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2016. 04. 08  
この「日々の御言葉」は、牧師の奉仕として始めたものでもありますが、自分自身のためでもあります。

日々の筆力の修練であり、なによりも、神様と向き合う恵みです。

御言葉に耳をかたむけ、祈る。その日々の恵みを、自分自身がいただいて、それをおすそ分けしているものです。

そういう意味で、時に極めて個人的な黙想になってしまって、申し訳なく思ってもいます。

今朝は私は、テモテへの手紙第一を読んでいました。もう何度も読んでいますが、読みたくなったので読みました。

昔は、厳しい手紙だなあと思い、敬遠していました。でも今は、深い慰めを覚えます。皆さんには、どうなのでしょうか?

今朝は、こんな言葉にひきつけられました。

「6:11-12 しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。」

特に、「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」という言葉に、なぜだか魂の平安を覚えました。

追い求めていこうと、思いました。ひたすら主を信じて、愛すべき者を愛していくのだ、と。

忍耐・・・、それは神に希望をかけ、待ち続ける力です。

柔和・・・、イエス様のように、やさしい人になりたいのです。やさしく、しかし、決して負けない強さを持つ人になりたいのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日も御言葉を与えてくださってありがとうございます。今日もそれぞれに与えられる信仰の戦いを、立派に戦いぬくことができますように。どうか主よ、あなたが共にいてくださって、あらゆる困難に打ち勝たせてください。
 
2016. 04. 07  
昨日は、どんな大きな罪であっても、真に悔い改めるならば、神に赦されるという、罪の赦しの原理を確認しました。

イエス・キリストにおいて示された、神の愛の高さ、広さ、深さ、大きさは計り知れません。その愛と恵みによって、どんな罪人も赦され、再生へと導かれます。

だから、その愛と恵みを信じる者もまた、罪人を赦し、再生のために力を貸す・・・そんな風にできるならば、いいだろうなあと思います。

でも現実を顧みれば、そこが本当に難しいことです。悩ましいことです。

私たちは、罪人の抱える計り知れない闇の深さも、思い知らされながら人生を送ります。

人は、そんなに簡単に変わりません。過ちを犯し続けて、悔い改めのできない人もいます。悔い改めたふりをするのが得意な人もいます。

人間なんて、誰一人信用できません。・・・自分自身を含めて。

それが聖書の示す真理であり、41年生きてきた私の実感でもあります。


でも、私たちは、信仰者です。信仰者ということは、神の全能を「信じる」者たちです。

赦しと再生をもたらしてくださる、神の愛と恵みの力を「信じる」ことからスタートしないのなら、私たちは信仰者とは名乗れないのかもしれません。

「信じる」ことができるということが、希望です。だから、信じて祈ります。


長いですが、エフェソ3:14-21の言葉をもって、共に祈りましょう。

「あなたがた」のところに、誰かの名を、あるいは自分自身の名を、入れてもよいと思います。

「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。
どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。
また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」




2016. 04. 06  
昨日はお休みをしてご心配かけました。お祈りに感謝します。

先の日曜日の説教において、ウエストミンスター信仰告白15:4に記された、私たちにとって大切な原理的確信を分かち合いました。

「永久刑罰に価しないほどに小さな罪がないように、真に悔い改めている者にも永久刑罰をきたらせることができるほど大きな罪はない。」


どんな「小さな罪」でも、神の前で見逃されることはなく、永久刑罰に価します。

心の中で「バカ」と思うことすら、地獄の滅びに通じると、イエス様は教えてくださいました。

ですから、どんな「小さな罪」でも、神の前には取り返しのつかないものです。

でも、その取り返しのつかない罪を、取り返させてくださるのが、主イエスの救いです。

「悔い改める」、すなわち、十字架の主のもとに来る者には、赦しと再生が与えられます。

そしてそれは、どんなに「大きな罪」を犯した者でも同じなのです。

罪の小さい大きいは、私たちの基準によるものであって、神の目には本質的な意味を持ちません。

どの罪も、永久刑罰に価します。でも、どの罪も、十字架の主のもとに来るなら赦されます。

ですから、真に悔い改めている者にも永久刑罰をきたらせることができるほどの大きな罪は、存在しないのです。


この信仰告白の証拠聖句として、イザヤ55:7が指示されています。

「神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」


共に祈りましょう。

主よ、あなたの目に、数えきれない罪を犯す者ですが、今日も赦されているということの意味を考えています。主よ、今日の日、あなたの御心にしたがって生きることができますように。
2016. 04. 02  
今週は、復活の希望を覚えての一週間でした。イエス様の復活は、「わたしたちの祝福に満ちたよみがえりの確かな保証」でもあります(ハイデルベルク問45)。

「よみがえる」とは、ただ生き返るということではありません。

聖書の中で、奇跡によって生き返った者はいますが、彼らは結局また死ぬことになります。罪に汚染された肉体の弱さ、悲しさ、苦悩はそのままです。

「よみがえる」とは、もはや罪からまったく解放された、栄光の肉体へと変えられることです。

それは、あの復活されたイエス様の持っておられた、質的にまったく新しい肉体と同じです。(Ⅰコリント15:44では「霊の体」とも言われています)


「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。(フィリピ3:20-21)」

「天の国=神の国」が完成する終わりの時、主イエスは再臨され、わたしたちを栄光の体に変えてくださり、天の住人として迎え入れてくださいます。

ここに、私たちの究極の希望があります。



共に祈りましょう。

主よ、私たちに与えられた、この希望に感謝します。そして、今願います。病と痛みに苦しむ人々を憐れんでください。死を見つめて苦悩する人々を憐れんでください。願わくは、迷い背く魂を、復活の希望の光差すところへ招き導いてください。
2016. 04. 01  
今、神と共に生きる新しい始まりに備えている方々がいることを覚えて、お祈りいただきたいと思います。

イエス様の復活を覚える今週、改めて分かち合いたいのがローマ書6:1-11の御言葉です。

「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。(ローマ6:4)」

「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。(6:9)」

「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。(6:11)」


ここで、「死ぬ」と言われているのは、邪悪に染まった古い罪人のわたしが死ぬ。死なせていただく、ということです。

そして「生きる」と言われているのは、新しい人として生きる。再生される。よみがえらせていただく、ということです。

神様は、わたしたちに信仰と悔い改めを与えてくださり、「古い人の死滅」と「新しい人の復活」を与えてくださいます(ハイデルベルク問88)。

洗礼には、そういう救いが象徴されているのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日もわたしに信仰と悔い改めを新たにさせてください。古いわたしに死に、神を愛し、人を愛する新しいわたしとして生きることができますように。キリストの復活の命に満たされて、いつも喜んでいることができますように。



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勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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