FC2ブログ
2016. 02. 06  
旧約聖書の最後近く、ゼファニア書には「終わりの時」についてのこういう預言があります。

「その日、人々はエルサレムに向かって言う。「シオンよ、恐れるな/力なく手を垂れるな。

お前の主なる神はお前のただ中におられ/勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ/愛によってお前を新たにし/お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。(ゼファニア3:16-17)」


終わりの日は、救いの完成の日。完全な喜びの時の到来。

その日、主は私たちのただ中で、完全な勝利を与えてくださって、罪人として味わうすべての苦悩と悲惨から解き放ってくださいます。

今、覚えているその悩ましさが、無力感と疲れが、おさえきれない不安が、やりきれない怒りが・・・

すべてが、大いなる喜びの歌に変わる時が約束されています。

大いなる愛に満たされて、すべてが新しくされるとの希望があります。

その喜びに満たされる私をご覧になって、主もまた喜び楽しまれます。主の喜びと、私たちの喜びが完全にひとつになるのです。

このはるかな希望の高みを見つめながら、励まされながら、生きていきたいと思うのです。

日曜日の礼拝というのは、そういう救いの完成の日の喜びの先取りであり、練習といってもいいかもしれません。特に明日は聖餐式があります。終わりの日の祝宴を希望しながら、聖餐に臨ませていただきたいものです。


共に祈りましょう。

すべてのものに始まりを与え、終わりを与えられる、大いなる主よ。私たちの小さな思いを超えて、今日も永遠の希望の光によって照らしてくださって、どんなときも生き続けることを励ましてください。
2016. 02. 05  
今週は、マタイ25:14-30の「タラントンのたとえ話」に関連して、御言葉を分かち合っています。

たとえ話の中では、僕たちはそれぞれの力に応じて、5タラントン、2タラントン、1タラントンの財産をゆだねられます。

そこには「差」があります。人にはそれぞれ神様から与えられている能力がありますが、それには「差」があるのです。

賢い人、そうでない人。体の強い人、そうでない人・・etc。神から与えられるものに違いがあるのです。

たとえ話の中では、僕たちはそれぞれに与えられたものを活用して、もうけます。そこにはまた「差」があります。5タラントンもうけた者も、2タラントンもうけた者もいます。

でも、大変おもしろいのは、それを喜びほめる主人の言葉は、まったく同じであることです。そこには少しの「差」もありません。

「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。(マタイ25:21,23)」


5であろうが、2であろうが、1であろうが、どれも主人=神様からしたら、「少しのもの」に過ぎません。そういう意味では「差」はありません。

大事なことは、その与えられている「少しのもの」にどれだけ忠実であるかです。業績の「差」は関係ないのです。

忠実であるならば、みんな等しく、さらに「多くのもの」の管理がゆだねられます。そこには、何の「差」もないのです。


共に祈りましょう。

主よ、他の人と比較してはうらやんだり、ひがんだり、焦ったり、あるいは勝ち誇ったり・・、もうそんな私でいたくないのです。主よ、今日ほんとうに自由な心で、与えられている「少しのもの」を生かし切ることができますように。
2016. 02. 04  
今週は、マタイ25:14-30の「タラントンのたとえ話」に関連して、御言葉を分かち合っています。

「怠け者の悪い僕」の最大の問題は、主人のことを間違って理解してしまったことでした。

強欲で、理不尽な主人で、損失を出せばどんな罰が与えられるか分からないと恐れたから、彼は間違った態度と行動をとりました。

これは私たちに大きな教訓を与えてくれます。

私たちも、主である神様・イエス様に対する間違った理解をしてしまうことで、人生における態度や行動に大きな間違いが出てしまいます。

「真に神を知ることなくして、人は人生の意義、目的を正しく知ることはできない。(田中剛二)」

失敗を罰する恐怖の神しか知らないならば、人生は恐れと不安に満たされてしまいます。

あるいは、自分は理不尽な神に振り回されてばかりで、人と比べてつまらない人生しか用意されていないとひがみながら、ねたみながら歩むことしか知らないならば、そのような人生になってしまうのでしょう。

そうじゃないのです。私たちと主との関係は、愛と信頼の関係であるはずです。

イエス様が、私たちにくださった言葉を思い返して、今日の日を過ごしましょう。

「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。・・わたしはあなたがたを友と呼ぶ。(ヨハネ15:15)」


共に祈りましょう。

主よ、悩むことが多くて、自分はあなたに愛されていないと不平を言ってしまう者をゆるしてください。主よ、今なによりもまず私自身が、あなたとの愛と信頼の関係に生きることができますように。
2016. 02. 03  
今週は、タラントンのたとえ話に関連して、御言葉を分かち合っています。一ペトロ4:10-11に、こういう御言葉があります。

「 あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。

語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。」



教会に生きるそれぞれの方に与えられている、説教や奉仕の「賜物」、すなわち能力・役割、熱心・・、それを忠実に用いることで、キリストの御心を実現して「神が栄光をお受けになる」ように努めなさいと、励まされています。

今朝はあえて、「賜物」ということをもう少し広げて考えてみましょう。

私は根本的には、この地上の人生そのもの、「生きる」という営みそのものが、神から、今日、わたしに与えられた「賜物」だと、いつも考えています。

今もまさに与えられている一秒ごとの時間、空間・・・。そこで繰り広げられる、さまざまな出会い、出来事・・・。

今日もそれぞれに与えられている役割があり、働きがあることでしょう。学びがあり、遊びもあるでしょう。

睡眠による休息も、食事の喜びも・・ありきたりな日常の風景のすべてが、本当は神から「授かった」ものであり、それを大切に受け止めて、よく「管理し、生かす」ことを願うなら、そのことによって神に喜んでいただくこともできるのです。


共に祈りましょう。

主よ、すべてのよきものを与えてくださる、あなたの恵みに感謝します。今日もあなたから授かる賜物を、よく管理し、生かして、あなたの喜びに仕えることができますように。
2016. 02. 02  
日曜日には、マタイ25:14-30のタラントンのたとえ話から学びました。

「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントンを預けて旅に出かけた。」


主人から僕たちに、それぞれの力に応じて、それぞれの量の財産が預けられます。「預けた」というのは、「全面的な信頼をして、自由に使ってよいとゆだねた」ということです。

これはすごいことです。このような委託を受けるということ、これは僕にとってこの上ない名誉であり喜びでした。

そういう主人の思いに応えて、与えられたものを存分に用いて、倍に増やした者たちが、「忠実なよい僕」としてほめられます。


こういうたとえ話から、これまでいつも後ろめたさのようなものを感じていたと、ある方が伝えてくださいました。

自分に与えられた才能、賜物を豊かに用いていきたい・・そういう思いを起こされつつも、自分はそのようにはできていない「怠け者の悪い僕」であるなあと、いつも反省させられて・・、そういう後ろめたさです。

でも、今回の解き明かしによって、神様が私たちを全面的に「信頼」してくださっているということに気付かされ、今までとは違う喜びが起こされたと、伝えてくださいました。

神は今日も、私たちを全面的に信頼し、さまざまな出会いと働きに一生懸命取り組んで、「わたしを喜ばせておくれ」と願っていてくださいます。


共に祈りましょう。

主よ、あなたを信頼します。今日も、あなたが最善の人生を備えてくださることを感謝します。与えられた生命と時間の中で、与えられるすべての出来事に忠実に取り組んで、あなたの喜びに仕えることができますように。

プロフィール

茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
FC2ブログへようこそ!

検索フォーム
カテゴリ
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR