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2015. 12. 31  
今年も最後の一日ですね。健康が守られ、この日々の御言葉の奉仕もほぼ休みなく継続することができました。

大切に読んでくださる方がいますから、忙しい時も、体がきつい時も、がんばって取り組むことができました。

聖書の言葉を、日々の霊の糧としてみんなで大切にいただく、そういう魂の交流をかけがえのないものだと思います。

昨日の祈祷会では、詩編103篇に促されて、みなで祈りを合わせました。

その14-17節には、こんな御言葉があります。

「主はわたしたちを、どのように造るべきか知っておられた。
わたしたちが塵にすぎないことを、御心に留めておられる。
人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。
風がその上に吹けば、消え失せ、生えていたところを知る者もなくなる。

(しかし)主の慈しみは世々とこしえに、主を畏れる人の上にあり・・・。」

私たちの人生は、はかなく草のようで、この2015年に積み重ねた一日一日の記憶も、吹けば飛ぶような空しいものかもしれません。

しかし、主の永遠の慈しみが、その小さな私の一日一日に注がれているのです。

その主の慈しみのまなざしの中で、私が懸命に生きたこの2015年の一日一日も、神の御前に意味あるものとして、永遠に記憶されています。

だから、詩編103:1-2にならって、共に主をほめたたえて祈りましょう。

「わたしの魂よ、主をたたえよ。
わたしの内にあるものはこぞって、聖なる御名をたたえよ。
わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何一つ忘れてはならない。

主がこの2015年に示してくださった、すべての御計らいを思い起こし、主よ、私は今、あなたを力の限りほめたたえます。」
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2015. 12. 30  
私にとって2015年は、田中剛二牧師の説教の研究を始めた年として記憶されます。

録音音声を聴き、説教集を読み・・ということを繰り返してきました。

田中先生の真骨頂は、「終末の希望」を語る時の調子の高さです。

Ⅰテサロニケの4:13-5:11に、ぜひ読んで確認していただきたい、終わりの日の主の再臨の時についての教えがあります。

その最初に、こういう希望の言葉が教えられています。

「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。(4:13-14)


「希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しむことがないように・・・」

田中先生は、このことを厳しく強調されます。

私たちは、イエスの死と復活において、このような大いなる祝福と光栄の約束と保証をもつ者として、希望を持って生きなければならない!!

けっして、「望みなき者」のごとくであってはなりません。

教会には、いつも、この望みが輝いていなければならないのです!!


それは、天の響きをもった言葉として、私の心に深くこだましています。


共に祈りましょう。

主よ、私たちの教会には、復活の望みが輝いているでしょうか。2015年を振り返り、自分たちの信仰をかえりみます。主よ、愚鈍な私たちの心をひらき、復活の希望、終末の希望をゆたかに仰ぎ見させてください。
2015. 12. 29  
今週は、今年最後の一週間。この2015年、自分に、家族に、また教会に、主が与えてくださったあらゆることを思い起こして、賛美を帰したいと思います。

また、次の日曜日は、Nさんの洗礼式が予定されています。

彼女の誕生日に合わせて、また2016年の始まりに合わせて、キリスト者としての新しい人生へ歩みだそうとしています。

その備えのためにも、この一週間、みんなで祈って支えていきたいと思います。

私たち一人一人は、まったく何の値打ちもないのに、イエス様から選んでいただいたがゆえに、彼の家族として、友として扱われます。

みんな、「彼によって選ばれた人たち」です。そういう者たちが、世の終わりの時に、主のもとに呼び集められ、そろって主の御顔をあおぐ・・・。

先の日曜日は、そんな、慰めの完成の時の約束が与えられました。

「人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。(マタイ24:31)」



この慰めの完成の時に至るまで、イエス様は、ご自分が愛し選ばれた者たちのことを片時も忘れることなく、見守り続けていてくださいます。

今年一年も、ずっとそうして見守り続けていてくださったのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの永遠の守りの中で、今年もここまで歩んでくることができました。今年、信仰を起こされ、あなたとの愛の契約に入ろうとしている者もおります。すべては、あなたが定めてくださっていたこと。今私たちは、ただあなたの大いなる御心に思いをはせ、あなたを賛美します。
2015. 12. 26  
昨日、長く入院しておられるT兄をお見舞いさせていただきました。

寝たきりで、言葉を交わすことはできませんが、兄弟を囲んでみんなでクリスマスの賛美歌を歌いました。

お元気な時には、賛美歌を歌うことが本当に大好きな兄弟であったと伺います。

私は、こんな詩編の言葉を思い出していました。

詩編102:19「 後の世代のために/このことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された。』」


神を賛美する・・・、私自身のことを振り返れば、そんなことは、まるで考えたことのない人生を23歳まで歩んできました。

しかし、今私は、神を賛美しながら生きるということの素晴らしさを知っています。

冬に咲くバラのクリアピンクの、その透き通った美しさに、神の素晴らしさを見出して、ほめ歌を歌います。

今日も、命が与えられたこと、生きよと命じられていること、主に愛し抜かれた私であること・・。

そして、今日も信仰が与えられ、キリストの命がこの魂に注がれていることに、深い感謝を覚えて、賛美の声が弾みます。

朝から、ほがらかに歌っていたら、変なおじさんに見えるかもしれません。

でも、今日も賛美をしながら、生きていきたいのです。主を賛美するために、私たちは、神の民としていただいたのですから。

明日は、今年最後の礼拝です。こぞって、ほめ歌をささげましょう。


共に祈りましょう。

主よ、あなたを賛美することの喜びを、私たちに教えてくださってありがとうございます。
主よ、今打ちひしがれている者もいるかもしれません。どうか一人一人の心に寄り添ってくださって、それぞれの心を高く上げさせてくださって、光さす方へと導いてください。
2015. 12. 25  
今日はクリスマスです。イザヤ9章の御言葉に導かれて、共に祈りましょう。

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
あなたは深い喜びと、大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。
・・・・地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく火に投げ込まれ、焼き尽くされた。

ひとりのみどりごがわたしたちのために生れた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。

その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。
ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。
王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。
万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。(イザヤ9:1-6)」


平和の君なる御子イエス・キリストよ。あなたが生まれてきてくださったこの日を、我が喜び、我が希望といたします。

主よ、あなたがこの地上に植えてくださった平和の種は、いまだ大きくは実らず、戦火は消えることがありません。しかし、あなたの平和の支配が、すでに開始されていることを信じます。

主よ、時代は不安を増しています。私たちは、大きな苦難を経験することになるのでしょうか。

主よ、憐れんでください。主よ、罪深い私たちの時代をきよめてください。

あなたがこの地にもたらしてくださった救いが、赦しと平和が、世界のすみずみにまで行きわたり、涙がことごとくぬぐわれる時を、切に待ち望みます。

主よ、我らの救い主よ。あなたの権威と力によって、我らの祈りを実現してください。
2015. 12. 24  
昨日のキャンドル・サーヴィス、子どもたちと若者たちの奉仕によって、主イエスのご降誕を豊かに喜ぶことができました。

8人の青年会。その内4人は、まだ洗礼を受けておられない方々です。彼らのためにお祈りください。

*****
昨晩は、特にヨハネ1:4-5から、暗闇に輝く命の光であるキリストを思い起こしました。

「言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」


この光は、イメージとしては、決して消えないロウソクの光です。

それは決して大きい光ではない。闇の中にかろうじて点された小さな小さな光です。

だから、街がイルミネーションであふれるようなにぎやかな時代には、だれにも気づかれないかもしれない。

すべての灯が消える時になって、はじめて人はその灯火に気付くかもしれない。

でも、どれだけ闇が深くなっても、決して消えることなく、今もこれからも、いつまでも輝き続ける永遠の光。人間を照らす命の光。

この光が、生まれてきてくださったのです。だからもう私たちは、決して暗闇にひとりぼっちではありません。

むしろ暗闇の中でこそ、この光に出会うことができるのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちを照らしてください。暗闇にのみこまれてしまうことのないように。この寒い季節に、心を凍らせている方に、灯火のぬくもりをお与えください。トンネルの中を歩む心細さに寄り添ってくださって、命の光でくるんでください。
2015. 12. 23  
今日は夜の6時から、教会でキャンドル・サーヴィスが行われます。ぜひお越しください。
*******

クリスマスは、「救い主」イエス様の誕生をお祝いする時ですが、考えてみますと「救われる」とはどういうことでしょう。

イエス様は「自分の民を罪から救う」方として、生まれてきてくださいました(マタイ1:21)。

私は、「救われる」ということを、最も分かりやすく伝えてくれているのが、ルカ19章のザアカイの物語だと思っています。

その最後でイエス様はこう言われます。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。(ルカ19:10)」


徴税人のかしらとして悪に悪を重ね、決定的に神から離れていたザアカイは、イエス様の目から見て、「失われた」迷子でした。

イエス様は、そのザアカイを深く愛して、神のもとへと導き返し、正しい道へと回復されました。

これが「罪から救う」ということです。

イエス様は、そんな「救い」を与えるために、ザアカイを必死で捜して、ついに木の上に見つけ出してくださったのです。

「そのために、わたしは来たのだ」という言葉に、私はクリスマスの恵みを思います。

私たち一人一人の存在を、「捜して救う」ためにと、天を引き裂いて、地上へと来てくださった、はるかな旅路を思うのです。


共に祈りましょう。

わが罪のため、栄を捨てて、天よりくだり、十字架につけり。わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを今日も愛したまえ。われ、なんじの導きによりて、罪の道より救わるるを求めん。
2015. 12. 22  
クリスマス記念礼拝には、たくさんの方が出席され、うれしく思いました。

家族の付き合いで・・、毎年誘っていただいて・・、表面的には色んな理由があると思います。

しかし心の奥底では、皆さんそれぞれに、「救い主」への憧れを、何らかの形で抱いておられることでしょう。

だから、礼拝へと足を運ばれたのではないでしょうか。

それに無自覚の方、あるいは「そんなことはない」と否定される方もいらっしゃいます。

でも、聖書から示される人間理解によれば、人はみな、あるべき場所からはぐれてしまって泣いている、迷子の羊です。

そんな自分を、命の泉へと導き返してくれる、まことの羊飼いである「救い主」を、誰もが求めているのではないでしょうか?


「わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。(イザヤ53:6)」

迷える、滅びゆく羊を導き返し、神の愛のもとで安らわせるために、イエス・キリストという「救い主」は来てくださいました。

人として生まれてきてくださり、わたしたちに代わって、十字架にかかって死んでくださいました。

キリストが生まれてきてくださったことに、感謝します。


共に祈りましょう。

神よ。独り子を与えてくださったほどに世を愛してくださった、大いなる愛よ。私たちに必要なすべてを、あなたは備えてくださいます。あなたがくださった最大のプレゼントに感謝し、大いなる御名をほめたたえます。
2015. 12. 18  
明日の朝はホームレスミニストリーに出かけますので、配信をお休みいたします。

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「神様に選んでいただいた」という恵みを考える時に、欠かせない御言葉は、申命記7:6-8です。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。

主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。

ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」


旧約の神の民であるイスラエル民族は、モーセに率いられて海を渡り、エジプトでの隷属の日々から救い出されました。

それが、「救い」の原体験でした。

そうして救い出され、ファラオの奴隷だった者たちが、主なる神の「聖なる民、宝の民」となりました。

でもそれは、彼らが優れていたからではなく、ただ「主の愛のゆえに」、どの民よりも貧弱であった者たちが、憐れみを受けて選ばれたのでした。

私たちも同じです。私たちの側には、神に愛される理由・価値は一切ありません。

貧弱で、愚かで、もろい者たちですが、ただ「主の愛のゆえに」選んでいただいて、罪の奴隷から、神の「聖なる民・宝の民」に変えられるのです。


お手元に聖書のある方は、Ⅰペトロ2:9-10も確認してください(新約p430)。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの「宝の民」と呼んでいただくこと、この身に余る幸いです。「宝の民」としていただいた、自分を大切に今日も歩んでいきます。主よ、翼を広げさせてください。
2015. 12. 17  
今週は、「選び」の恵みを分かち合っています。

私自身のことを言えば、私は「どうして僕はクリスチャンになったのだろう?」ということが、自分でよく分からないという不安定さを抱えていました。

何かを熱心に求めて教会に来たわけではありませんでした。(妻が通っていたから、自分も通い始めただけです・・・)

何かがはっきりと分かって、洗礼を受けたわけでもありませんでした。

聖霊に突き動かされるようにして、ポンポンと事は進んで洗礼を受け、自分はクリスチャンになっていました。

とはいえ、生活に大きな変化はなく、まったくクリスチャンらしくありません。

でも、イエス・キリストという存在は、私の中でもう決して消すことのできない大きなものになっていました。

だから、とても不思議な思いでした。「どうして、いつから、どうやって僕はクリスチャンになったのだろう?・・そして、このままクリスチャンと名乗っていていいのだろうか?」と、不思議な悩みを抱えていました。

そういう私が、「救いの確信」を得たのは、「神様が選んでくださっていた」という予定の教理を学んだ時でした。

私が私の考えでクリスチャンになったのではなく、神様がそのように計画し、導いてくださったのです。主役は神様です。

イエス様も言っておられます。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。(ヨハネ15:16)」

イエス様が選んでくださり、信仰を与えてくださったから、今の自分がいるのだ・・。

そう知ったときに、すべての謎が解け、深い平安を得ました。

そして、これからも、この道を歩ませていただこうと決意しました。ここまで導いてくださった神様が、これからも導いてくださって、必ず自分をふさわしく整えてくださると信じたのです。


共に祈りましょう。

主よ、値なき者を選んで愛してくださる、あなたの恵みに感謝します。今、信仰の迷いを覚える者に、救いの確信を与えてください。また、求道の友にもそれぞれにふさわしく、信仰へと導いてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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