありえないことなんだよねと、イエス様は教えようとしてくださっているようです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたが招いてくださる天の国の祝宴のすばらしさを、もっと深く味わい知ることができますように。その希望が、今日の私たちの戦いのための本当の力となりますように。今、悲しむ者も、この希望によって慰めを得ますように。今、この招きを拒む者たちを、なお憐れんでくださって、招きのすばらしさに気付かせてくださいますように。
2015. 09. 24  
今週は月曜日に、吉井勉兄の葬儀がありました。洗礼をお受けになってから、わずか一週間での召天でした。

思っていたよりも少し早すぎる別れに、ご遺族の悲しみを思いますが、主は兄弟のことを病の労苦から解き放ち、最善の終わりを与えてくださったなあとも思います。

葬儀においては、「神のなされることは皆その時にかなって美しい。(コヘレト3:11口語訳)」との御言葉が与えられました。

天の下のすべての出来事には、神が定められた時があります。

生まれる時があり、死ぬ時があります。

泣く時があり、笑う時があり、悲しむ時があり、踊る時があります。

キリストが十字架で死んだ、罪と闇の時、絶望の時があり、

朝の光の中でよみがえられた、命の時、希望の時がありました。

神のなされることは皆その時にかなって美しいと、信じることができるから、今日もなんとか生きていけそうです。


共に祈りましょう。

主よ、目の前の心配が重くのしかかる時に、心が小さくなってしまわないように、あなたの大きな御旨を悟らせてください。あなたが与えてくださるすべての「時」を、楽しみ、賛美する心の余裕を与えてください。

主よ、愛する者を失って悲しむ者のことを、どうか慰めてくださいますように。
2015. 09. 19  
先週も土曜日は無断でお休みしてしまいましたが、今週も十分時間が取れませんので、短く聖句だけ紹介させていただきます。

昨日、夜に東関東の青年たちと学び会をし、聖書に記された様々な祈りの言葉から学びました。

その中で、特に私にとって印象的だったのが、この祈りです。

エフェソ1:17-18.

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。」

牧師は、皆さんの様々な具体的問題を心配し、とりなしの祈りをささげますが、より根源的に祈っていることはこのようなことです。

皆さんの、そして私自身の心の目が開かれ、約束されている希望のすばらしさを深く悟ることができますように。

明日の説教とも、深く関係する祈りです。説教準備のためにもお祈りください。
2015. 09. 18  
「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。(マタイ21:42)」

大工さんから捨てられた石が、最も大事な場所を占める「隅の親石」となっていき、建物を建てるかなめとなるという「不思議」な神のなさりよう。

イエス様は、そんな風にして、神が据えてくださった救いの「親石」です。

ユダヤの指導者たちからは邪魔者扱いされ、憎まれ、排除され、イエス様は町の外で、十字架で処刑されました。

しかし、神がなさることはまことに不思議で、この十字架のイエスが、すべての人の救い主として、救いの「親石」にされていきます。

十字架は、神の最愛を受けるべき神の子が、私の身代わりに、神に呪われた死を死んでくださったということです。

それによって私たちは神の怒りと呪いをまぬがれ、神の国の祝福を受ける「神の民」とされたのです。

この救いの「親石」の上に堅く立って、十字架を見上げ、主の愛に信頼して今日も歩みましょう。

「それゆえ主なる神はこう言われる。『わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない。(イザヤ28:16)」

信ずる者は慌てることがない。

今、皆さんが抱えている様々な思い煩いがあることも知っています。私にもたくさんの憂いがあります。しかし、私がしがみつくべき「親石」を、主は堅く据えてくださっています。

信ずる者は慌てることがない。

不思議な御業をなさる神の力が今日も働いています。十字架に示された神の義と愛が、今日も世界を貫いています。


共に祈りましょう。

主よ、あなたに信頼します。愛する者の癒しのために祈る者、死の力に直面している者、時代の混迷を悲しむ者、未来が見えずに悩む者・・・すべての迷える羊が、あなたへの信頼によって堅く立つことができますように。
2015. 09. 17  
日曜日に読んだ「ぶどう園と農夫」のたとえの中で、ぶどう園の主人が遣わした僕たちを、小作人の農夫たちが次々に殺していくという、おぞましい場面が描かれていました。

ぶどう園の主人は、神様のことです。僕たちは、神様から遣わされた預言者たちのことです。

その預言者たちを拒み、迫害し、殺しもした・・・それが、旧約の神の民イスラエルが積み重ねてきた過ちの歴史でした。

「・・・彼らを主に立ち帰らせるため、預言者が次々と遣わされた。しかし、彼らは戒められても耳を貸さなかった。神の霊が祭司ヨヤダの子ゼカルヤを捕らえた。彼は民に向かって立ち、語った。

『神はこう言われる。なぜあなたたちは主の戒めを破るのか。あなたたちは栄えない。あなたたちが主を捨てたから、主もあなたたちを捨てる。』

ところが彼らは共謀し、王の命令により、主の神殿の庭でゼカルヤを石で打ち殺した。・・・ゼカルヤは死に際して言った。『主がこれをご覧になり、責任を追及してくださいますように。(歴代誌下24:19-22)」

このようにして、預言者たちを殺してきた神の民の罪は、神の独り子イエス様さえも殺してしまうところまで極まってしまいました。

しかし、そのようにして人々から捨てられた石であるイエス様が、大切なかなめ石とされていく・・その神の不思議な救いのご計画についてはまた明日分かち合いましょう。

今日は、私たちの霊的な先祖であるイスラエルの人々の過ちに思いをいたし、自らを省みたいと思います。


共に祈りましょう。

主よ。先祖の過ちを繰り返すことがないように、私たちのかたくなさを砕いてください。私たちの内にも、預言者の戒めに耳を貸そうとしない間違った心があります。どうかイエスの十字架の血のゆえに、そのような私を赦してください。そして私の内に新しい心を創造し、あなたとの真実な交わりへと至らせてください。
2015. 09. 16  
先の日曜日、Y姉のご主人が病床にて洗礼を受けることがゆるされました。大変うれしいことです。

自分で自分を救うことができない、人間の無力を知らされる中で、人知を超えた神の御手にすべてをゆだねられました。

神の民ではなかった者が、こうしてまた一人、神の民とされました。

「あなたがたは、『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている。』(Ⅰペトロ2:10)」

あるいは、ローマ9:25,26にはこのようにあります。

「ホセアの書にも、次のように述べられています。『わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。「あなたたちは、わたしの民ではない」と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。』」

私たちはみなこのようにして、神の民ではなかったのに、不思議な恵みの導きによって、神に愛される神の民とされます。

神を知らずにいたのに。拒んできたのに。あるいは、逃げてきたのに・・・。

永遠からのご計画に基づいて、神はふさわしい時に、ふさわしい仕方で、ひとりひとりの魂をとらえられます。

神の怒りと呪いを受けるべき罪人が、永遠の憐れみを受ける者とされる・・・まだ信仰告白しておられない方々にも、この逆転の喜びと平安に、あずかってほしいと願います。

イエス・キリストは、そういう逆転をもたらすために、十字架で死んでよみがえってくださいました。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの民とされる喜びに、一人でも多くの方があずかることができますように。あなたの民とされた者たちが、その喜びを深く知り、今日も感謝と賛美と悔い改めの実を結ぶことができますように。
2015. 09. 15  
「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。(マタイ21:43)」

日曜日には、このイエス様の御言葉を中心に学びました。

主なる神に選ばれた特別な民として、イスラエル民族(ユダヤ人、ヘブライ人)は、旧約の歴史を刻んできました。

しかし彼らは、大変残念ながら、神の御心である正義や、慈しみや、へりくだりから遠ざかってしまいました。

神様は何度も預言者を遣わして、彼らに「立ち帰れ」と呼びかけ続けられましたが、預言者たちは拒まれ、殺されました。

イエス様の時代のユダヤ人たちは、戒律をいっぱい作って信心深くあろうと努めたのですが、残念ながら、どこかで決定的にずれ始めてしまったのです。

そして、先祖たちと同じように、イエス様のことを拒み、殺してしまいました。

そういう「あなたがた」から、神の国は取り上げられ、「それにふさわしい実を結ぶ民族」に与えられると言われます。

これは、例えばアーリア民族とか、大和民族とか、特定の民族のことを言っているのではなくて、「神の民としてふさわしい実を結ぶ新しい神の民」のことです。

今やイエス・キリストを信じ、従う者は、この「新しい神の民」の一員として数えられます。

それは大変すばらしいことであると同時に、緊張感を覚えさせられることです。

神の国に生きる神の民として、ふさわしい実を結ぶ・・・、私たちは本当に、そのように言っていただける者でしょうか。

このことを真剣に考えながら過ごす、一週間としたいのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちがあなたの御心から離れてしまわないように、私の心が御心とひとつになっていくように、聖霊の導きをお与えください。自力では実を結ぶことができません。主よ、どうか助け励ましてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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