FC2ブログ
2016. 01. 30  
今週も色んなことを学びましたが、KGK(キリスト者学生会)の方から教えていただいたことが、心に残っています。

「今の大学生は、あまりにも多忙で、問うべき問を問わないまま、大人になっていく」という言葉でした。

いや、正確には、問うべき問を問わないままだから、大人になりきれないままである、というほうがいいのかもしれないと私は思いました。

多忙というのは、物理的なことのようです。授業、バイト、サークル、就職活動・・・。

それらは本当は、「いやだ」と立ち止まれば解消する忙しさなのではないでしょうか。でも、それができない。流れに逆らうことが、怖くて不安でできない・・・。そういうところに、問題の本質があるように、私は感じました。

そして、それは決して現代の大学生だけの問題ではないと、凍りつくような緊張を覚えるのです。

もし時間はたっぷりあるとしても、私たちもまた「問うべき問を問わないまま」ならば・・・・。


では、「問うべき問」とは何なのか?・・・まずは、それを問うことから始めなければなりません。


ポンテオ・ピラトがイエス様を尋問した際の、やりとりを思い出しました。

「・・・イエスはお答えになった。『・・・わたしは真理について証しをするために生れ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。』ピラトは言った。『真理とは何か。』(ヨハネ18:37-38)」

ピラトは、「真理」である方に直面することで、「真理とは何か?」と問うことを知りました。

わたしたちも、「すべての答え」である神と向き合い、まず、私たちが「問うべき問」を教えていただきたいと思います。おそらく、それを悟る時には、その問の答えも、おのずと見えているはずです。

そのために、神のもとに集うのです。礼拝とは、そのためのものです。聖書とは、そのために読むものです。


共に祈りましょう。

主よ、流れにのみこまれていくように、慌ただしく過ぎてしまったこの一週間であり、1月の日々であったことを省みています。主よ、今あなたのもとで静まって、立ち止まります。主よ、私たちが問うべき問を教えてください。
スポンサーサイト



2016. 01. 29  
ブログのほうに、昨日、面識のない方からのコメントをいただきました。

洗礼を受けて後、長く教会から離れておられたのですが、病気を機に、再び主のもとに戻ることができたということを教えてくださいました。

そういうご自分の歩みと、失敗を取り返していただいたペトロの姿を重ね合わせて、励ましを覚えられたようです。よかったなあと思いました。


思えば、今週の日曜日の説教の中で、私は皆さまにおすすめしました。「朝、目が覚めて一番に、イエス様のことを思うことができればいいですね」と。

私たちの信仰は本当に薄くて、霊の目はどんどん濁っていきますから、主イエスを忘れてしまいがちです。

重い苦悩を抱えて、どこにも助けなどないと主を遠くに感じたり。

怒り・憎しみ・ねたみ・不安・・・不健康な感情が、朝目覚めた時からすでに沸き起こってきて、主を思うすがすがしさを遠くへ追いやってしまったり。

心にやましいことがあって、主から逃げている時さえあるでしょう。

あるいは逆に、平穏無事な日々の中で、祈ることおろそかに、感謝も賛美も忘れて・・・ということもある。

そうして、気づいたら、主から遠く離れてしまっていた・・・そういう人は少なくないのかもしれません。でも、今こうしてメールを読んでおられるみなさんは、主を思う心を与えられている方々ですから幸いですね。



「見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。 主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。(詩編121:4-5)」

主はいつもすぐ近くにおられます。そして、まどろむことなく、眠ることもなく、私を夜のあいだ見守っていてくださいました。

朝、目が覚めて一番に、この主を思い出すことができた方は幸いですね。


共に祈りましょう。

主よ、今日の一日も、あなたと共に、たくましく、ほがらかに歩んでいきたいと願います。今、離れている者をもどうか憐れんでくださって、あなたのもとで平安を取り戻すことができますように。
2016. 01. 28  
もう一回だけ、マタイ14:22-33です。

湖の上を歩いてみようという、驚くべき信仰の挑戦をしたペトロでした。しかし、すぐに怖くなって失敗してしまいます。

でも、ペテロのように失敗しても、主が助けてくださいます。いや、それはもう失敗とは言えないのかもしれませんね。信仰者には、失敗などというものはないと言ってもいいかもしれません。

万事は益とされるのですから。主が与えてくださるすべての経験に意味があるのですから。

もし失敗ということがあるとしたら、それは、自分の信仰の薄さが明らかになるのを恐れて、歩み出すことをしないことであるかもしれません。

一歩を踏み出そうとしない、それが私たちの避けるべき失敗ではないでしょうか。

薄っぺらな信仰でかまいません。その薄っぺらな信仰をふりしぼって、荒れた湖の上を歩み出すなら、たとえ失敗しようとも、主は思いを超えた仕方で必ず引き上げてくださいます。逃れの道は開かれます。


共に祈りましょう。

ペトロの失敗を取り返してくださった主よ、あなたが今日与えてくださるすべての出来事を通して、わたしを救いの完成へと導いてください。あらゆる挫折を通し、試練を通して、あなたを信頼して生きる喜びと平安にたどりつくことができますように。

2016. 01. 27  
昨日の続きで、マタイ14:22-33です。

湖の上を歩いてみようという、驚くべき信仰の挑戦をしたペトロでした。しかし、すぐに怖くなって失敗してしまい、「信仰の薄い者よ」と叱られました。

私たちも、このペテロと同じですね。みんな信仰薄い者たちです。

「安心しなさい。わたしだ。(わたしがここにいる。)恐れることはない。」と、イエス様はペトロに言ってくださいました。

私たちの教会の礼拝の最後、祝福の宣言も同じ言葉です。「安心して行きなさい。強く雄々しくありなさい。恐れることはない。わたしたちの神、主が、共におられます。」

こういう祝福の言葉に心励まされ、信仰を燃やされた方もいるでしょう。

そして心を大きくされて、私もきっと主と同じように湖の上を歩けると、不可能にも思える一歩を踏み出そうとしておられるかもしれない。

でも、吹きすさぶ逆風は何も変わらないのです。その風の強さを思い出した途端に、信仰が萎えてしまって、「やっぱりできっこない・・、私には無理だ」とあきらめてしまう・・。

本当に、自分は「信仰の薄い者」だと情けなくなってしまいます。イエス様をがっかりさせてばかりだと思います。

でも、そんな私たちにがっかりされても、主は、何度でも助けの手を伸ばしてくださるのです。

失敗ばかりのペテロをイエス様は叱られます。がっかりされたことでしょう。でも、そのペトロを愛してやまなかったのもイエス様なのです。

(すみません、明日、もう少しだけ続きを。)


共に祈りましょう。

主よ、今困難に立ち向かおうとしている者がいましたら、どうかその信仰を支えてくださって、あなたの大いなる力を新たに知ることができるようにしてください。どうかあなたの恵みの御手によって、何度でも助けてください。
2016. 01. 26  
昨日は、大学院のチャペルで説教奉仕させていただき、マタイ14:22-33を分かち合いました。

特に28節からの、沈みかけたペトロを主イエスが助けてくださる場面から、福音を聴きました。

面白いのは、ここでのペトロは、「わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と、自分から申し出ていることです。

イエス様から信仰をテストされたわけじゃない。自分で言い出したのです。でも、自分で言い出しておきながら、自分で怖くなって、信仰を萎えさせてしまったという、なんともペトロらしいドジな様子です。

彼は信仰がなかったわけじゃないのです。確かに彼はイエス様を愛し、信頼し、懸命に従おうとした人です。

でも、残念ながら、その信仰は薄かった。だから失敗をしました。やがて、三度否むという大失態をも演じます。

でも、この記事で心に残るのは、彼は、そんな薄い信仰でも、一歩を踏み出そうとしたということです。

しかもその一歩は、湖の上を歩いてみようとしたという一歩です。普通はありえません。そんなことをしてみようとは思いません。でも、主がそばにいてくださるのだから、恐れることはない、私も、主と共に、この湖の上を歩いてみようと、ありえないような一歩を踏み出したのですね。

このチャレンジは、残念ながら失敗しました。でも主は、どんな時も、ペテロの失敗を取り返してくださいます。ここでも、主は彼のことを、すぐに助けて引き上げてくださいました。

(明日、続きを分かち合いましょう。)


共に祈りましょう。

主よ、信仰の薄い私たちであることを申し訳なく思います。でも今日も、小さな信仰のともし火を、あなたがともしてくださったことに感謝します。それぞれに今日与えられるチャレンジに対して、信仰と希望をもって取り組むことができますように。
2016. 01. 23  
今年の年間目標の「聖徒の交わりを深める」にまつわる御言葉を、分かち合ってきました。

まだ分かち合いたい御言葉はたくさんありますが、一応今日で、このシリーズは終わります。最後に読みたいのは、この御言葉です。

「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。(Ⅰヨハネ3:16)」

教会の交わりは、愛を学び、実践する学校です。そして、愛とは、兄弟のために命を捨てることと教えられています。

兄弟のために命を捨てる・・・。古代のクリスチャンは、これを本気で受け止めました。

疫病に感染するのも承知で看病したり、迫害の際に命を張って兄弟を逃がしたり。

平均寿命が40歳にも満たない時代の彼らには、地上の「命」への執着も私たちより薄かったのかもしれません。

現代に生きる私たちには想像を超えることであり、どうすればいいのかと立ちすくむ思いもします。

でも、まず大切なのは、普段の生活からいろいろなかたちで、兄弟姉妹のために自分の賜物や時間を用いることを意識していくことではないでしょうか。


共に祈りましょう。

主よ、私たちはそれぞれに自分の「命」が大切で、兄弟のために命を捨てるということに、大きな壁を覚えます。主よ、どうか私たちの限界を打ち破ってくださって、真実の愛の交わりを実現させてくださいますように。
2016. 01. 22  
「神の家族」の交わりということを考える時、いつも思い出すのはこの聖句です。

「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。(コリントⅠ12:26)」

家族というのは、他人じゃない。身内です。身内だからこそ、だれかが苦しめばみんな苦しい。だれかが喜べば、それは自分のことのようにうれしい。みんながうれしい。

だから、みんなで大切にしあうのです。そして、だれかのことを、我がこととして祈るのです。

教会というのは、だれかがだれかのために、いつも必ず祈っているところです。

自分のために、自分の知らないところで、どれほどの祈りが重ねられてきたかということを、いつも考えていたいと思います。

どうか皆さん。自分のことなどだれも考えてやしないなどと、どうか決して思わないでください。

あなたの苦しみは、わたしたちの苦しみです。あなたの喜びのために、みんなで祈りたいのです。


共に祈りましょう。

私たちを家族にしてくださった主イエス・キリストに感謝します。主よ今日も、私のために祈ってくれている方々に、あなたの平安がありますように。私の愛する兄弟姉妹に、苦しみが遠ざけられ、喜びが満たされますように。
2016. 01. 21  
聖書の中で「神の家族」という表現が出てくるのは、実は多くはありません。エフェソ書の言葉くらいです。

「従って、あなたがたはもはや・・聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。(エフェソ2:19)」

でも、言葉は出てこなくても、そういう考えはずっと前提としてあるのです。

「神の家族」は、神様をお父様とし、イエス様を長男のお兄さんとする家族です。私たちはみな養子です。たとえるなら、イエス様によって孤児院から引き取られ、「神の家族」へと迎え入れていただいて、兄弟姉妹とされたのです。

「信仰」によってつながる兄弟姉妹であって、血のつながりによる絆ではありません。でもそれは、血の絆よりも深いのではないでしょうか。



「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。(ガラテヤ6:10)」

神の子としていただいた者として、たゆまず善を行いましょう。御父は、私たちの行いを、いつも厳しくやさしく見守っておられます。

「特に信仰によって家族になった人々」を、互いに大切にしあいましょう。神様の家族として迎え入れていただいたのですから。

私たちが祈りあい、励まし合い、助け合うのを、御父は、いつも厳しくやさしく見守っておられます。


共に祈りましょう。

天のお父様、今日も私の兄弟姉妹が、あなたの永遠の守りの中で、安心して過ごせますように。今、病んでいる者たち、傷んでいる者たち、疲れている者たちが力を得ますように。罪に沈んでいる者たちが、悔い改めを与えられますように。
2016. 01. 20  
クリスチャンは兄弟姉妹と呼び合います。それは、「神の家族」にされたと信じているからです。

思えば、聖書というのは、アブラハムから始まる、いやもっと根源的にはアダムから始まる、ひとつの「家族」の物語です。

この「家族」の最初の歩みから、兄弟ゲンカは絶えることがありません。

カインはアベルを殺してしまいました。イシュマエルとイサクはかみあわず、ヤコブはエサウをだましました。

「家族」の中でこそ、人間の罪深さがあざやかにあらわれる・・。これが聖書の示す、冷徹な人間理解でもあります。

教会という「神の家族」であっても、この罪深さから自由ではありません。ささいなことから不信感が募ってののしりあったり、正しさを主張しあって分裂したり・・。

でも、そういう現実を「仕方ない」と開き直るのならば、キリストの救いによって「神の家族」にしていただいた甲斐がありません。


エフェソ書を締めくくる、祝福の祈りをもって、共に祈りましょう。

「平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。

恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように。(エフェソ6:23-24)」
2016. 01. 19  
「聖徒の交わりを深める」というテーマで、もう少しだけ分かち合いましょう。

今年私たちは、「聖徒の交わり」の水平的な側面、すなわち信仰を同じくする兄弟姉妹との交流が深まるようにも努めたいのです。

思えば、兄弟姉妹という言い方は、とても奇妙です。私は初めて教会に来た時に、「兄弟」と呼びかける姿を拝見して、「・・・ヤクザみたいだな」と思ってしまいました。

そういう意味では、大変奇妙な習慣なのですが、教会はその歴史のはじめから、お互いを「兄弟(姉妹)」と呼びあって来たようです。

新約聖書の手紙を読んでいますと、「兄弟たち」との呼びかけが数えきれないほど出てきます。

今日はテサロニケ人への手紙第一の、冒頭のあいさつを分かち合って、共に祈りましょう。

「パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。

わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。

神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。(Ⅰテサロニケ1:1-4)」


主よ、私たちの父よ、あなたに愛されている兄弟たちに、今日も平安がありますように。信仰が育まれますように。愛が豊かにされますように。そして、どんな時もあなたに希望をおいて、しっかり立つことができますように。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
FC2ブログへようこそ!

検索フォーム
カテゴリ
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR