FC2ブログ
2016. 06. 30  
昨晩、信仰の友と分かち合った御言葉は、Ⅱコリント12:7からです。

ここでパウロは、自分の身にトゲが与えられたと言っています。それがなんだか、詳しくは分かりませんが、それは彼の「弱さ」となりました。

彼は、それが嫌で嫌で、離れ去らせてくださいと必死で祈りますが、神はそれをかなえてくださいません。

むしろ、このように示されたというのです。

「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」


弱さを抱えるダメな自分、きらいな自分が、強くなって、なりたい自分に変わる・・・私たちはそう願います。願って当然です。

そのように願うことは何も間違いではない。願っていいと思います。その願いがかなえられる時もあります。

でも、今日の御言葉から示される大事なことは、そのように私が願ったとおりに変えられることだけが、神の恵みではないということです。

弱さを抱えるダメな自分、きらいな自分・・・でも、そのあなたが、すでに神の目に100%すばらしいのです。完全なる恵みの器なのです。

そのあなたでなければ、できないことがあるのです。

そのあなたの弱さを通して、神が、特別な強さをあらわされるのです。

聖霊において、あなたの中に生きておられるイエス・キリストが、今日もあなたを用いて御業をなされます。

大丈夫。十字架の主を信じましょう。その偉大な力は、あなたの弱さの中でこそ、十分に発揮されるのです。


共に祈りましょう。

主よ、わたしは弱いときにこそ強い・・この信仰を与えて下さるあなたに感謝します。今日、不安を覚えている者に、人間を恐れている者に、どうか十字架の主の愛と恵みと力がそそがれますように。





スポンサーサイト



2016. 06. 29  
昨日に続いて、ルカ24章の「エマオ途上」のくだりを考えましょう。

イエス様の復活が信じられないで、エルサレムから離れていく二人の弟子。そんな彼らに、よみがえられた主イエスが近づかれるのですが、彼らはそのことにさっぱり気づかない。

それは、彼らの目がさえぎられていたからでした。「さえぎられる」これは原語では、小さなこだわりに固執しているという意味も持つ語です。

十字架による罪の赦し、そして復活・・そんなマンガみたいなことがあるわけない。

私自身もそのように、小さく貧困な「私」という枠の中で、イエス・キリストの救いを手軽に扱って、笑ってみようとしました。

でも、古より伝えられてきた救いの物語のスケールは、ちっぽけな「私」を超えてはるかに大きいのです。

神様のご計画は、「私」が考えているよりも、ずっとずっと大きかったのです。

私は、そんな風にして打ちのめされ、「私」を砕かれました。それは幸せなことでした。自由になったからです。


「エマオ途上」の物語においても、二人の弟子は、イエス様からそのことに気付かされます。

「そこでイエスは言われた。ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。(ルカ24:25-26)」

このようにしてイエス様は、彼らの「心の鈍さ」を鋭く指摘します。イエス様は、こういうところは容赦ありません。ダメなものはダメです。

そして、その後、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」とあります(27節)。

聖書を、丁寧に教えてくださったのです。そして、聖餐をくださいました。その時、彼らの目が開かれたのです(31節)。


共に祈りましょう。

主よ、物分かりが悪く、心が鈍く、聖書に示されていることを信じようとしない私たちを赦してください。本気で分かろうともしていないくせに、分からない分からないとあなたに文句を言ってばかりいる「私」に気付かされます。主よ、救いを分からせてくださって、「私」をくだいてください。
2016. 06. 28  
昨日の学びで気づかされたことを分かち合います。

ルカ福音書24章13節から、「エマオ途上」と呼ばれるくだりがあります。イエス様の復活が信じられなくて、エルサレムから離れてエマオへ行こうと、二人の弟子が論じ合いながら歩いていきます。

すると、そこに復活されたイエス様が近づいてきて、一緒に歩き始められました。大変ありがたいことです。

しかしおもしろいことに、二人の弟子は、それがイエス様だと気づきません。

「二人の目はさえぎられていて、イエスだとは分からなかった。(ルカ24:16)」

おもしろいのは、この「さえぎられた」という言葉は、「保持していた、固執していた」という意味もある言葉です。

自分の小さな「こだわり」をかたくつかんでいる、という感じです。

彼らがこだわっていたのは、こんなことでしょうか。十字架で殺された人が救い主だなんて認められない・・。復活なんて馬鹿げたことがあるはずがない・・。

極めて狭い視野で、小さい器の中での自分の考えにこだわるから、復活のイエスがそこにいても見えないのですね。

私たちも、いつも何かの「こだわり」をかたくなに握りしめてはいないでしょうか。

自分はこうやって生きてきた、結果を残してきたというプライドは、手放すのはこわいですね。それを失ったら、何もなくなってしまうような気もする。

自分の傷やトラウマが「こだわり」になってしまっている方がいますね。それは大変につらいことでしょう。

色んな「こだわり」があると思います。いずれにしろ、何かにかたくなにこだわっている間は、目はさえぎられているのだということが、「エマオ途上」の物語から分かります。

明日、また続きを分かち合いましょう。


共に祈りましょう。

主よ、知らず知らずのうちに、いくつものこだわりによっておおわれて、私の心は鈍くなってしまっているのでしょうか。主よ、砕いてください。恵みを十分に受け取れるように、私を砕いてください。
2016. 06. 25  
これからしばらく土曜日は、書き残されたカルヴァンの祈りにならって、祈りの言葉を記します。

