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2015. 12. 16  
今週は、「選び」の恵みを分かち合います。

私たちは誰一人として、神様に愛していただく資格をもっていません。

でも、神様のほうで、まったく自由に私を選んでくださって、「この子を私の子として愛し守り抜く」と決めてくださって、家に迎えてくださいました。だから、私はクリスチャンとなることができました。

すべてのクリスチャンは、そのように信じることができます。

覚えていただきたいのは、「子どもと親のカテキズム」の問25です。

問:神さまは、このような罪人となった私たちを、ほろびるままにお見捨てになりましたか?

答:いいえ。神さまは、私たちをあわれんで、救い主によってご自分の子どもに回復しようと、御心のままにあらかじめおさだめになりました。この救い主によって、神さまは私たちを罪とほろびから救い出してくださいます。


「御心のままにあらかじめお定めになりました」、これが「選んでくださった」ということです。

それは、エフェソ1:3-7に示されていることです。

「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。

イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。

わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」


共に祈りましょう。

主よ、あなたの憐れみによって、今日も生かされていることを感謝します。愚かな歩みを繰り返すものですが、ずっと見捨てないでいてください。
2015. 12. 15  
日曜日にはマタイ24:15-28の難解な御言葉を分かち合いました。

これは直接的には、イエス様が昇天されて後、数十年先の紀元70年に起こるユダヤ戦争の大破滅を予告したものです。

「神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。(マタイ24:22)」とあります。

「選ばれた人たちのために」というところに注目しましょう。

ノアの洪水の時に、ノアの家族が選ばれて生き残ったように、ユダヤ戦争の大破滅においても、わずかなクリスチャンが「選ばれた人たち」として生き残りました。

彼らが特別に優れていたから、「選ばれた」のではありません。

ただまったくの神の自由な恵みと憐れみによって選んでいただいて、破滅を免れ、生き残らせていただいたのです。

私たちもみな同じです。

キリストを信じる信仰をいただいて、永遠の破滅を免れるのは、私たちが何か特別に優れているからではない。

神のほうで、まったくの自由な恵みと憐れみによって、選んでくださっているからなのです。

今週は、この「選び」の恵みを分かち合います。


共に祈りましょう。

主よ、神を見失ったこの世界の中で、本当に不思議な導きによって、あなたを知ることをゆるされた私は、いったい何者なのでしょう・・・。あなたが、私を選んでくださって、私と出会ってくださったことを、心から感謝します。
2015. 12. 12  
今日は新浦安教会で、東関東の学生たちのクリスマス会です。

友人にイエス・キリストのすばらしさを伝えたいと、それぞれ何人も誘って集うようです。彼らの伝道の努力を祈りでお支えください。

依頼されたのは、どうして私たちは教会に集うのかを、分かりやすく伝えてほしいということでした。

どうして教会に集うのか・・?色んな答え方があるでしょう。でも今の私は、つきつめていうと「よく生きるため」、そして「よく死ぬ備えをするため」だと考えています。

人間は、自分が死ぬということを知ってしまった、唯一の動物です。

それゆえ、人はずっと、「死」ということを考えてきました。「なぜ死ぬのか」と、問い続けてきました。

そしてそれは、「なぜ生きるのか」ということと表裏一体です。

その答えは、簡単に手に入れることはできないし、手に入れてはいけないことだと思います。

だから、教会に通い続け、「神の言葉」を学び続けて、大切に考えていくのです。牧師や、兄弟姉妹に助けをいただきながら。

クリスマスというのは、そういうことを考え始めるきっかけとして、神様が与えてくださった大切な記念です。

私たちの心に、イエス・キリストが生まれてきてくださる時です。

「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。したがって、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。(ローマ14:7-8)」


共に祈りましょう。

愛する主よ、クリスマスを祝うこの時、たくさんの人があなたの希望の光のもとに集います。どうぞ主よ、わたしたちがよく生き、よく死んでいくことができますように、御子イエスの命をこの身に宿らせてください。
2015. 12. 11  
黙示録7:14-17は、終わりの時に約束されている究極の慰めです。

ローマ帝国による迫害の時代、殉教者たちに平安を与えたのはこの約束でした。

「・・彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。

玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。(=大いなる神が、彼らとともに住む!!)

彼らはもはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。

玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」


キリストに従いゆく愛と正義と真実の道は、世の流れに逆らう苦しみ多い道かもしれませんが、この大いなる慰めへと至るための「産みの苦しみ」の日々です。

この終わりの約束を、本気で見据えて生きることができるかどうかで、その人の地上の人生の質も、大きく異なることでしょう。


共に祈りましょう。

主よ、私たちの霊の目はにぶく、地上の事柄に心は居付いてしまいます。あなたの約束してくださっている終わりの時の喜び、慰めを、もっと豊かに教えてくださって、今の私を作り変えてください。
2015. 12. 10  
十字架の苦しみを前にして、イエス様は弟子たちにこのようにお話しになりました。

「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆にくれるが、世は喜ぶ。(しかし)あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。

女は子どもを産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子どもが生まれると、一人の人間が世に生れ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。

ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。(ヨハネ16:20-22)」

十字架でイエス様は苦しみます。イエス様の死に直面して弟子たちもひどく悲しみます。

しかし、その苦しみと悲しみの向こうに、新しい命が誕生するのです。復活の喜びがあふれるのです。

そのことを、「産みの苦しみ」のたとえで言っておられます。

私たちはいつもこのことを覚えていなければなりません。

私たちに与えられる救いは、喜びは、慰めは、いつでも十字架の苦しみと悲しみをくぐった向こうに与えられるのです。



共に祈りましょう。

主よ、苦しみと悲しみの弱い私たちを憐れんでくださって、心いじけてあなたの御心から逸れていかないように、いつも導いてください。そして、その苦しみの向こうに現れる新しい命の希望に、たどりつくことができますように。
2015. 12. 09  
今週は、マタイ24章8節を手がかりに「産みの苦しみ」ということの希望を、神様からいただきました。

終わりの時の神の国の完成に至るまでには、私たちは、戦争や災害、あるいは迫害、教会の分裂という様々な苦しみを味わうことがある。

しかし、それらはすべて、命を生み出すための「産みの苦しみの始まり」であって、絶望に向かうものではない。

このイエス様の言葉に、私たちは希望をいただくのです。

折しも昨日、45年前の勝田台教会設立前夜に初代牧師安田吉三郎先生が書かれた「改革派教会とは」を読んでいました。

その最後に、こういう言葉で会員への呼びかけがなされていました。

「私たちの教会は、今日から新しい歩みを始めます。この地にしっかり根をおろしたキリストの教会を建設するために、全員が力を合わせなければなりません。

一つの目的が定められ、その方向に進もうとするとき、会員の中には、そのことについてまだ十分に理解がゆきとどかないための不安を感じられる方もあると思います。

しかし、これは、教会を建てるための労苦ですから、皆がともに重荷をになうべきであると思います。困難を乗り越えるときに、本当のよろこびがあります。

苦難を経て栄光に至る道は、主イエス・キリストの道でした。私たちも、ささやかながら、自分たちの教会を立てる努力を通して、主が味わわれた感情に共感できたらと願います。」


今改めて私たちも、信仰の継承のための「産みの苦しみ」をくぐりぬけていくことで、主が味わわれた感情に共感できたらと願います。


共に祈りましょう。

教会のかしらなる主イエスよ、私たちひとりひとりを、十字架の赦しのもとで真に悔い改めさせてくださって、幼子から年老いた者たちまで力を合わせて、あなたに喜ばれる教会を建て上げていくことができますように。客員や求道者の方々とも、同じ夢を抱けたらと願います。
2015. 12. 08  
ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。

上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。

彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」

この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。

わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」

するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。

彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」

そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」


夜明けの光がわずかに差し込む闇の中で、ずっと祈っていました。このイザヤ6章の御言葉が示されて、立ちあがろうと思いました。

私は、まことに汚れた唇の者です。それでもなお、主と教会に赦されるのなら、皆さんに、神の言葉を取り次ぎたいのです。命を届けたいのです。喜びを届けたいのです。どうか主よ、どうか・・。

皆さんに、御言葉を通しての主との真実な語らいが与えられますように。

また、日曜日の試問の結果、来年1月3日に洗礼式を行うことに決まりました。よき備えのためにお祈りください。
2015. 12. 05  
明日は小会において、ある方の洗礼の試問会が行われます。お祈りに覚えてください。
*********

明日の説教の準備をしながら、「待つ」ということを考えていました。

マタイ24章に記された「世の終わりの時」についての深遠な教えに、これから私たちは取り組もうとしています。

その意味では、「待つ」というのは、終わりの時の慰めの成就を待つということでしょう。

この世界が終る時に、イエス様が再び来てくださって、地上のあらゆる涙をぬぐいさってくださる。

すべての罪を、悪を、争いを取り除いてくださって、神の愛と平安に満ちた神の国を完成してくださる。その約束を信じて、希望をもって待つのです。

信仰において「待つ」ことは本質的なことです。

教会の営みにおいても、個々人の生活においても・・・ともすると、人間の思いが先走り、私たちはあれこれ焦ってしまいます。

そして思うようにならずにガッカリしたり、傷つけあったり・・・。

力を捨てて、神の御業が現れるのをじっと「待つ」ということの大切さを、見失わないでいたいと、しばしば思います。


詩編39:6-10の祈りに合わせて、共に祈りましょう。

「御覧ください、与えられたこの生涯は、僅か、手の幅ほどのもの。
 御前には、この人生も無に等しいのです。
 ああ、人は確かに立っているようでも、すべて空しいもの。
ああ、人はただ影のように移ろうもの。
 ああ、人は空しくあくせくし、だれの手に渡るとも知らずに積み上げる。
 主よ、それなら、何に望みをかけたらよいのでしょう。
 わたしはあなたを待ち望みます。
 あなたに背いたすべての罪からわたしを救い、神を知らぬ者というそしりを受けないようにしてください。
 わたしは黙し、口を開きません。
 あなたが計らってくださるでしょう。」
2015. 12. 04  
日本キリスト改革派教会・創立70周年記念宣言の分かち合いをしてきましたが、いよいよ今日が最後、23回目です。

第二部:善き生活(命の道)

(十字架から栄光へ/心を高く上げよう)

神と隣人への愛のために、古い自分が砕かれていくことが、十字架の道である。

わたしたちは、死に至るまで忠実であられたキリストの謙遜と従順にならうことにより、主の御霊によって、キリストに似た者とされていく。

十字架の道は、主イエスが歩まれた道であり、必ずや復活と栄光の御国へと至る道である。

それゆえ、地上を旅する神の民は、苦難の中でも心を高く上げて天の故郷を熱望し、新しい天地をもたらす主イエスの現れを、待ち望みつつ祈り願う。

マラナ・タ(主よ、来てください)!

ここに、わたしたちの生きる力と喜びは湧き上がる。

栄光がただ神にあるように!

*******
フィリピ3:17-4:1の御言葉を分かち合って、共に祈りましょう。

「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。・・・彼らは・・・この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。

だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。」

主よ、全世界であなたの御名があがめられますように。

私たち一人一人の内に、あなたの愛と恵みと慰めの支配が、正義と平和の支配がいきわたり、あなたの栄光の御国が完成しますように。

主イエスが再び来てくださって、すべての涙をぬぐってくださいますように。
2015. 12. 03  
日本キリスト改革派教会・創立70周年記念宣言の分かち合いをしています。22回目です。

第二部:善き生活(命の道)

(悔い改めの生涯)

キリスト者の生涯は、信仰と悔い改めの生涯である。

キリストがわたしたちの内に形づくられるまで、わたしたちは何度でも主の十字架のもとに立ち返り、自らの罪を告白して悔い改める。

キリストに結ばれている者は決して罪には定められない。

わたしたちは、赦しの共同体である教会の中で癒されつつ、主の愛に支えられて再び立ち上がり、神の子らとして世に出て行き、福音の喜びを生きていこう。

各々に与えられた召しと賜物にしたがって主に仕え、完成をめざして共に命の道を歩み続けよう。

******
今日はこの聖句です。「詩編34:19  主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。」

共に祈りましょう。

主よ、昨日私が犯してしまった過ちを赦してください。今日の私の歩みが、キリストの香りを放つものとなりますように。どうぞ、私のうちに、キリストを形づくっていってください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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