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2016. 04. 29  
今日は、東関東中会の中会会議が開催されます。お祈りください。

また、明日の配信はお休みさせていただきます。

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みんな自分のことで忙しい、自分が一番大事なものなのだ・・・そんな愛の貧しさが、罪人の現実であると私たちは知っています。

「情けは人のためならず」なんて言いまして、「人のため」じゃなくて結局「自分のため=メリット」になるのだから、喜んで親切にしなさいと言われます。

こういう風にして親切が勧められるのは、それはそれでいいことですが、どこかさみしいですね。

結局わたしたちは、自分のためにしか生きられないものなのでしょうか。

でも、そうであるからこそ、自分自身を打ち捨ててでも、他者のために生きる、そんな「愛の人」を見たいと、誰もが願っているのではないか。

そういう愛で愛されたいと、願っているのではないかと、昨日お話ししました。

そしてまた、このようにも願っているのではないでしょうか。

そういう愛をもって愛することができればいいのに・・。自分のメリットのないところで、ただ誰かのために仕える、そんな愛に生きてみたい。

そんな思いを、私たちは誰もが持っているのではないでしょうか。


イエスの十字架の愛を、もっと深く見つめましょう。その愛を、真に知ることがない限り、私たちの内に愛の心が生まれるはずもありません。

「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。(Ⅱコリント8:9)」


共に祈りましょう。

我がために、十字架の極みにまで貧しくなりたもうた主よ。あなたの愛を満たしてくださって、私の愛を豊かにしてください。私の人間を豊かにしてください。神の意志に、深く広く、一致していくことができますように。
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2016. 04. 28  
十字架の上のイエス様に、「他人は救ったのに、自分は救えない(マタイ27:42)」と、敵対者たちはののしりました。

でも本当は、「他人は救ったのに、自分は救わない」と言うべきなのです。

イエス様は、御自身の喜びのためには、力を用いられません。彼がなさった奇跡は、すべて他人を助けるためのものでした。

「自分自身を愛するように、隣人を愛しなさい」、これが最も重要な掟です(マタイ22:39)。イエス様は、この掟に示された以上の愛を体現して、私たちに見せてくださいました。

私たちには、それができません。それが、罪ということです。

中島みゆきさんの「with」という歌の中に、こんなフレーズがありますね。「時の流れは、ぼくに教えた。みんな、自分のことで忙しいと・・・。」

私たちは、みんな自分のことで忙しいと、よく知っています。なんだかんだで、みんな自分がかわいいのだと。

そういう人間の本性をよく知っている。そしてあきらめている。開き直ってもいる・・・。

でも、本当はどうでしょう。そんな風に、だれかに本当に愛されたいと願っているのではないでしょうか。

先ほどの「with」という歌も、そういう歌です。みんな自分のことで忙しい、ぼくのことなどだれも本当は大事に思ってなどいない、・・・だからこそ、君だけはぼくのそばにいてくれないか・・。

そういう願いを誰もが持っているのだと思います。だから、十字架のイエス・キリストのお姿に、心を引きつけられるのです。

そこには、他人は救ったのに、自分を救おうとされなかった方が、血を流されています。


共に祈りましょう。

主よ、あなたは、あなただけは、今日も私と共にいてくださるから、私は安心します。すべての孤独を、あなたがいやしてください。十字架の愛で私たちの心を満たしてください。
2016. 04. 27  
日曜日の礼拝ではマタイ福音書をずっと読んできましたが、今はついに十字架の場面です。

十字架から復活へ・・ここに福音書のクライマックスがあります。礼拝から離れておられる方々も、ぜひお集まりください。お聞き逃しなく。

先の日曜日には、十字架から決して降りようとされなかったイエス様のお姿を見ました。

人々は「十字架から降りられない者など信じられるか」とののしります。でもイエス様は降りられないのではなく、降りないのです。

もしイエス様が、十字架から降りてしまわれたらどうなったのでしょう?

こういう黙想を深めて、イタリアの修道士が小説を書きました。そしてマーティン・スコセッシ監督により「最後の誘惑」という映画になりました。

カトリックでは上映禁止とされるほどのスキャンダラスな映画でしたが、私自身は、まだ洗礼を受けるずいぶん前に鑑賞し、イエス・キリストという方への思いを高められた映画でした。

今考えると、聖書の教えと異なる危ういところのたくさんある映画でしたが・・。

その映画の中では、イエス様は十字架を降りてしまわれます。

十字架の上のイエス様に、サタンは天使の姿で近づき、「もうあなたは十分苦しんだ。残りの生涯は自分のために過ごしなさい」と誘惑します。

十字架から降りたイエス様は、マルタとマリアを妻とし、数人の子が生まれ、幸せな日々の後に死を迎えようとされます。

でも、時はユダヤ戦争の始まり。エルサレムに火が放たれ、絶望が訪れようとしていました。

そんな中で、安らかに息を引き取ろうとするイエス様のところに、イスカリオテのユダが飛び込んできます。そして「おれはお前が十字架にかかる手伝いをするために裏切り者となったのだ。お前が十字架から降りてしまったら、一体、イスラエルの救いはどこにあるのか!!」と訴えます。

その叫びによって、イエス様は我に返ると、そこは十字架の上でした。

そうしてイエス様は、サタンによる最後の誘惑に勝たれて、「成し遂げられた(ヨハネ19:30)」と叫ぶのでした。

これは映画のフィクションに過ぎません。でも、十字架から降りようとされなかったイエス様の決意を、深く思い巡らすきっかけになればと思います。


共に祈りましょう。

我が救いのために十字架の苦しみを受けきってくださった主イエスよ、あなたの愛に満たしてください。私もまた、誘惑に打ち勝つ者となるために。神の御旨に生きる者となるために。
2016. 04. 26  
おはようございます。昨晩おそくに、陸前高田から無事に戻ってきました。皆さんの祈りを感謝します。

早朝から仙台を出発し、仮設住宅の訪問を中心に、盛りだくさんの一日でした。

チーム陸前高田の皆さんは、「キリストさん」と呼ばれて、地域の皆さんと親密な信頼関係を築いておられました。

今回の訪問は、実に71回目だそうです。行く先々で、訪問を待ち望まれ、あついおもてなしをいただきました。

誰とも口をきくことなく一日を過ごしておられるという方が、涙を流して喜んでおられました。

主が働いておられると、実感しました。

主は、すべてを失ったこの方々を、深く憐れみ、愛する子として取り扱っておられると確信しました。


日曜日の礼拝で、最後に賛美した「御民に仕えます」の歌詞が、響いていました。 


「主なるわたしは 苦しむ民に 涙を流し 寄り添う。
 誰を遣わし 愛する民に 我が慰めを 届けよう。
 わたしを遣わし 、御業をなしてください。
 心を尽くして、御民に仕えます。」

(※ この賛美歌は、おそらくイザヤ6:8、40:1などがベースだと思います)


私たちの周りにも、「苦しむ民」「主が愛しておられる民」がいることでしょう。


共に祈りましょう。

主よ、今日も苦しむ者を助けてください。熊本の被災された方々を憐れんでください。なにより私たち自身を、あなたの慰めによって深くいやしてください。
2016. 04. 19  
皆様、おはようございます。

今週は、明日から熊本に訪問して、熊本伝道所の方々を問安することになりました。

今日もそのやりとりで朝からバタバタしていて、配信の準備が整わずすみません。

私にとって大切な方々ですので、このような時に、主にある慰めを分かち合えればと願っています。

お祈りによって、奉仕を支えていただければありがたいです。

日曜日に与えられた、詩編22篇の祈りに心を合わせましょう。

「わたしを母の胎から取り出し
 その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。
 母がわたしをみごもったときから、わたしはあなたにすがってきました。
 母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。

 ・・・主は貧しい人の苦しみを、決して侮らず、さげすまれません。
 御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。

 ・・・貧しい人は食べて満ち足り、主を尋ね求める人は主を賛美します。
 いつまでも健やかな命が与えられますように。(詩編22:10,25,27節)」
2016. 04. 16  
熊本での余震が続いています。深夜3時前後にも大きな揺れがありましたが、確認できたかぎりでは皆さん無事のようでした。

昨日、熊本伝道所の西堀牧師からの安否を知らせる発信の中に、このような言葉もありました。

「『力を捨てよ知れ、、わたしは神、国々にあがめられ、この地であがめられる。』(詩篇46:11)

 次の礼拝説教を準備しているときに地震が来ました。

 個所はマルコ13章の最初の2つのペリコーペです。神の業を感じます。」


マルコ13章といえば、終末のしるしについてイエス様がお語りになったところです。

「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。(マルコ13:7-8)」

これらは産みの苦しみのはじまりであるという言葉に、希望を見いだしたいのです。

終わりの時の救いの完成を待ち望む私たちには、なおもこの地上世界での罪との戦いと、悲惨の経験が続きます。

たくさんの悲しみを味わわねばなりません。しかし、それは産みの苦しみです。

その苦しみの向こうに、希望の誕生が約束された苦しみです。


共に祈りましょう。

主よ、眠られぬ夜を過ごした者たちに、深い憐れみを注いでくださり、どうかその心身を支え励ましてください。主よどうか、打ちひしがれている者を、希望の光で照らしてください。
2016. 04. 15  
昨晩、大変大きな地震が熊本でありました。熊本伝道所の牧師であった私としては、胸がしめつけられる思いでニュースを見ておりました。

伝道所の関係の方々は、8割がた連絡がとれ、みんな無事のようです。教会も倒壊することなく、牧師ご家族も無事で、体育館に避難されているようです。

被害の大きい益城町のあたりは、広大な農地の広がっているところで、民家は多くありませんが、それでも死者9人、負傷者多数とのニュースがあります。本当につらいことです。


このような朝には、地上世界のはかなさ、人間の小ささ、そして罪の悲惨を思わずにはいられません。

イザヤ40:6からの御言葉を思い出していました。

「呼びかけよ、と声は言う。
 わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。 
 肉なる者は皆、草に等しい。
 永らえても、すべては野の花のようなもの。

 草は枯れ、花はしぼむ。
 主の風が吹きつけたのだ。
 この民は草に等しい・・・。」

何と呼びかけたらよいのか・・・、まさにそう思います。

自然の脅威を前にして、自分たちの存在が、まことに不確かなものに過ぎなかったことを、改めて思い知らされました。その中で、人間が人間に、何と呼びかけたらよいのか・・・。

しかし、人間が言葉を失ったところに、神の言葉だけが残ります。

イザヤ書の預言は、このように締めくくられます。

「草は枯れ、花はしぼむが、
 わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」


永遠に揺らぐことのない聖書の言葉が教えてくれる、神の愛と真実に、わたしは信頼します。


共に祈りましょう。

主よ、地が震えました。何度も揺さぶられ、眠られぬ夜を過ごした方々に、深い憐れみと守りがありますように。大きな被害を受けた方々の悲しみを丁寧に拾ってください。また主よ、わたしのなすべきことを示してください。
2016. 04. 14  
昨日は、インターネットの不調で配信できず、すみませんでした。

今朝は、まったく単純に、「神様が共にいてくださるから大丈夫」と確認して、一日を始めましょう。

それは、昨日の朝の祈祷会で、与えられた確信です。祈祷会では、創世記のヨセフ物語を読み進めています。昨日は39章でした。

兄たちの謀略によって、奴隷としてエジプトに連れてこられてしまったヨセフです。

でも、「主がヨセフと共におられたので」、その試練の人生にあってもたくさんの祝福があり、行く先々で重んじられたと強調されます。


また私たちが覚えるべきは、神様がヨセフと共におられたように、ヨセフもまた神様と共に歩んだということです。

人生の困難の中にも意味を見出し、決して投げ出すことなく、神様が与えてくださる一日一日を全力で歩みました。

主人の妻の誘惑にも少しも揺らぐことなく、「神の前で許されていない」と拒みます。

その結果として婦人の怒りを買って、またも苦難にさらされることになりますが、一言も弁明することなく、投獄に甘んじます。まるで、十字架に向かうイエス様のようです・・・。

ヨセフがそのように正しい人だから、神様は彼と共におられたということではありません。

神様が彼と共におられたから、彼もまた、堂々と歩むことができたのです。

主なる神様は、私たちとも共にいてくださいます。


共に祈りましょう。

主よ、今日もあなたが共にいてくださるから、死の陰の谷を行く時も、私は恐れません。今日も試練を覚えておられるお一人一人を、助け導いてください。私たちに今日用意される働きが、出会いが、語らいが、あなたの祝福の中で、すばらしいものとなりますように。
2016. 04. 12  
先の日曜日の礼拝での、子どもと親のカテキズムとその解説(子どもへのメッセージ)を、もう一度教えてほしいとのリクエストがありましたのでお伝えします。

問40「わたしたちは死んだあと、どうなりますか。」

答え「死んで終わりではありません。死んだあと、わたしたちの魂は完全にきよめられ、天におられるイエスさまのもとに引き上げられます。体はイエスさまに結び合わされたまま、墓の中で休みます。」

わたしたちの人生は、いつも共にいてくださるイエス様と歩む道です。それは死んだら終わりではなくて、死んだあとは、いよいよ強くイエス様と結ばれます。

だから、死んだあとも、なにも心配しなくていいのです。

一か所聖書を読みましょう。フィリピ1:21-24.新改訳のほうが分かりやすいでしょう。

「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。
私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。」


これを語ったパウロは、死ぬことを全然恐れていません。むしろ世をさって、イエス様ともっとひとつにむすばれて過ごしたい。そのほうがずっといいと考えています。

でも、だからといってパウロは、もう死んでしまおうとはしませんでした。

パウロの生涯は、試練ばかりのとっても苦しい日々だったけど、死んでしまおうとは思わなかったし、死んでもいいとは決して教えませんでした。

わたしたちにとって、生きることも死ぬことも全部神様が与えてくださる恵みです。

自分で好き勝手に選べることではないのです。

だから、神様が命を与えてくださるかぎり、一生懸命生きるのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日も朝が来ました。私の人生の終わりが、いつ与えられるのか・・。あなたの恵みの導きにすべてをおゆだねします。そして、今日、与えられた命の意味を覚えながら、私だけに用意された私の一日を生きていきます。主よ、この歩みを支えてください。
2016. 04. 09  
昨日は朝から夜遅くまで、実にたくさんの方と話し、共に学び、またメールをすることがゆるされました。

その中で、自分自身の存在の小ささ、ダメさ、貧弱さを嘆き悲しむ声も、いくつか耳にしました。

そのような方々を覚えて、ずっと祈っている中で、あるエピソードを思い出しました(いつだか、説教の中でも分かち合ったと思います)。

熊本で牧師をしていた時のことです。重度の身体障碍を抱え、がんばって生きてこられたご婦人がいました。今はお年を召され、もう寝たきりの日々です。

その方が本当におつらい顔で涙を流しながらこうおっしゃいました。「どうして私のようなものが生かされてるのでしょうねえ・・。」

それは、あの3.11の東日本大震災の後のことでした。

どうして私のようなものが生かされて、未来ある者たちの命が奪われたのか・・?

そう問いかけられて、私は言葉を失いました。しばらく、黙って考えていました。それから申し上げました。

それは神様を馬鹿にする言葉です。自分を見下すことは、神を見下すことです。

そのように言って私は、彼女を叱りました。精一杯の愛を込めて、ご婦人を叱ったのです。ご婦人は、分かりました、分かりましたと涙を流されました。


聖書には、「わたしの目にあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」との神様の言葉が、はっきり書いてあるのです(イザヤ43:4)。

神様が「高価で尊い」と言っておられる者のことを、私たちも、大切にしたいのです。


共に祈りましょう。

主よ、この貧しい私のために、もったいない言葉です・・。あまりにももったいない、キリストの命がささげられました・・。

主よ、感謝します。主よ、今日あなたが私に与えてくださる、この命を、精一杯生きさせてください。あなたに用意された、わたしだけの仕方で、わたしなりのペースで、一生懸命、信仰の歩みをしていきます。主よ、見守っていてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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