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2016. 07. 16  
例年より少し早いですが、来週から配信をお休みさせていただきます。9月に再開予定です。

大学院の夏休みのあいだに、修士論文をできるだけ進めていきたいためご容赦ください。
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土曜日は、カルヴァンの祈りにならいましょう。


全能の神さま、その昔、あなたが御心のままにあなたの民としてお選びなさいました、アブラハムの子らに対するあなたの御愛は、どれほどに大きく非凡であることでしょう。

私たちもまた、同じく神の民として、あなたとの結合にあずかることをゆるされていることを感謝します。

今日、私たちもまた、あなたからの尽きせぬご愛顧を、たのしむことを得ますように。

また私たちが、あなたの御憐れみについての望みを決して失うことがありませんように。

あなたの御子の御血潮によって、私たちのために獲得された天の国の希望を、深く瞑想することができますように、あなたの訓練を与えて下さい。

アーメン。
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2016. 07. 15  
「私たちがどのような祈りをささげるかは、深いところで私たちが神をどのようなお方として知り、経験してきたかによるのです。」

これは、フーストンという神学者の言葉です。昨日、日曜学校教師の学び会で分かち合いました。

私たちは、どういう祈りをしてるでしょうか・・・。

確かにフーストンの言う通り、私たちが神様をどのような方として知っているか、神様とどういうお付き合いをしているかで、祈りのあり方はずいぶん変わってきます。

自分の祈りの言葉がどうにも薄っぺらいと、残念に思っておられる方もいるかもしれません。私もそうでしたし、今もそうです。

いい機会ですから、向上心をもって、ご自分の祈りを見つめ直されるとよいでしょう。

神様を深く知り(※それを神学といいます)、自分自身の信仰のスタンスがしっかりしてくれば、当然祈りは変わります。

その逆もしかりです。お祈りの言葉や姿勢が変われば、人間が変わっていきます。


そういう意識をもって、祈りの修練をいっしょにしていければうれしいです。この日々の配信も、実はそのためのものです。

私自身は、詩編の言葉から、祈りについてたくさんのことを学んできました。

今朝読んだ、詩編31篇の言葉をもって、共に祈りをいたしましょう。


主よ、御もとに身を寄せます。
とこしえに恥に落とすことなく
恵みの御業によってわたしを助けてください。
あなたの耳をわたしに傾け
急いでわたしを救い出してください。
とりでの岩、城塞となってお救いください。
あなたはわたしの大岩、わたしのとりで。
御名にふさわしく、わたしを守り導き
隠された網に落ちたわたしを引き出してください。
あなたはわたしのとりで。
まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。
わたしをあがなってください。
わたしは空しい偶像に頼る者を憎み
主に、信頼します。  (詩編31:2-7)

・・・まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。

2016. 07. 14  


旧約聖書のヨブ記に、こういう言葉があります。

「わたしは幸いを望んだのに、災いが来た。光を待っていたのに、闇が来た。

・・苦しみの日々がわたしに襲いかかっている。光を見ることなく、嘆きつつ歩き、人々の中に立ち、救いを求めて叫ぶ。(ヨブ30:26-28)」


ヨブという人は、神に従う純粋な信仰者でしたが、激烈な試練にあって苦しみ抜きました。

私たちの人生には、このヨブと同じように、闇のような状況が訪れることがあります。

そんな時、私たちは早々と絶望してしまったり、あるいは自分でなんとかしようと焦ったりしがちです。

しかし、苦しみの時に必要なのは、そこでじっと待つことです。

信仰者の歴史が教えてくれるのは、苦しみの経験こそ、私たちが神に出会い、命の道を発見する、絶好の機会なのだということです。

苦しみの闇の中で、これまで知らなかった真剣さで、むきだしの全存在をかけて、神と自分とに向き合うことが大切です。

ヨブはそのようにして、神と真実に出会いました。


こんな言葉も、今日の私たちに与えられています。

「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。

希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ローマ5:3-5)」


共に祈りましょう。

主よ、今日も私たちの体と魂をお守りください。すべて最善を備えてください。私たちの心がねじれてしまうことなく、苦しみの中でも、光を見失わないでいることができますように。


2016. 07. 13  
まるでおみくじのように、目をつむって聖書を開いて、そこに書かれている言葉を、今日の指針とする・・・そういう読み方は、いつもはあまりお勧めしていません。

それに反するために心苦しいのですが、今朝、別の黙想をしている際に、たまたま開いた箇所にあった御言葉に、心奪われてしまいました。

「預言者はあなたに託宣を与えたが、むなしい、偽りの言葉ばかりであった。
あなたを立ち直らせるには、一度(ひとたび)、罪をあばくべきなのに、むなしく、迷わすことを、あなたに向かって告げるばかりであった。(哀歌2:14)」


これは、罪の裁きとして、バビロン捕囚という悲劇にあった神の民に対して語られた言葉です。

裁きに会う前、偽預言者たちは、むなしい、偽りの慰めや平安ばかりを語りました。

しかし、崩れた共同体を立ち直らせるには、ひとたび、罪をあばくことが必要だったのでした。


こういう言葉に、色んなことを考えさせられます。

歴史の負の面をまるで学びもせずに、美しい国と自賛し、危機感を妙なかたちでくらまして、人々を励まそうと熱心な指導者たちのことも思います。

教会もまた同様でしょう。これまでの歩みの間違いにちゃんと向き合うことを避けて、慰めばかりを語っている。

あるいは、先日あずかった講演では、「罪の問題に真剣に向き合おうとしない牧師のことを、若者は尊敬しない」とも教わりました。

神の御前で、何が罪深いことなのか。どのように生きることを、主は望んでおられるのか。

そのことを一緒に問い求める中で、衝突や葛藤も起こり、互いに傷を受けるかもしれません。でも、そこから逃げずに、ちゃんと向き合ってくれて、一緒に乗り越えようとしてくれる牧師でなければ、若者は、真に尊敬することはないと、教えられました。


「あなたを立ち直らせるには、ひとたび、罪をあばくべきなのに・・・」

もちろん、罪をあばいて、それでほったらかしではありません。あばくのは、神の赦しのもとへ導くためです。

神の御心に従うことができない自分・・、その自分が赦されている。この赦しの喜びが、人を立ち直らせてくれるのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちが、罪の赦しの喜びを、真に味わうことができますように導いてください。
2016. 07. 12  
詩編10:14の御言葉を、今朝皆さんに贈ります。

「あなたは必ずご覧になって
御手に労苦と悩みをゆだねる人を
顧みてくださいます。
不運な人はあなたにすべてをおまかせします。
あなたはみなしごをお助けになります。」

この詩編10篇は、「主よ、なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか(1節)」という嘆きから始まります。

神を恐れぬ者たちが繁栄するのを、いつまでそのままにしておかれるのかと、いらだちをぶつけているのです。

それはまた同時に、神をしたう者たちが「不運な(=不幸な)」ままでいるのを、どうしてそのままにしておかれるのかとの、いらだちでもあります。

しかし、神もまた、確かにこの不条理な現実を見つめておられるのです。

私のつたない翻訳ですと、14節はこうなります。

「あなたは、まことにあなたは御覧になる、
その災いと悲しみの深さを。
その手にとって、見つめてくださる。」

「手にとる」とは、「我がこととして引き受ける」ことともいえます。

まさにそのようにして、寄る辺なき者たちの「災いと悲しみの深さ」を我がこととして引き受け、じっと見つめておられる神がいらっしゃいます。

「あなたは、まことにあなたは御覧になる、
その災いと悲しみの深さを。
その手にとって、見つめてくださる。」


共に祈りましょう。

主よ、無力感、敗北感におおわれている者がいましたら憐れんでください。労苦と悩みに疲れ果てている者がいましたら憐れんでください。今日も、私たちの歩みをご覧になってくださって、必要なすべてを備えて下さい。     
2016. 07. 08  

昨日、詩編57篇の「憐れんでください、神よ、わたしを憐れんでください」との祈りを共にしました。

そのようにしか祈れない時が、ありますね。

絶望的な状況に、うなだれてしまって、魂が低く屈み込んでしまっています。そこから、消え入るような声で、「憐れんでください・・」と祈り始めたのかもしれない。

しかし、そのようにして始まった祈りは、やがて力強い、自らの魂に「目覚めよ」と呼びかける声に変わっていきます。

「わたしは心を確かにします。
神よ、わたしは心を確かにして、あなたに賛美の歌をうたいます。
目覚めよ、わたしの誉れよ。目覚めよ、竪琴よ、琴よ。
わたしは曙を呼び覚まそう。(詩編57:8-9)」


「あけぼのを呼び覚ます」とは、夜明け前に不動の心をもって、神への信頼と賛美の歌を歌うことで、「新しい一日をゆさぶり起こす」ことを意味します。

朝は、神が救いを与えてくださる、希望の時です。

「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。(詩編30:6)」


共に祈りましょう。

主よ、私たちの魂を目覚めさせてください。目覚めさせて、希望の光を感じさせてください。今、試練の夜を過ごしている人にも、希望の朝が与えられますように。
2016. 07. 07  
深く苦悩している方々のことを覚えています。底なし沼にはまっていくような思いを味わっておられるかもしれません。

そんな時は、心ここにあらずで、神様からの語りかけも耳に入ってこないものでしょう。

昔、ある方が教えてくれました。本当に苦しい時は、どのように祈ったらいいかも分からなくなる。そんな時にはただ、「主よ、憐れんでください」としか言えなかった、と。

聖書、特に詩編には、「主よ、憐れんでください」との祈りが、驚くほどたくさんあります。

きっと大昔から、信仰者が味わってきたことは、同じなのです。

詩編57:1-4の言葉で、一緒に祈りましょう。


憐れんでください。
神よ。わたしを憐れんでください。
わたしの魂はあなたを避けどころとし、
災いの過ぎ去るまで、あなたの翼の陰を避けどころとします。

いと高き神を呼びます。
わたしのために何事も成し遂げてくださる神を。

天から遣わしてください
神よ、遣わしてください、慈しみとまことを
わたしを踏みにじる者のあざけりから
わたしを救ってください。
2016. 07. 06  
昨日に続いて、ルカ福音書2章に記されたシメオンという人の印象的な物語に思いをはせましょう。

大変な老人であったと古くから言われているシメオン。

この人は、救い主キリストに会うまでは決して死なないとのお告げを受けて、そしてそのとおり、まだ生まれて間もない救い主イエスと出会い、その幼子を抱きしめて「わたしはこの目で救いを見た」と叫んだのでした。

そしてその時彼は、このようにも言いました。「主よ、今こそあなたは、お言葉通り、この僕を安らかに去らせてくださいます。(ルカ2:29)」

神様、あなたは私を安らかに去らせてくださる。

こんな風に、魂の平安を得て死んでいくことができる。これは、どういうことでしょうね。

神様という方は、私たちをこんな風に安らかに死なせてくださる、憐れみ深い方なのです。

救い主イエス・キリストをこの腕に抱く時に、私たちは安らかです。

いや、私が抱くのではなく、救い主イエス・キリストが、私を抱いてくれます。

主の手に抱かれて、私たちは安らかに生きていくことも、死んでいくこともできるのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日もし生涯の終わりが来るならば、その時には、あなたの救いの腕に抱かれて、安らかに去っていくことができますように。その時まで、満たされた平安のうちに、人生に取り組むことができますように。
2016. 07. 05  
先の日曜日には、ルカ福音書2章に記された、シメオンという人の印象的な物語をも分かち合いました。

シメオンは、実際には何歳だったのか分からないのですが、大変な老人であったと古くから言われています。

この人は、救い主キリストに会うまでは決して死なないとのお告げを受けて、その時の到来をずっと待ち望んでいた人でした。

その時が来るまで、どれほどの年月を過ごしたろうか。どんな思いで待っていたのだろうかと、想像します。

生き続けるということは、決して良いことばかりではありませんね。

お子さんたちに先立たれて、「どうして私だけが残されるんだろうね」とつぶやいておられた、ご高齢の姉妹もいました。

シメオンも、たくさんの悲しみを見てきたのでしょう。いくさのむごさを見てきたでしょう。貧しさや病に苦しむ人を見てきたでしょう。

地上の日々は、罪人の悲惨に満ちています。そんな日々を過ごしながら、主よ、救いを来たらせてください。すべての罪をあがなってくださる救い主を、我らに与えてくださいと、待ち望んでいたのです。

まるで全人類の祈りを代表するようにして、待ち望んでいたようにも思う。

そして、ついにその日が来たのです。彼は聖霊に導かれるがままに、両親に連れられてきた幼子イエスに出会うことができました。

彼は幼子をその手にいだき、「わたしはこの目で救いを見た」と言いました。

どれほどうれしかったことでしょうか。「救いを見た」と、最後に言うことができる人生は、どんなに幸いなことでしょう。


共に祈りましょう。

主よ、私たちに与えられた救い主イエス・キリストを感謝します。主を、この手に抱かせてください。いや、主の手の中で、私たちを抱いていてください。今日の日を、救いの喜びに満たしてください。

2016. 07. 02  
土曜日は、カルヴァンの祈りにならいましょう。

*****
全能の神よ、今の世のあなたの御教会は欠け多く、弱さに満ち、わたしたちはがっかりしてしまうことばかりです。

願わくは、あなたの御手に頼ることを、私たちに学ばせてください。

私たちの罪が、私たちを苦しめているということを、覚らしめてください。

私たちが、あなたの御憐れみに逃げ込むならば、あなたが私たちの傷をいやす医師となってくださるということを、疑わないようにさせてください。

あなたは私たちを、あなたの深い慈しみと、限りない守りのうちに、常におらしめてくださいます。

そうであるからこそ私たちは、最も甚だしい禍害の中にあっても、御独り子キリストの御名においてあなたをよびまつることをためらいません。

また、あなたの御約束によりたのんで、最も甚だしい禍害にあっても、死そのものにあっても、忍耐をもって救いを待ち望む者の祈りが、決して無駄には終わらないことを、ついに経験によって見出すのでございます。

アーメン。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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