*****
全能の神よ。私たちは恩知らずで、あなたから注がれるあらゆる光を遮断するほどに盲目でございますが、私たちの目の前には毎日、あなたのご栄光を教えてくれる多くの証しがございます。

願わくは、神よ、私たちに目を開くことを十分に学ばせてください。

いや、神よ。あなたの聖霊によって、私たちの目を開いてください。

私たちに対するあなたの恵みの多さ、大きさ、重要さを深く思い巡らすことを、なさせてください。

あなたは、あなたが永遠の神であられることの証拠を、私たちの前にあきらかに示していてくださいます。

願わくは、私たちをこの敬虔の学校にあって、練り清めてください。

願わくは、すべての徳の賛美を、あなたにかえし奉って、何一つあますところなく、ただあなたのみを讃美し奉ることを、学ばせてください。

あなたが私たちに対するご寛容を示したもうほどに、いよいよますます熱心に、あなたを礼拝し奉ることを、願い望ませてください。

願わくは、ほんのわずかでも自己賛美をしてしまうことのないように。

あなたのご栄光が変わりなく、かつあまねく全世界に輝きわたることのみを心にかけて、あなたに、おのれの全てを献げまつる者とならせてください。

我らの主キリストによりて、アーメン。
2016. 06. 24  
旧約聖書のエレミヤ17:7にこういう言葉があります。「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。」

主がその人のよりどころとなられる・・・。とてもいい翻訳だなあと思います。

もう他の何かをよりどころとしなくていいよ。何も持っていなくてもいいよ。わたしがあなたのよりどころとなるから・・。わたしによりかかりなさい。わたしが背負っていこうと、主なる神が招いていてくださるようです。

今、自分で自分のことを一生懸命支えようとしておられる方がいるかもしれません。

かくいう私自身も、そういうところがあるかもしれない。なんとか「自信」をつけたくて、毎日必死でがんばっているというところがある。

「自信」とは、自分を信じるということですね。

それは、決して悪いことではない。必要なことです。「自信」を得るために努力することは、とても大切なことだと思う。

でも、忘れてはいけないと自分に言い聞かせていることがあります。それは、そういう「自信」を私に与えて下さるのも、主なる神様だということです。

主が、私のすべてを見守り支えていてくださいます。がんばる力を与えて下さるのも主です。

何度悔し涙を流しても、立ち上がる力を与えて下さるのは主です。

私の「自信」など、やすやすと揺らぎます。でも、その揺らいでしまう私までも、まるごと抱きとめていてくださる神が、私にはいます。

この方が、私のよりどころとなってくださったのです。私は、この方に生かされている・・。「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。」


共に祈りましょう。

主よ、私のよりどころよ。今日も、この小さな私の小さな一日ですが、あなたの恵みと憐れみによって彩ってくださって、楽しみで満たしてください。喜びも悲しみも、突然の試練をも、あなたが用意してくださるすべてのものを感謝して受け取ることができますように、主よ、私の今日の日を支えて下さい。

2016. 06. 23  
これまでも何度か紹介しましたが、Ⅰコリント15章3節からには、「最も大切なこと」として伝えたのは、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」だと言います。

これが「最も大切なこと」なのです。他のどんな宝よりも、私たちにとって大切な、永遠の運命を決する福音です。

そしてこういう永遠の真理である「福音」が、毎日の「生活のよりどころ」であると言われています。

「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。(Ⅰコリント15:1)」

「生活のよりどころとしている」、これは違う翻訳では、「それによって立ってきた」ということです。

この福音がなければ、もう日々生活していくのに何の望みもない・・、それほどに初期教会のキリスト者たちの生活は悲惨でした。

今の私たちは、大変生活が豊かになりました。昔の人からすれば、まるでパラダイスです。

しかし、そのことによって、この「生活のよりどころ」としての福音の輝きを見失ってしまうなら、実に、残念なことです。残念すぎることです。

私たちは、何を基盤として、今日の生活をしていくのでしょうか・・・?


