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2016. 03. 31  
私たちの希望の源は、主イエスの復活です。

主イエスを復活させた全能の神が、今日も私たちの味方であり、父であってくださいます。

Ⅱコリント4:8-10、14「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。・・・主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。」


キリスト者として生きる者は、「イエスの死を体にまとっている」がゆえに、人生に苦難がともないます。

「あなたがたには世で苦難がある」とイエス様は言われました(ヨハネ16:33)。

しかし、その後に続けて、こう言って励ましてくださいました。

「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

イエス様は、世の力に蹂躙されて、十字架で殺されたように見えました。しかし彼は、そういう「世の力」を打ち破り、究極の敵である「死」をも打ち破って復活されたのです。

わたしたちは、そのイエス様の命と結ばれています。今日も、しっかりと結ばれています。

そして私たちは、やがて終わりの時に栄光の体によみがえって、神の御前に出るのです。


共に祈りましょう。

愛する神よ。世の力が迫ってきても、死に勝たれた主イエスによりたのむ時に、安らかな喜びが、わたしの内に満ちあふれます。主よ、今日も主イエスの命によって、罪と世と死に勝利させてください。
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2016. 03. 30  
昨日は、名古屋におりましてお休みさせていただきました。

イースターから始まったこの一週間です。十字架で死なれた主イエスがよみがえられた・・・、ここにこそ、私たちの希望の根拠があります。

第二コリント1-8-11の御言葉を分かち合いましょう。

パウロが「生きる望みさえ失ってしまった」ほど苦しんだように、今、さまざまな困難の中にある方々のことを覚えています。

でも、「死者を復活させてくださる神」は、全能のお方です。

この方が私たちの味方です。愛する者のために、必ず悪いようにはなさいません。


「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。

神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。」


共に祈りましょう。

死者を復活させてくださる、大いなる主よ、命の創造者よ。今日もわたしの体と魂を、この存在のすべてを、あなたの御手にゆだねます。わたしが案ずる愛する者たちをも、あらゆる危険からお救いください。
2016. 03. 26  
「苦難の僕の歌」も今日で最後です。受難週も今日で終わりです。

イザヤ53:12「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。

彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。」


「自らをなげうつ」、この動詞は「かめの水をすっからかんにする」という時にも使われています。

そのようにイエス様も、自分の命をすっからかんにするまでに使い切ってしまわれたということです。

それほどに、私たちのために身をささげてくださいました。

私というこの罪深い者が、神の前で「正しい者」とされるために、それほどのイエス様の献身が必要でした。


「キリストの犠牲愛は、新たに献身の物語を作り出す、不思議な力を秘めている」と言った人がいました。

まさにそのように、この「苦難の僕の歌」は私たちを駆り立てて、献身を促さずにはおかない不思議な力を持っていると思います。

明日のイースターというのは、神と隣人とに誠実に仕える「僕」として、私たちが新たに生れる日でもあるかもしれません。


共に祈りましょう。

主よ、私たちのために命を使い果たしてくださったあなたの愛に、ただ感謝をいたします。それほどにしていただいた私という存在の重さを、わたし自身が大切にすることができますように。そして主よ、どうかこの私を、あなたの御用のために用いてください。
2016. 03. 25  
教会の暦では、今日は聖金曜日。キリストが十字架におかかりになられた日です。

すでに500年前に十字架のイエス様を指し示していた、イザヤ書53章の「苦難の僕の歌」。今日は11節です。

「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。」


ここは実は難解なところで、新共同訳とはニュアンスの違う翻訳もあります。

口語訳では「彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する」とあります。

いずれにしろ、「彼」は、自分の存在をかけた十字架の労苦が、骨折り損ではなかったことを知って満足する、ということが言われています。

一人の人が救いに入れられる時に、天には大きな喜びがあるとイエス様は教えてくださいました。

一匹の迷える羊を探し出して、大喜びして抱きかかえて帰ってくる羊飼いのたとえもありました。

私たちが、神の前で「正しい者」とされて、永遠の「光」の中に入れられることを、一番喜んで、満足していてくださるのはイエス様です。

十字架の上で憔悴しきったお顔で、救われた私たちを見て喜んでいてくださる主イエスを想像しましたら、どうにも胸が熱くなりました。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの苦しみによって、永遠の光の中へと連れ戻していただいた私です。赦された者として、私も赦しに生きることができますように。愛された者として、私も愛に生きることができますように。主イエスに深く喜んでいただくことができますように。
2016. 03. 24  
キリストの十字架の御苦しみを覚える受難週に、イザヤ書53章の「苦難の僕の歌」を分かち合っています。

53:10「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。」


ヨハネ福音書においては、十字架の主イエスは、「成し遂げられた」と言い残して絶命されます。

主の死によって成し遂げられたのは、わたしたちのために用意された、父なる神の深遠な救いのご計画でした。

お手元に聖書のある方は、エフェソ1:3-14をご覧になってください。

天地創造の前より定められていたという、神の壮大な救いのドラマに思いを馳せましょう。

「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。・・・わたしたちは、この御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。・・・」


共に祈りましょう。

永遠の主よ、あなたのスケールをとらえる言葉を、私は知りません。その大いなるあなたの目に、今日の私のこの小さな存在が、いとおしい者としてとらえられているとは、なんとうれしいことでしょう。

私たちのための救いの計画を成し遂げるために、十字架にかかってくださった主への感謝によって、今日の一日が励まされますように。
2016. 03. 23  
イザヤ書53章の「苦難の僕の歌」を分かち合っています。

53:8-9「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。

彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた。」

ペトロの手紙Ⅰの2:22からには、この預言が引用されています。

「『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義に生きるようになるためです。」


そして、ペトロの手紙においては、このようなキリストの忍耐の姿が、私たちの「模範」であって、その「足跡に続く」ようにと励まされています。

「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心にかなうことです。(Ⅰペトロ2:20)」

キリスト者として、「義に生きる」ことを本気で求め始めれば、この世にあってつらいことも多いでしょうが、その歩みを通して、キリストをいよいよ近く覚えさせられ、霊の喜びが満たされることでしょう。


共に祈りましょう。

主よ、主イエスに従って愛と義に生きようと願うすべての者たちに、今日も憐れみと励ましを豊かにお与えください。この世の罪深さにやりきれない思いを抱える時にも、粘り強く、十字架の主を想い起しつつ、善を行うことができますように。
2016. 03. 22  
イザヤ書53章の「苦難の僕の歌」を分かち合っています。神ご自身が、十字架の意味を教えてくれている言葉です。

53:7「苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。」


苦難の僕であるイエス・キリストは、ユダヤの指導者たちによる裁判で、不当な裁きを受けて死刑とされます。しかし、それを黙って受け入れられました。

「イエスは黙り続けておられた(マタイ26:63)」と書いてあります。

総督ピラトの下での裁判でも、どんな不利な証言にも黙っておられるので、「総督は非常に不思議に思った(マタイ27:14)」とあります。

その後も、人々に愚弄されても、なぶられても、口を開かず、黙って十字架へ向かう「小羊」イエスの沈黙を、福音書は記します。

私は、このような主イエスの沈黙を考える時に、いつも思い出す御言葉があります。

エゼキエル書16:63です。「こうしてお前がおこなったすべてのことについて、わたしがお前を赦すとき、お前は自分のしたことを恥じ、自分の不名誉のゆえに、二度と口を開くことはできなくなる」

今は、黙り続けるイエス様の前に、罪人は言いたい放題です。

でも、苦難の僕イエスは、その罪人たちの愚かさをすべて背負って、それが赦されるようにと、十字架で死んでくださいます。

その十字架の真実を悟るときには、もはや誰一人として、「二度と口を開けなく」なります。

自分の愚かさを恥じるがゆえに。そして、その自分を覆いつくす、圧倒的な十字架の愛に打ちのめされて、もう何も言えなくなるのです。


共に祈りましょう。

主よ、十字架の御苦しみを覚えるこの受難週。どうか私たち一人一人が、その十字架の真実をもっと深く悟ることができますように。そして、私たちの人格に変化が与えられますように。
2016. 03. 19  
イザヤ書53章の「苦難の僕の歌」を分かち合って、キリストの十字架の御苦しみを想い起しています。

6節「わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。」

「主は、彼に負わせられた」と、主なる神という主語が強調されています。

それを望まれたのは主なのだ、と強調しているのです。

私たちは羊の群れだったとあります。羊飼いの言うことを聞かずに道を誤り、それぞれの方角に向かっていた羊たち。

それは、神に背き、自分を神として、自分の欲望のおもむくままに生きる、神なき人々の姿です。

でもそういう人々のすべての罪悪を、主は、「彼」に負わせようとされたのです。

「彼」以外のすべての者を、救いへと招くために、すべての罪悪を、神はこの僕に負わせられたのです。

そういう神の御心にしたがって、「苦難の僕」イエスは、十字架への道を歩むのです。


共に祈りましょう。

主よ、私は、自分が道を誤っていることさえ知らなかった者でした。今もなお迷い続ける者でありますが、主の十字架の愛に導かれ、正しい道を歩むことができますように。どうか、自分の思いではなく、あなたの思いに従えますように。
2016. 03. 18  
イザヤ53章の「苦難の僕の歌」を分かち合って、十字架の主イエスの御苦しみを思い起こしています。

53:4,5「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。

彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」


人々から軽蔑され、苦しみを負われる「苦難の僕」であるイエス様。

そのようなイエス様の姿を見た人々は、それは彼の罪にふさわしい報いであり、神の裁きだと思いました。

メシアと自称して神を冒涜した、この男は裁かれるにふさわしい。「神の手にかかり、打たれているのだ」・・・と。

しかしその苦しみが、まさか「わたしたち」の身代わりであるのだなどとは、誰にも考えおよばないことでした。

「わたしたち」の代わりに、「わたしたち」のために、「彼」が打たれ、刺し貫かれ、傷を受けるのです。

その「彼」の滅びを通して、「わたしたち」は滅びを免れるのです。


以前に、十字架で苦しむイエス様のことを「おかわいそうだ」と言っておられた未信者の方がいらっしゃいました。

でも、残念ながらそれは筋違いの同情なのです。

「かわいそう」という言葉をあえて使うとするなら、むしろイエス様のほうが、「わたしたち」のことを「かわいそう」と思ってくださって、身代わりになってくださったのでした。

あの主イエスのみじめさは、「わたしたち」の本当の姿なのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたが十字架において示してくださった、限りない憐れみを感謝します。そのあなたの憐れみを、また憐れまれる自分自身を受け入れることができない、人間のかたくなさもあります。どうか主よ、そのような私たちをも、なお深く憐れんでくださって、その病を担ってください。その苦しみを担ってください。
2016. 03. 17  
イザヤ53章の「苦難の僕の歌」を分かち合っています。

53:4「「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。」

この預言の特に前半部分が、マタイ8:17で取り上げられています。

ペトロのしゅうとめを始め、たくさんの病人をいやしていかれるイエス様の様子を描いた後に、「それは預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った』」と記します。

今、この古の預言の言葉は確かに成就している・・・。

きっとマタイは、この時のイエス様のお姿に、自分のことなどかえりみないで神の御用のためにひたすら仕える、忠実な「苦難の僕」の姿を見て取ったのだと思います。

おそらくこの時は、夕方から人が集まって来たと書いてありますから、夜通しで癒しの業に明け暮れておられたことでしょう。

苦しんでいる者たちを前にして放っておくことができないで、まさにその身に病を引き受けるようにして、疲労困憊のイエス様。

その姿は、やがて十字架の上で苦しみを受けて、私たちの救いのために命を使い果たしてくださった、イエス様のお姿に通じていくのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの献身と奉仕によって、この罪に病んだ存在が担われ、魂がいやされたことを感謝します。今、病んでいる方々が、あなたに担われ、いやされて、平安を得ることができますように。私たちもまた、あなたへの、また隣人への献身と奉仕に生きることができますように。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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