FC2ブログ
2016. 03. 16  
イザヤ53章の「苦難の僕の歌」を分かち合いましょう。まるで十字架の下にたたずんで、すべての出来事を見届けたかのようにして書かれた、古の預言者の言葉です。

それは十字架の出来事にいたるイエス様の全生涯についての、神ご自身による解き明かしでもあります。


53:2「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った」

砂漠に生え出た若枝・・。その秘められた生命力の強さを覚えます。しかし、人の目にそれは、あまりに貧弱で弱々しい。

イエス様が、馬小屋の飼い葉桶の中で、最もみじめな者としてお生まれになったことを思い出します。


そしてそのような貧しさは、彼の見栄えの悪さに通じていきます。「見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」

古来イスラエルにおいては、ヨセフにしろダビデにしろ、姿の美しさが祝福された者のしるしでした。しかし「苦難の僕」はその美しさを奪われています。神の祝福から最も遠く離れた、日陰を歩む人です。


そしてこの美しくない人は、軽蔑され、見捨てられるという、孤独を味わいます。53:3「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。」

誰にも尊ばれることなく、多くの痛みを負い、病を味わう。この僕は、そのような悲しみの人でした。


そしてこのように続く。「彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」

顔を隠してとあるのは、これは重い皮膚病患者の描写だとも言われます。重い皮膚病にかかった人は、何か用があって人々の前を通る時は、顔におおいをして「汚れた者が通ります、通してください」と大声をあげなければ通ることができなかったと言われます。

「苦難の僕」は、そのように人々から忌み嫌われるのです。まるでそこにいてはいけないかのように、存在を無視され、軽蔑される。

それはすべて、私たちの代わりに、イエス様が引き受けてくださったことでした。


共に祈りましょう。

主よ、我が罪のために、あなたが味わってくださった痛みのすべてを、よく悟らせてください。そして、今までよりもっと明らかに、キリストの救いの深みを悟らせてください。
2016. 03. 15  
今、日曜日の礼拝では、イエス様が十字架へと向かっていかれる過程を、読み進めています。

先主日は、イスカリオテのユダに裏切られ、ユダヤの指導者たちに捕らえられ、死刑の裁きがなされるところでした。

これらの悲しい出来事はすべて、神が定められた救いのご計画の実現でした。

「このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。(マタイ26:56)」と書かれています。

このような「預言の成就」ということは、改めて考えてみると驚くべきことです。

礼拝後に、小学5年生の長女に、今日の御言葉のどこが印象に残ったかを聞いてみると、「イエス様のことが旧約聖書に書かれているってことがびっくりした」と言っていました。

思えば、以前に熊本で中学生の女の子との信仰告白の学びの中で、イザヤ書53章を読んだ時にも、「イエス様がここにいる!!」との感動が彼女をとらえたことを思い出しました。

そういうわけで今週は明日から、イザヤ53章の苦難の僕の歌を、読んでいきましょう。

全人類の堕落と腐敗を巻き返すために、神が用意された、驚くべき救いのご計画を、改めて確認したいと思います。


共に祈りましょう。

大いなる主よ、救いの歴史を導かれるあなたの手の中で、今日も生かされていることの不思議を覚えます。今、受難節のとき、イエス・キリストの十字架の意味を深く悟らせてくださって、魂を整えてください。
2016. 03. 12  
昨日は、東京基督教大学の卒業式があり、勝田台教会で奉仕してくださったO姉や、U姉が卒業されました。

よき交流が与えられたことを改めて感謝しつつ、彼女たちの新しい出発に祝福を祈りたいと思います。

*****
今週は、ゲツセマネの祈りの場面から分かち合ってきました。

激しい祈りの格闘の末、イエス様は、父なる神の救いのご意志を確認され、それに従って十字架にかかる決意を固められます。

イエス様は、そのようにして父なる神に従順をつくされるのです。

ローマ5:12-21をぜひお読みください。アダムとキリストとが対比されて、一人の人アダムによって、すべての人が罪人とされように、一人のイエス・キリストの恵みによって、すべての人が救いに招かれるということが教えられています。

ローマ5:19「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」

エデンの園におけるアダムの不従順が、ゲツセマネの園におけるイエス様の従順によって、ひっくりかえされます。

私たちは神様に対して不従順なのに、イエス様が従順であってくださるから、私たちも「義=合格」とされるのです。

メイチェンという有名な神学者が、死を間際にしてこのように言いました。「私はキリストの積極的服従に感謝する。それゆえに、(私は)望み無き者ではない。」

キリストが父なる神への従順をつくしてくださったがゆえに、私はもう、死に際しても「望みなき者」ではありません。

そのような確信をもって、私たちもよく生き、よく死んでいくことができればと願います。


共に祈りましょう。

私に代わって、神への従順を全うしてくださった、主イエス・キリストに感謝します。背いてしまう私たちですが、キリストにならいて、神の思いにそって生きることができますように。
2016. 03. 11  
今日は3月11日、東日本大震災から5年が経ちました。

あの震災当時、私は熊本伝道所で奉仕をしておりまして、使徒言行録を連続講解していました。

そして、直後の日曜日に与えられたテキストが、使徒27章にある、暴風に襲われて船が難破してしまうという記事でした。私はその時に、深いおそれをもって解き明かしをさせていただいたことを、今思い返しています。

「幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みはまったく消えうせようとしていた。(使徒27:20)」

そういう絶望的な状況にありました。その中で、パウロだけが違う世界を生きていました。

「わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。 わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。(27:23-26)」


ここには、神の御言葉をあずかった人がいます。そして、それを愚直に信じている人がいます。

私たちには、天使があらわれるということはないかもしれません。しかしここでの天使は、嵐を止めてくれたわけではなく、御言葉をたずさえてきたメッセンジャーに過ぎません。

メッセンジャーなら、私たちにもいつも与えられています。頼もしい聖霊が与えられ、聖書が与えられています。

私たちが神の語りかけを本気で求めるなら、聖書の1ページごとに御使いを見出すことができるでしょう。

そこに示されている約束の御言葉・・、神の開かれる未来を、ただ愚直に信じる。パウロをはじめとした信仰の先人たちは、そのようにしてきました。

そのような信仰者が、苦難の中で「元気を出しなさい」と言って、周りの者を励ますことができました。このことの意味を改めて考えて、今日の一日を過ごしたいと思います。


共に祈りましょう。

主よ、今もなお被災の苦悩の中にある方々を覚えます。とりわけ、原発事故によって家を追われ、言い尽くせぬ思いを抱えながら生きておられる方々のことを思い、胸を痛めます。

主よ、そのような方々に、やすやすと「元気を出しなさい」などと言えないものです。そのような中で、あなたが生きておられることを信じる者として、私たちが今、どのように振る舞うことができるのか、教えてください。あなたからの励ましと慰めを、どうかすべての人々にお届けください。
2016. 03. 10  
ゲツセマネの祈りにおけるイエス様の御苦しみについては、はっきりと聖書が記していますから、みんな考えます。

しかし、その祈りを聞いておられた父なる神の苦悩について、考察している人はあまりいないようです。

私の乏しい知識の限りでは、そのような考察は聞いたことはありません。その理由としては、聖書がそのことについて沈黙しているからでしょう。(※ また、教理史的には、御子ではなく父なる神ご自身が十字架にかかられたのだとする「天父受苦説」という異端に近づくことへの警戒があるのでしょう)。

聖書が沈黙していることを大きく扱うのは、私のいつもの流儀ではありません。

しかし、今回の解き明かしに際しては、どうしてもその黙想から離れることができませんでした。

たとえば、あの創世記22章で、アブラハムが神の試みによって息子イサクをささげようとする時に、教会が考えてきたのは、アブラハムの苦悩です。

実は、そのことについても聖書は沈黙しています。でも、先人たちは、アブラハムの苦悩を考えずにはおれなかった。

最愛の息子をささげようとするということの、筆舌に尽くしがたい葛藤を思わずにはいられなかったのです。

あの時、結局アブラハムは、イサクをささげなくてすみました。あの時神は、「あなたはわたしのために息子さえ、あなたのひとり子さえ、惜しむことをしなかった。(創世記22:12)」とおっしゃって、アブラハムの信仰と従順を認めてくださいました。

しかし、私たちの罪の赦しのために、ひとり子さえ惜しむことをしなかったのは、本当は父なる神ご自身なのです。

そこにどれほどの葛藤と苦悩があったことでしょう。

「できることなら、この杯を遠ざけてください・・」と訴える、ひとり子の祈りを、胸がつぶれる思いで聞いておられたのではないでしょうか。

しかし、それでもなお、父なる神は、私たち罪人を救おうとするご意志を変えることなく、救いの計画を全うされました。

それが、神の示してくださった、契約に対する真実です。

Ⅰヨハネ4:10「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」とは、その深みにおいて理解すべきでしょう。


共に祈りましょう。

主イエス・キリストにおいて、私たちの父ともなってくださった父なる神よ。御子を与えてくださったあなたの愛を、ただ信頼いたします。私もまた、あなたへの信頼と従順に、誠実を尽くすことができますように。
2016. 03. 09  
十字架にかけられる前の夜、主イエスはゲツセマネの園で夜通し祈り、罪人を救うという決意を固めていかれました。