共に祈りましょう。

主よ、最も大切なこととしてあなたが伝えて下さった、キリストの十字架と復活の救いの福音を、もっと深く、私たちの生活の礎として打ち込んでください。私たちが、どこまでも雄々しくあることができるように。望みを失わないように。そしてどんな時も、感謝と賛美に生きることができるように。
2016. 06. 22  
洗礼を受けて新しい歩みを始めた姉妹が、確かな信仰の基礎を固めることができますようにと祈ってやみません。

これからしばらく、「よりどころ」ということを考えていきましょう。

洗礼を願われる方に、いつも命じますのが、ハイデルベルク信仰問答問1の暗誦です。ここに、信仰者がいつもどんな時も覚えておかねばならない大切なことが書かれています。

「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」と問われます。

オランダでは、人が間もなく天に召されようとする時に、牧師がその枕もとで、この問答を確認するのだと聞いたことがあります。

「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」と、牧師が問うのです。

信仰者は答えます。「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主、イエス・キリストのものであることです。」

まもなく自分は死ぬのだということをはっきり意識しながら、そのように答えるのですね。

牧師はそれを受け止めて、「そうです。安心して、主におゆだねしなさい」と伝え、その人の体と魂とを神のもとへと送り出すのです。

私たちが平安のうちに生涯を全うし、死んでいくことのできる、ただ一つの慰めというものがあるのです。

そしてこの「慰め」という言葉は、「よりどころ」と訳すこともできます。本来そのほうが適切だとも言われます。

こういう「よりどころ」を得て生きる人は、幸いだと思うのです。


共に祈りましょう。

主よ、まだ歩み始めたばかりの幼い信仰者に、確かなよりどころを得させてください。今日もすべての事柄に、あなたの息吹を感じ、あなたに感謝し、心を高く上げて歩むことができますように。
2016. 06. 21  
先の日曜日に、Ⅰ姉が洗礼を受け、新しく神の家族の一員として加えられました。本当にうれしいことでした。

しかし、洗礼を受けてすぐは、喜びが大きい反面、悪魔の攻撃もはげしくなる時です。姉妹のためにお祈りください。

洗礼に際して、エゼキエル36:25-26の御言葉を読みました。

「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」

「石の心」とは、ガチガチにかたくなで、神の教えを拒み、神から離れていく罪深い心です。

わたしたちは誰もがそのような「石の心」をもっているのです。

神様はいつもそばにおられるのに、わたしたちの心が「石」だから、それが分からないのです。分からないまま、拒んだり、背いたりするのです。

そういう「石の心」を取り除くことは、自分ではできません。人間にはできないのです。

だから神様が、恵みによってそれを取り除き、「肉の心」すなわち、神と共に生きるためのしなやかでやわらかい心を与えて下さいます。(※ 聖書では、「肉」とは悪い意味で用いられることが多いですが、ここでは良い意味です)

そのようにして神様によって清められ、「新しい心、新しい霊」を備えていただいて、信仰の歩みはスタートします。

洗礼とは、そのスタートの象徴です。清い水を振りかけていただいた、その喜びを忘れないでください。


共に祈りましょう。

主よ、信仰者としての新しい歩みを始めた者に、今週、特別な守りと祝福がありますように。先に救われた一人一人も、「新しい霊、新しい心」において、あなたを讃美し、信じ従うことができますように。
2016. 06. 09  
70周年記念信徒大会における「新しい時代に進む改革派教会」という講演の要旨です。19回目、最後です。

※明日から、来週いっぱいまで配信をお休みさせていただきます。

******
改革派教会がこの国にできました時、創立者たちは決して大きな教会を造ろうなどとは考えていなかったと、私はたびたび聞かされてまいりました。

大きな教会ではなく、本物の教会を造りたい。真の福音に立つ教会を、この国に造りたい。

それが、創立者たちの幻でした。その幻に徹すること、それが、私どもの教会がこの国にできる最大の貢献であると思うのです。

今日、私たちは70年前の創立者たちと同じように、日本のガリラヤとも言うべき東北の地に集まっております。

復活をなさったイエスもまた、その弟子たちにガリラヤに行けとお命じになりました。

なぜなら、その場所が弟子たちの始まりの場所だったからです。

私たちも今、この場所から再び新しい歩みを始めてまいりたいと願っております。

復活の主イエスは言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。・・・見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。

このキリストこそが、私たちの栄光の希望です。

マラナ・タ(主よ、来てください!!)。ここに、私たちの生きる力と喜びは湧き上がる。

栄光がただ神にありますように。


共に祈りましょう。

主よ、日本キリスト改革派教会の70年の歩みに注がれ続けた、あなたの尽きせぬ恵みに、心から感謝いたします。昨日も今日も、永遠に変わることないイエス・キリストの希望によって、今日も私たちを励ましてください。
2016. 06. 08  
70周年記念信徒大会における「新しい時代に進む改革派教会」という講演の要旨です。18回目です。

******
愛する皆さん、このような福音に基づく「信仰の働き、愛の労苦、そして希望の忍耐」によって、私たちは、この時代を生きてまいりましょう。

このような福音を信じる者とされていることの幸せを感じながら、生き抜いてまいりましょう。

十字架の道は必ずや復活と栄光に至るのです。

ですから、私たちは心を高く上げて、主イエスを見上げて、生きてまいりましょう。


「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望をもって忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心にとめているのです。

神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。(Ⅰテサロニケ1:3)」

共に祈りましょう。

主よ、この時代に、あなたに選んでいただき、福音を信じる者としていただいたこと、深く感謝します。福音を知らなければ、私はどれほどみじめだったことでしょう。主よ、今、この心に宿る、信仰と愛と希望を・・・私は大切にいたします。主よ、今日も共に生きましょう。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
FC2ブログへようこそ!

検索フォーム
カテゴリ
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR