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2016. 01. 16  
昨日、姉妹方と話をしていて改めて気づかされましたが、教会というのは本当にみんな背景がバラバラなのですね。

同じサークルに集うこともないだろうし、学校の同級生ならば友達にならなかった人たちかもしれない。

でも、そのようなお一人お一人が、同じ主を見上げているというその一点でつながっています。

切実な飢え渇きを求めて、教会にたどりついた方もいらっしゃいます。

そうではなく、何も求めるつもりはなかったけど、なぜか教会に導かれ、そのまま主にとらえられてしまった人もいます。

みんなバラバラです。でも間違いないのは、誰もが主に選ばれていたということです。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。(ヨハネ15:16)」

私たちが集まりたくて集まったのではなく、主が私たちを選んでくださって、勝田台教会を形成させてくださいました。

その不思議を思いつつ、詩編の言葉を思い返していました。


「詩編65:5 いかに幸いなことでしょう/あなたに選ばれ、近づけられ/あなたの庭に宿る人は。恵みの溢れるあなたの家、聖なる神殿によって/わたしたちが満ち足りますように。」

私たちはみな、主に「選ばれ、近づけられ」、主の庭・主の家なる礼拝堂に集まることへと召された者たちです。

そんな意識をもって、明日、兄弟姉妹とともに、主の庭に進み出ましょう。同じ主を見上げる礼拝こそ、私たちの一致の源です。


共に祈りましょう。

主よ、あなたが選ばれたお一人お一人に、今日もあなたの尽きせぬ恵みと平和がありますように。
2016. 01. 15  
「この罪の世にあって、イエスの道を決然と歩もうとする個人には、必ず一緒に歩む仲間ができます。キリストに強く結ばれた者たちは、必ず惹かれ合い、互いに愛し合う仲間になるのです」と、昨日書きました。

日本に限らず、神に従う者は、いつの時代でもどこの国でも少数派で、孤独を感じることも多いでしょう。

この世にあって、この世の人間ではない天国人(フィリピ3:20)ですから、異質な存在です。

でも、神は決して私たちを独りぼっちにはさせず、仲間を与えてくださいます。

「聖徒の交わり」とは、そういう異質で個性的な者たちが、本気で関わり合う群れです。

神との垂直な関係を確立して、しっかりと独りで立つ者同士が、互いに「愛し合う」ことを決断して、神の家族になるのです。


イエス様は言われました。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。(ヨハネ15:18-19)」

そして、そういう「選び出された私たち」に、こういう掟が与えられています。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(ヨハネ15:12-13)」


共に祈りましょう。

主よ、今日もこの世に遣わされているすべてのキリストのしもべに、平安と励ましがありますように。どうか「選び出された私たち」が、あなたの愛と義と平和を、よく証しすることができますように。
2016. 01. 14  
「聖徒の交わりを深める」をさらに考えましょう。

イエス・キリストを信じ従う。主の中に私が生き、私の中で主が生きているというほどに、キリストと強く結ばれる。それがまず第一のことです。

そして、そういうキリストとの霊的結合は、また同時に、「キリストのからだ」である教会との結合です。共に信じる仲間との結びつきです。



「我は信じる」と、神の前での孤独な「我」として、私たちはそれぞれ一人で立たねばなりませんが、その一方で、主イエスは私一人の「主」なのではなく、「我ら」の主なのです。

神の前での孤独は、孤立とは違います。

この罪の世にあって、イエスの道を決然と歩もうとする個人には、必ず一緒に歩む仲間ができます。キリストに強く結ばれた者たちは、必ず惹かれ合い、互いに愛し合う仲間になるのです。

コロサイ3:12-15の御言葉を思い出しています。

「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦しあいなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」


共に祈りましょう。

主よ、わたしたちの主よ。私たちはもう、永遠に独りぼっちではないのですね。聖徒の交わりへと招いてくださったことを、心から感謝します。今日もわたしたちが、互いに赦し合い、愛し合うことができますように。
2016. 01. 13  
昨日、大学のチャペルでⅠコリント8:2の御言葉が読まれました。

読みなれた新共同訳と異なる、新改訳の翻訳が新鮮で、今までにない感動を覚えました。

「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。」

しばしば言われることですが、学べば学ぶほどに、自分はまだ何も知らないということに気付くものです。

牧師として10年奉仕させていただき、神とその福音について「まだ知らなければならないほどのこと知ってはいない」ということを、思い知らされています。

だからこそ、大学院で学び直しておりますが、学べば学ぶほど、「知らなければならない」ことがどんどん増えてきて、時に呆然とします。

皆さんにもそれぞれに、生涯をかけての「神学」がなされますようにと、おすすめします。

私たちには、「知らなければならない」ことが、あまりにもたくさんあるのです。

でも・・・、今日の御言葉が教えてくれているのは、「しかし、人が神を愛するのなら、その人は神に知られている」ということでした。

私たちは、学んでも学んでも、神を完全には知り尽くせません。しかし、神は、神が、私たちのことを知っていてくださいます。

私が神を知ることがスタートではありません。神に私が知られている、ここから愛の関係は始まります。

どんなに聖書知識が欠けていても、そのあなたを神は愛し、そのあなたは完全に神に知られています。

あなたと神様の関係は、もう始まっているのです。

だからこそ、もっと神様のことを知りたいと思いませんか?


共に祈りましょう。

私を知っていてくださる主よ、あなたの完全な把握の中で、その大いなる愛の中で、今日も私の一日がよく進められていくことを確信します。主よ、今日もあなたご自身を知らしめてくださり、私たちに救いの知識を増し加えてください。。
2016. 01. 12  
田中剛二牧師の説教集を読んでいる中で、大変印象的な言葉がありました。

ヨハネの手紙第一の5:16を解き明かしている言葉です。

兄弟のためのとりなしの祈り、とりわけ、「罪を犯している兄弟のためのとりなしの祈り」こそ、キリストにある交わりには大切なのだというのが全体の趣旨です。

「聖徒の交わり」について学んでいる私たちにとって、とても重要な教えですので、以下に書き記します。


「わたしたちは肉体に病をもっている兄弟のために神の癒しを求めて熱心に祈りますが、それよりももっと、罪を犯し神から離れて滅びに陥ろうとしている兄弟のために祈ることは、必要ではありませんか。こうした兄弟たちのために、神のゆるしと救い(生命の回復)の恵みを祈ることほどに、わたしたちのキリストにある交わりにふさわしいことはなく、それこそわたしたちの交わりでもっとも大切な祈りなのです。」


ヤコブの手紙5:20を読んで、共に祈りましょう。

「罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです。」

愛する神様、私たちが「聖徒の交わり」の本質を見落とすことがありませんように。それぞれの罪との戦いのために互いに祈りあい、励ましあうことができますように。誰一人として、罪におぼれて迷いの道に進んでしまうことがありませんように。
2016. 01. 09  
今週も最後の一日となりました。日曜日に洗礼をお受けになったN姉にとっては、「新しい人」として初めて過ごす一週間でした。

気分はいかがでしょうか。それまでとはすべてがガラッと変わって・・、ということなら、それは大変結構ですが、「いえ、何も変わりはないです」という方が多いものです。

それでもいいのです。人それぞれ、色んな導きがあります。

昔、私の知っているある方は、「特に大きな変化はないけど、お祈りを確信をもってできるようになりました」と、教えてくださいました。

それまではやはり、祈りが神に届いているのかどうか不安だったが、洗礼を受けたことで、その不安が消えたということでした。

神様に祈りを聞いていただける。・・・考えてみると、ありえない恵みですね。

罪に汚れた私たちの祈りなど、神にとっては聞きたくもないし、本来聞く必要もないことです。

しかし、主イエスの十字架のあがないのゆえに、神との垂直の「交わり」がゆるされ、祈りが聞いていただけるようになる。

主イエスの御名によって祈る時に、父なる神は、まさに幼子のささやきに耳を傾けるようにして、親しく私の祈りを聞いてくださるのです。

これこそ、「聖徒の交わり」の醍醐味と言えるでしょう。

「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父ご自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出てきたことを信じたからである。(ヨハネ16:26-27)」


共に祈りましょう。

私たちの父となってくださった神よ、大いなるあなたに語り掛けることをゆるされた、この私は何者なのでしょう。私たちの嘆きも願いも、すべてを聞いていてくださるあなたに、今日もすべてをおゆだねします。
2016. 01. 08  
昨日、「ぶどうの木」のたとえによって、イエス様との霊的結合という「聖徒の交わり」を学びました。

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」と主は言われました。

そのようにしてイエス様という太い幹につながれた小さな枝が、一本一本生え揃うことで、ぶどうの「木」になるのです。

そしてイエス様は、わたしたちがそういう一本の「木」としての、共同体を形成していくことを求めておられます。

そうじゃなければ、ぶどうの「木」のたとえなど、なさらなかったことでしょう。

「あなた」ではなく、「あなたがた」と言っておられることも注目です。

ここでの「わたしにつながっていなさい」とは、単にイエス様に個人的につながるだけではなく、「教会」という愛の共同体に連なる一枝として生きることへの招きであります。


共に祈りましょう。

まことのぶどうの木なる主よ、どうか私たちを、あなたの生命力に満ちた愛の共同体へと建て上げてください。

あなたにつながるすべての枝を、憐れんでください。生かしてください。今、心沈んでいる者にも、あなたの慰めと励ましによって、みずみずしい実りが与えられますように。
2016. 01. 07  
「聖徒の交わり」とは第一に、聖なるイエス様に結ばれて、私たちが「聖徒(聖なる者)」とされることだと、繰り返し確認しています。

イエス様は「ぶどうの木のたとえ」で、わたしにつながっていなさいと言ってくださいました。

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。(ヨハネ15:4-5)」


「わたしを離れては、あなたがたは何もできないのである」、・・・この言葉が今朝は心にしみます。

大きな不安の中にある方々に、何か手助けはできないかと、あれこれ悩んでは心騒がす・・・、そんな日々を送ることも多い、信仰薄い者です。

様々な人間的な工夫や配慮は、とても必要だと思います。イエス様の求める愛は、いつでもとても具体的なものです。

でも、そういう愛という「実」も、イエス様から離れていては、決して結ぶことはできません。

逆に言えば、この魂がイエス様と深く結ばれているならば、必ず実を結ぶのです。そう約束されているのです。

主は、私たちのすべてを知っておられます。すべてを備えてくださいます。わたしたちが求める以上に、すばらしい実を結ばせてくださいます。これまでも、数々のすばらしい実を結ばせてくださいました!!

「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」、この御言葉を改めて心に刻んで、今日も歩んでいきましょう。


共に祈りましょう。

主よ、無力な私たちの祈りを聞いてください。どうかこの貧しい魂を、あなたの大いなる手によってつなぎとめてくださって、思いを超えた豊かな実を結ばせてください。今、苦悩している方々に、平安と慰めと希望が与えられますように。
2016. 01. 06  
「聖徒の交わり」とは第一に、イエス・キリストとの霊的結合からはじまる、三位一体の神との垂直的交流であると確認しました。

わたしたちは罪に汚れた者ですが、聖なるイエス様に結ばれることで、わたしたちも「聖徒」とされるのです。


その「結ばれる」というのを、「接ぎ木」のイメージでとらえると分かりやすいでしょう(ローマ11:17~を参照)。

バラの栽培には「接ぎ木」は欠かせません。弱い品種をそのまま育てれば、すぐに病気になったり成長が遅いので、強いノイバラに接ぎ木するのです。

そうすると根っこが変わって強くなります。ノイバラの根の生命力を使って、違う品種が咲くのです。

私たちも信仰によって、イエス様という聖なる頼もしい方に接ぎ木されて、根っこが変わるのです。これまでとは質の違う人生を歩み始めるのです。


エフェソ6:10-20の言葉に励まされて、今日を生きましょう。

ポイントは、「自分の力ではなく、イエス・キリストの偉大な力によって戦う」というところです。

イエス様に結ばれている私たちの内で、聖霊において、イエス様ご自身が戦っていてくださいます。だから、今日も私たちは心強いのです。

「最後に言う。主により頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身につけなさい。・・・立って真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、・・信仰を盾として取りなさい。・・救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、聖霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。・・・」


共に祈りましょう。

主よ、偉大なる力よ、あなたの力によって私は立ちます。今日も世にある私たちの戦いは、それぞれに与えられていますが、あなたがご自身の戦いとして我が戦いを戦ってくださって、勝利をおさめさせてください。
2016. 01. 05  
先に日曜日には洗礼式が行われ、神の家族にまた一人の姉妹が加えられたことを感謝します。

洗礼を受けるということは、「聖徒の交わりに入った」ということの目に見えるしるしです。

そして今年の勝田台教会の年間目標は、「聖徒の交わりを深める」です。

今日からしばらく、「聖徒の交わり」について、様々な御言葉から学びましょう。

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「聖徒の交わり」とは第一に、父・子・聖霊の三位一体の神との垂直的交流(交わり)です。

その中心にあるのは、主イエス・キリストとの霊的結合です。

聖なるキリストに強く結ばれることで、汚れた私たちが「聖なる者(聖徒)」とされる。このことが、「聖徒の交わり」の第一の意味です。


大変おもしろい表現で、このことが言われているのがこの御言葉です。

「洗礼を受けてキリストと結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。(ガラテヤ3:27)」

洋服を身に着けるように、聖なるキリストをこの身に着させていただくことで、「聖徒」として身だしなみが整えられるのです。

洗礼を受けた者は、それほどにイエス様とぴったり一つに結ばれていると、確信してよいのです。


共に祈りましょう。

主よ、今年の私たちの信仰の歩みにおいて、あなたとの垂直的な交わりがいよいよ深められ、高められ、「聖徒」としての身だしなみが整えられていきますように。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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