「死ぬばかりに悲しい」とおっしゃって、「一緒に起きていてくれ」と弟子たちにお願いさえしておられる・・、これはよっぽどのことです。

古代教会の時代、このような主の苦悶のお姿が、ギリシアの知識人たちからはあざけられたと言われます。

なぜなら、ソクラテスの立派な最期と比較されたからです。彼は論敵の陰謀によって死刑とされますが、死を恐れることなく殉ずる道を選び、毒杯をあおったと伝えられます。

それと比較して、このイエス様の狼狽ぶり・・。神の御子というには、あまりにもお粗末ではないかと考える人がいたのです。

私も、はじめのころそう思っていました。でも、すべての人の罪を背負って十字架で死ぬということは、そんなにスマートに成し遂げられるようなことではないのだと、今は思っています。

主イエスが飲み干してくださったのは、私たちの滅びのために用意された、主なる神の「憤り・怒りの杯(イザヤ51:17、エレミヤ25:15)」です。

私たちはむしろ、この主イエスのはげしい苦悶の姿に、私たち自身が本来味わわねばならなかった、神の怒りと呪いのすさまじさを思い起こさねばなりません。

主イエスは、それをすべて引き受けてくださったのです。

「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。(イザヤ53:11)」


共に祈りましょう。

血しおしたたる 主のみかしら、とげに刺されし 主のみかしら。悩みと恥に やつれし主の痛ましきさま だれのためぞ。

主の苦しみは わがためなり。われこそ罪に 死すべきなり。かかるわが身に 代わりましし主のあわれみは いととうとし。
2016. 03. 08  
マタイ26:34には、「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うだろう」と、ペトロの離反が予告されています。

「ご一緒に死なねばならなくなったとしても、あなたを知らないなどと決して申しません」と誓ったペトロです。

しかし「鶏が鳴く前に」、すなわち、たった今夜一晩という、わずかな時のあいだに心変わりしてしまうことになるのだよと、イエス様は見透かしておられます。

やがて、本当にそのようになってしまうということは、よく知られていることです。

このようなペトロの姿に自分を重ねてしまうという方は、たくさんいらっしゃいます。自分のもろさを、よく自覚しているからです。

でも、自分で自覚している以上に、私たちの闇は深く、誘惑にはもろいのです。

今朝与えられた熱心など、すぐに冷めていってします。特に、一緒に祈っていてくれる仲間がいなければ、なおさらそうです。

イエス様には、そんな私たちのすべてが見えています。でも、そんな私たちのために祈り続けていてくださるのもイエス様です。

ルカ福音書22:32も、ペトロの離反の予告ですが、マタイには記されていないイエス様のこんな言葉が記憶されています。

「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」


今、信仰が無くなってしまいそうな、不調を覚えている方もいらっしゃるかもしれません。でも主は、そのあなたのそばにおられます。思い出してください。あなたのために祈っていてくださる方がいます。私も、祈ってます。あなたも、祈ってください。


共に祈りましょう。

主よ、サタンの力は恐るべきです。その誘惑に響き合ってしまう、私たちの罪の闇はなんと深いことか・・。暗闇に迷い出てしまう、愚かな私たちを赦してください。主よ、あなたの愛で、私をまるごと覆ってください。
2016. 03. 05  
フィリップ・ヤンシーの「隠された恵み~〝福音″は良き知らせになっているか(いのちのことば社、2015年)」によれば、米国におけるキリスト教の好感度や信頼は下降の一途をたどっているようです。

その理由は、彼らが「福音」ではなく、罪意識を人々にもたらしているからだとヤンシーは言います。

彼らは、自分たちは救われているという立場から、優越心や裁く心で人に接する。人の話に真摯に耳を傾けず、一方的に話そうとする・・・などなど。

私にとっても、大変耳が痛い指摘です。

「福音」を本来の姿に回復することが必要です。そしてキリスト者自身が、その喜びを体現することが必要とされています。

それは決して自分の福音を押し付けることではありません。キリストもご自分の満足をお求めになりませんでした(ローマ15:13)。

むしろ、「おのおの善を行って隣人を喜ばせる」ことが勧められています(同15:2)。

その人の心の奥から再び生きる力が湧き出てくるような喜びを与えるために、私たちに何ができるかを、悩んで悩んで悩んで考えつづけていくことが、必要なのだと思うのです。

吉田先生はこう言われました。

「そのように私たちが人々に真摯に向き合い、その痛みや苦しみに心を寄せ、語る前にまず耳を傾け、その問題の重さや深さに返す言葉もなく、ただ祈ることしかできない自分の無力を嘆き、共に泣き、それでも共に生きて行こうとする時、その時、実は私ではなく、私の中にある神の愛が、その深い恵みが姿を表してくるのではないでしょうか。本当の意味で『キリスト』が立ち現われて来るのではないでしょうか。そうして初めて、固く閉ざされていた人々の心が、打算に満ちたこの世にはない『キリスト』というお方の愛に開かれて行くのではないでしょうか。」


