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2016. 02. 23  
皆様、おはようございます。今週も、それぞれに神様と共に歩む喜びがありますように。

今週は、レポートなどが重なっているために時間がなく、配信はお休みさせていただきます。

「主の言葉がエレミヤに臨んだ。『見よ、わたしは生きとし生けるものの神、主である。わたしの力の及ばないことが、ひとつでもあるだろうか。』(エレミヤ32:26-27)」

大いなる主の手の中で、今日も私たちの一日が導かれていることを感謝して。坂井
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2016. 02. 20  
皆さんもすでにニュースなどでご覧になったと思いますが、昨日、佐倉の王子台チャペルで立てこもり事件がありました。

勝田台教会から近く、女性カウンセラーの方とは交遊もありましたので、私も大変驚き、胸を痛めています。

罪の世に遣わされている教会ですから、このようなことはいつでも起こりえるということを、改めて覚えさせられました。なにより、王子台チャペルの方々のために祈ります。

*****
今週の私の歩みに、永遠の光をもたらしてくれた御言葉を紹介します。エレミヤ29:11-14です。

「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。

そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。

わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。」


人間の動きにばかり心が囚われてしまっている時というのがあります。そんなときは、自分の道を見失い、姿勢もどんどん崩れていきます。

でも、神のもとには、「平和の計画」があり、神の目には、私の「将来と希望」が見えています。

ただ、そのことを信じればいいのです。

ただ神を呼ぶということを、思い出すのです。

心を尽くして、神に祈り求め、たずね求める。そして、神に出会わせていただく。そのことに集中する。

そこから先は、私のための「平和の計画」にしたがって、神が最善を備えてくださいます。

もう、人間のことをくよくよ考えるのはやめよう。恐れなくていい・・。そんな風に、心が整えられた一週間でした。


共に祈りましょう。

主よ、罪と悲惨に満ちたこの世にあって、キリストに従いゆく道の危険や苦悩にも気づかされています。主よ、傷ついた人々をいやしてください。主よ、あなたの憐れみに、すべてをおゆだねいたします。あなたを近くに覚えさせてください。
2016. 02. 19  
昨日、次女の描いた絵が入選したということで、市の展覧会をのぞいてきました。

たくさんの小学生たちの、踊るような感性。娘の作品もまた、のびやかなタッチでとんぼを描き、その羽の観察の細かいこと。キラキラと光が乱反射する様は、創造主によるステンドグラスの美しさでした。

久しくちぢこまっていた心が、解きほぐされるような元気をいただきました。

帰り道の家族の会話で、こんなあどけなさに、みんなが噴き出しました。

「いつも月が私を追いかけてくる」と次女が言います。だから、「お月さんは大変だね」と。

そして、「ねえ、月っていくつもあるの?」と。

違うよ、月はとっても大きいから、みんなにとって近く見えるんだよと、妻が教えます。

そんな会話を聞きながら、「まるで神様のようだね」と、私がやや牧師くさいコメントを差し入れます。

ただお一人の偉大な偉大な神様が、私たち一人一人と、いつも共にいてくださいます。

神様のお働きも大変ですねえ。詩編139:7-10を思い出しました。


「どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。
 どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。
 天に登ろうとも、あなたはそこにいまし
 陰府に身を横たえようとも
 見よ、あなたはそこにいます。
 曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも
 あなたはそこにもいまし
 御手をもってわたしを導き
 右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」


主がどこまでも私と共におられる。それは、常に主の視線から逃げることはできないという生の緊張を生みます。

でも、緊張だけではない。それは同時に、限りない平安です。私がどこに迷い出てしまおうとも、主はそこにもいてくださって、私をとらえて離さないでいてくださるのです。


共に祈りましょう。

月よりも太陽よりも大いなる方、宇宙の創造者なる主よ。大いなるあなたが、この私の神でいてくださること、今日も共にいてくださるということ・・。主よ、感謝します。のびやかに、今日の生を喜ばせてください。
2016. 02. 18  

以前に、こんなことをご質問いただいたことがあります。「悪いことが続く時には、どのように考えたらいいのですか?神様の罰が与えられるということはあるのですか?」

皆さんならどうお応えになるでしょうか。

すべては神の恵みの摂理であって、万事が私たちの魂の救いのために益とされる。これが究極のところの真理であって、前提です。

この前提の上で、そういう神の恵みとして、「懲らしめ」ということがありうると、聖書は教えています。

それは、罰が与えられたという風に考えるべきではない。

神が、何かを気づかせようとして、与えられる「懲らしめ」なのです。

Ⅰコリント11:31にこういう御言葉があります。

「わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。」

自分を「わきまえる」、というのは、自分の罪を正しく認めるということです。正しく「わきまえる」なら裁かれません。

「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。(Ⅰヨハネ1:9)」とあるように、自分を罪人とわきまえているなら、主イエスの救いにあずかります。

そういう意味で、「滅びに定められる裁き」はありません。それは、十字架の主が引き受けてくださいました。

でも、罪に呑み込まれたまま、神と自分自身にちゃんと向き合おうとしないままなら、「懲らしめ」として裁かれることがあります。

主は、精神的にも身体的にも、色んな痛みを通して、私たち自身を「わきまえる」ことへと導いてくださいます。大切なことを失っていることに、気づかせてくださるのです。

私自身、今そのことに深い悔い改めを覚えさせられています。


共に祈りましょう。

十字架の主よ、あなたのもとで裁きは祝福に変わり、神の怒りは懲らしめの愛へと変えていただいたことを、心から感謝します。主よ、あなたからの問いかけを覚えます。自分自身を見つめ直し、あなたとの関係をもう一度確かにすることができますように、聖霊のお導きを与えてください。
2016. 02. 17  
このエピソードは何度も話していると思いますが、求道の友のためと思ってご理解ください。

私は初めて教会で礼拝をした時に、長老に尋ねました。「みなさんは、一体何を信じているのですか?」

長老は答えてくださいました。「自分のために、イエス・キリストが身代わりとして、十字架で死んでくださったことですよ。」

私は、びっくりたまげました。そんなマンガのような話を、こんなに立派そうな紳士が本気で信じているというのか・・。


私はその衝撃に、これはおもしろいと、興味本位で教会に通い始めたというのが正直なところだと思います。

その意味で、まったく不真面目な求道者でした。でも、最初の驚きが、ずっと胸にひっかかっていました。

自分のために、イエス・キリストが死んでくださった・・・。これはどういうことなのだろう?

これを無視してしまうことはできないという思いがして、ただそのことを心にとどめていました。

そのようにしてイエス様に死んでいただかねばならなかったほどの、私の「罪」の問題を理解しはじめたのは、それからずっと先のことでした。


昨日のⅠコリント15:1-5を、もう一度読みましょう。あなたの永遠を決する「最も大切な福音」が語られていますから・・・。

「「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。 どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」


共に祈りましょう。

十字架にかけられたまいし主よ、私には、あなたに死んでいただくような値打ちはありません。本当に、これっぽっちもないのです。しかし主よ、感謝します。あなたにこれほどに大切にしていただいたのだから、私は私自身を軽んじることはもうやめます。罪と悪との戦いに努めます。主よ、あなたに出会えたことを感謝します。
2016. 02. 16  
みなさん、おはようございます。朝の通勤時にこのメールを読んでおられる方もいらっしゃると聞きます。

今日も主の守りがありますように。今日起こるすべてのことに、恵みを見出しながら歩むことができるなら幸いですね。

心の晴れない思いで、朝を迎えられた方もいらっしゃると思います。罪と悲惨に満ちた私たちの現実は、やりきれないことが続きます。

ある偉い人は、朝、新聞を開くときに、スポーツ欄から見るのだと、何かに書いてありました。

なぜならそこには、人間の成し遂げた偉業を伝える、よいニュースがあるから。第一面には、悪いニュースばかりが掲載されている・・と。


確かにそうかもしれない。しかし、そのすべての悪いニュースを背負って、神の独り子が十字架にかかって死んでくださった。

そして、そこからよみがえってくださって、永遠の命への道を開いてくださった。

それが、神様が与えてくださった、「福音=よき知らせ、グッドニュース」です。


心沈んでいる時は、この「福音」を聞いても、心がときめかないものです。そんなことよりも、今心配しているあのこと、このことが解決してほしい・・。

でも、そんな時にこそ改めて、心を集中して、神がくださったグッドニュースを確かめ、心を高くあげるのです。

Ⅰコリント15:1-5を読みます。ここには、私たちの永遠を決する、「最も大切なこと」が記されています。

「「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。 どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」


共に祈りましょう。

主よ、受難節を迎えているこの季節、主の十字架の福音を、私たちの魂に打ち込んでください。今日もおひとりおひとりが、最も大切なことを人生の軸において、希望をもって生きることができますように。
2016. 02. 13  
今週は体調不良でご心配をおかけしましたが、私の方はもう9割がた回復しましたのでご安心ください。お祈りに感謝します。

しかし、昨日から長女が発熱したり、子どもたちがあやしいです。ご高齢の方々や幼子たちのことを案じています。インフルエンザなど流行っていますので、くれぐれもお気を付けください。

また、看病のために妻が欠席せざるをえず、急きょオルガン奏楽を交代していただくことになりました。

この機会に、奏楽奉仕者のために祈るということに、改めて意識を持っていただければうれしいです。

ちょうど昨晩、東関東の青年たちと学びの時を持ちましたが、アメリカの礼拝シンポジウムに参加した方が、その報告をしてくださいました。

世界中から集まった方々が、様々な楽器を用いて、洗練された賛美を主にささげておられた様子を伺い、心ときめきました。

私たちの教会では今、オルガンと斉唱をもって主を賛美しています。

私たちにささげることのできる最高の賛美をもって、主を喜び、主に喜んでいただけるよう、よく備え、全力を尽くしましょう。

オルガン奏楽者たちは、それぞれ多忙な中、時間を盗むようにして練習時間を確保し、毎週最善の準備をしようと努めておられます。祈りをもって、支えたいと思います。

「ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく/神への賛美はいかに美しく快いことか。(詩編147:1)」


共に祈りましょう。

主よ、あなたを賛美する喜びを、私たちに豊かに教えてください。今、心沈んでいる者たちが、賛美の歌を口ずさみながら、心朗らかに生活に取り組むことができますように。オルガン奏楽者を支えてくださって、よき奉仕ができますように。
2016. 02. 12  
昨日の東関東中会「平和の集い」で、ネヘミヤ9章から説教させていただきました。

ネヘミヤ9章は、悔い改めの祈りのかたちで、アブラハムの選びに始まるイスラエルの歴史が想い起されます。

それは、約束にしたがって恵みを注ぎ続けてくださった、神の憐れみ深さについての記憶を保存するものです。

同時にそれは、その神を裏切り続け、傷つけ辱めてきた、「神に対する加害の歴史」の記憶を保存するものです。

「わたしたちはあなたに罪を犯しました」と、はっきり自覚しているのです。

「あなたは正しく行動されました。あなたは忠実に行動されました。しかし、わたしたちはあなたに背いてしまいました。(ネヘミヤ9:33)」


日本においては、先の戦争を語る時に、被害と苦難の歴史ばかりがいわれて、加害の歴史がなおざりにされていると、しばしば指摘されます。

例えば、戦争のメモリアルデーは、8月15日。広島・長崎への原爆という惨禍を経て、戦争が終わった日です。

しかしドイツの場合は、1月27日。アウシュビッツが連合国に解放された日がメモリアルデーとされます。それは、加害の記憶です。民族の恥であり、思い出したくない記憶を、そのようにして保存します。


日本人だけでなく、人類全体として、加害の歴史の想起ということが、今日改めて大切に考えられるべきでありましょう。

なによりも根本的な、「神に対する加害の歴史」ということを、「わたしたちの歴史」として継承することが、必要だと思えてなりません。


共に祈りましょう。

憐れみ深い主よ、わたしたち人類は、あなたに背き、あなたを辱め続けているものです。それにもかかわらず、恵みを注ぎ続け、世界を見捨てないでいてくださるあなたに感謝します。どうか主よ、私たちがあなたの御心を実現し、罪を犯さないようにしてください。富に支配されないように。だれも殺さないでいられるように。
2016. 02. 11  
(2014年2月11日の再掲です)

今日は2月11日。「建国記念の日」とされていますが、これは日本書紀にある神武天皇の即位の日であり、戦前の国家神道において「紀元節」と呼ばれていた日です。

大日本帝国においては、「天皇」は日本国民が崇め、命をささげるべき「現人神」とされ、キリスト教会も天皇崇拝や神社参拝を強制させられました。

そんな「天皇教」と言ってもいいような国家神道体制を復興させたい勢力が、特にこの数年勢いを得ています。

「紀元節=建国記念日」というのは、そんな天皇教の一大イベントです。

ですから、日本のキリスト教会では、この2月11日を「建国記念の日」ではなく「信教の自由を守る日」ととらえなおし、聖書において自らを啓示されるただ御一人の神様への信従を、改めて確認する時としています。

黙示録19:11-16をお読みください。

黙示録は、ローマでの皇帝崇拝を拒んで迫害されたクリスチャンたちに、主イエスの勝利の希望を伝える書です。

「そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、『誠実』および『真実』と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる(黙示録19:11)」

この方こそ、「王の王、主の主(16節)」であるイエスです。

改めて、この方を見上げる一日としていただければと願います。



共に祈りましょう。

万物の支配者である主よ、日本の国をかえりみてくださり、かつてのように、思想・良心の自由がおろそかにされる国にならないようにしてください。

今すでに、さまざまな圧迫を受けて苦しんでいる人たちを助けてください。

「日本人なら当たり前」と迫ってくる、悪しき強制に対抗することのできる信仰の勇気と、知恵と力を、弱い私たちに与えてください。
2016. 02. 10  
昨日は、風邪をひいてしまって朝起きることができず、お休みさせていただきました。だいぶ回復してきました。

自分の虚弱さ、小ささを思わされています。思えば、今週の日曜日に与えられた言葉は、「最も小さい者たち」についてのものでした。

「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(マタイ25:40)」


この「最も小さい者」とは誰であるか?

たくさんの解釈がある中で、「これはあのパウロに象徴されるような、迫害と困難に苦しみながらもキリストに従い続ける、すべてのキリストの弟子。クリスチャンである。」と、私は解釈しました。

そういう意味で、「最も小さな者たち」とは私たち一人一人のことです。

そしてそういう「最も小さな者」である一人一人のことを、主イエスは「わたしの兄弟」だと言っていてくださるのです。

そして、そういう一人一人にしてくれたことはわたしにしてくれたことだ・・・、それほどの深い深い結びつきを覚えていてくださるのです。


共に祈りましょう。

主よ、まことに小さく、つまらなく、あなたのために何の役にも立てないものですが、「わたしの兄弟」と呼んでくださるあなたに、今日も心を打たれています。主よ、この小さな命を、あなたの手の中で大きく用いてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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