共に祈りましょう。

主よ、もっと深く、福音の喜びを私に教えてください。この魂を、深く深く、ただキリストの愛で満たしてください。私がその愛を、現すことができるようになるほどに・・・。
2016. 03. 04  
吉田隆先生の講演録から分かち合っていますが、私が印象的だったのは「存在としての福音」という言葉です。

それは、イエス様がそこにいてくださるだけでうれしいという喜びです。

イエス様は敵対者たちから「あいつは大食漢で大酒飲みだ」と言われました(マタイ11:19)。なぜなら、徴税人や売春婦など「罪人」と呼ばれた人々と、しょっちょう食べて飲んでいたからです。

もしイエス様が、高潔な聖人としてふるまって、聖画などで描かれるような近づきがたい後光を放っていたなら、彼らは近づけなかったのではないでしょうか。

彼らの心をとらえてやまない、何とも言えない人間的な魅力がイエス様にはあったということは間違いありません。

そして主は、疲れてしまった者、重荷を抱える者たちといっしょに過ごしては、彼らの魂をいやされました。

どのようにしてか?もちろん説教のすばらしさはあったでしょう。でも、それだけではない。何より、そこにいてくださることがうれしい。楽しい。このことがあったのでしょう。

だから、あのザアカイの回心の物語で、ザアカイはもう大喜びでイエス様を招いて、次から次へとごちそうをふるまったのでした(ルカ19:1-10)。

「福音」というのは、そうではありませんか。喜びでない「福音」などナンセンスです。

イエス様がいらっしゃるだけでうれしいという、「存在としての福音」ということを、私たちはもっと考える必要があるでしょう。

火曜日にお伝えした「あんたら来ると元気になるべ。あんたらキリストさんしょってっからな。」というご婦人の言葉を思い出します。

わたしたちもまた、そういう「存在としての福音」を伝える器として用いられるなら、なんとありがたいことかと思います。


共に祈りましょう。

主よ、あなたのように魅力あふれる人格に、似せられていきたいと願います。柔和で謙遜な者として、わたしを整えてください。こんなわたしでも、共にいることを必要とされる方がいるならば、その方のもとに遣わしてください。
2016. 03. 03  
月曜日にもたれた第4回東日本大震災国際神学シンポジウムにおける、吉田隆先生の講演録から分かち合っています。

吉田先生はあの震災当時、仙台教会牧師として、命を削るような日々を送られました。そして、震災を通して先生が何度も思いめぐらしたのが、あの「善きサマリア人のたとえ」でした(ルカ10:25~37)。

以下、講演録そのままです。

「あのたとえ話は、サマリア人というユダヤ人が毛嫌いしておりました異端者が、瀕死の人(おそらくはユダヤ人)を助けるという衝撃的な教えです。

このお話を私自身が思い巡らす中で深く教えられましたのも、イエスの視点ということでした。主イエスの視点が、実は倒れている人の所にあることに気付かされたからです。

倒れている人にとっては、そこに祭司が通ろうがレビ人が通ろうが関係ない。肩書は関係ないのです。その人がどういう宗教であろうが、どういう社会的地位の人であろうが関係ない。

倒れている人にとっては、助けてくれる人が善い人だからです。

そして、まさにその倒れている人の視点から、イエスは見ておられる。いえ、イエスご自身が倒れておられるということ。そのことを改めて教えられました。

私たちの信ずる神というお方は、このような方です。天高くおられて、高い所、目立つ所しか目に入らないという方ではありません。

むしろ倒れている人の視点、お腹を空かせている人の視点、抑圧されている人の視点から、この世界を、そして私たちを見ておられる。そのことに気付かされました。」


共に祈りましょう。

主よ、今特に、病に苦しんでいる者のことを思っています。そのかたわらに寄り添って苦悩している家族のことを、思っています。主よ、そこにあなたが共にいてくださることを、感謝します。主よ、助けてください。そして私たちが、互いに助け合えるようにしてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
FC2ブログへようこそ!

検索フォーム
カテゴリ
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR