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2016. 09. 30  
わたしたちの信仰は、「イエス・キリストを死者の中から復活させた神」の偉大な御力を信じる信仰であると、今週確認してきました。

そして、その神の御力は、わたしを聖化する聖霊の力として、今日も発動されています。

ローマ8:11に、このように書かれています。

「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」


神を愛し慕う思いがあるなら、それは、わたしたちの内に「聖霊」が宿っておられるしるしです。

そして「聖霊」とは、「イエスを死者の中から復活させた方の霊」と言われているお方です。

この方が、生命の与え主として、わたしの内に宿っていてくださいます。

だから、わたしたちの「死ぬはずの体」が生かされます。新しい命を与えられて、生かされます。

姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、ねたみ・・・(ガラテヤ5章参照)

そして、やがては死に行きつくよりない滅びの道を歩むわたしたちの、「死ぬはずの体」です。

しかし、その体が、生かされるのです。

愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制・・・、そしてやがては永遠の命に行きつく者へと。


共に祈りましょう。

生命の与え主なる聖霊よ、イエスをよみがえらせたもうた、その偉大な御力によって、今日の私たちの罪を砕いてください。どうか、愛の人にならせてください。正義の人にならせてください。
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2016. 09. 29  
また朝が与えられました。主イエスが復活されたのは朝でした。

朝なかなか起き上がることができない方もいらっしゃるかもしれません。目覚めた時から、みじめで憂うつな思いにさいなまれた方もいらっしゃるかもしれません。

昨日の自分を省みて、どうしてあんな態度をとってしまったのだろう、どうしてあんな悪い言葉を使ってしまったのだろう、どうしてあんな、してはいけないことをしてしまったのだろうと後悔する時もありますね。

反省し、祈る中で、自分がいらだっているのだと、気づくこともあるのではないでしょうか。

いらだっているのはどうして?

・・忙しすぎて?・・思うようにならなくて?・・がんばっているのに責められてばかりで?・・いろんなことが不安でしかたなくて?


ローマ7章の御言葉を思い出しました。7:15-25から抜粋します。

「わたしは自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。・・・そしてそういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

わたしは自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。

わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。

・・・・・・わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのでしょうか。」


だれがわたしを救ってくれるのでしょうか。それは、死者を復活させることのできる主なる神だけなのです。


共に祈りましょう。

主よ、昨日のわたしを赦してください。この罪に満ちたわたしを死なせてくださって、新しく、善に生きる者として再創造してください。平和で柔和な者、謙遜な者、正しい者、聖なる者にならせてください。
2016. 09. 28  
私たちが信じる神は、「キリストを死者の中から復活させた神」であるということを覚えて、今週の歩みを進めています。

このような神認識と信仰は、あのアブラハムの持っていたものと同じであると、ローマ4:13-25に書かれています。ぜひ全部お読みください。

旧約聖書のはじめに出てくる「信仰の父」アブラハムと、その妻サラ。

神はこの老齢の夫妻に、子が生まれると約束され、その約束のとおりに息子イサクが誕生しました。

この神の約束を信じたアブラハムの信仰が、「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」を信じる信仰だったと言われています(ローマ4:17)。

とはいえ、このような信仰をアブラハムがはじめから確立していたわけではありません。

むしろ彼は、「そんなことは無理ですよ・・・」と、約束を信じられない思いを示したと、創世記17:17にはあります。

でも、そんな彼に、本当に子を与え、「神に不可能はない」と教えてくださったのは、神様のほうです。

アブラハムに信仰を与えて下さったのは、神様です。

イエス様の復活の時もそうでした。弟子たちはみんな「そんなことありえないでしょ・・・」と信じられなかったのです。

でも、そんな彼らの前に本当に現れて、「神に不可能はない」と教えてくださったのは、主イエスです。

信じられぬ私たちに、信じさせてくださるのは、いつも主の憐れみなのです。

そうして与えられる信仰は、「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」を信じる信仰なのです。


共に祈りましょう。

主よ、アブラハムから今日にいたるまで、あなたのことを信じ切っていない私たちであることを、本当に申し訳なく思います。どうか、この不信仰を赦して下さい。どうか今日、あなたの恵みと御力を示してくださって、私たちが確かな信仰を得ることができますように導いてください。
2016. 09. 27  
今、日曜日の礼拝ではペトロの手紙第一の1章を読みすすめていますが、1節ごとに大切なことが凝縮されていて、スケールの大きな神様の救いの世界が広がっていきます。

今週は20,21節を読みました。特に21節の御言葉に導かれて、今週の歩みをさせていただきましょう。

「あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。」


「キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神」といわれています。

わたしたちが「神様を信じる」という時には、ただ神がおられるとかおられないとかではなく、「キリストを死者の中から復活させた」という神の全能の御力を信じるということが大切なのです。

コリントの信徒への手紙第二の1:8-10に示されたパウロの信仰と希望に、私たちもならいたいと思います。

パウロは、絶望的な状況の中で、「死者を復活させてくださる神」を頼りにすることで、希望を失わずに生きたと言っています。


「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。」


共に祈りましょう。

全能の主、大いなる父よ。今日の一日に、あなたが最善の備えを与えて下さることを信じ、あなたに希望をかけます。私たちの不安をぬぐってください。今、苦悩している者を助けてください。主よ、あなたの御力をお示しください。
2016. 09. 24  
そういえば、土曜日はカルヴァンの祈りを紹介していましたね。

今朝紹介する祈りは、食卓の祈りのようです。朝ごはんがまだの方は、ぜひこの祈りをもってお食事をなさってください。

*****
おお主よ、すべての善きものの源、また尽きぬ泉はあなたにあります。願わくは、あなたの祝福を私たちに注いでください。

あなたの御慈しみによるたまものである、食べ物、飲み物を、あなたが命じたもうように、まじめに、またつつましく用いて、きよい良心をもって食事をいただくことができますように。

願わくは、心からなる感謝をもって、あなたを私たちの御父、すべてのよきものを与えて下さる方と私たちが認めることができますように。

そして、この私たちの唇をもって、あなたのすばらしさを言い表すことができるように、なさせてください。

また、私たちが肉体の養いを受ける時、私たちの霊魂が、永遠の生命の望みに養われるように、あなたの御教えのパンを、特別な心の思慕をもって渇望せしめてください。

私たちの主イエス・キリストによって、アーメン。
2016. 09. 23  
「神の子」についての旧約聖書研究、2回目です。

エジプト脱出から40年後、荒れ野の放浪を終えて、いよいよ約束の地カナンに入る時に、モーセは旅路を振り返って、このように民を励ましました。

申命記1:29-31「うろたえてはならない。彼らを恐れてはならない。あなたたちに先立って進まれる神、主御自身が、エジプトで、あなたたちの前でなさったと同じように、あなたたちのために戦われる。また荒れ野でも、あなたたちがこの所に来るまでたどった旅の間中も、あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださったのを見た。」


荒れ野の旅路を行く間、父が子を背負うように、神が背負っていてくださったではないかとモーセは言います。

私たちは、お父さんに背負っていただいているのだ。これが、古代からの神の民の自意識なのです。

他にも、申命記14:1を見ましょう。異教の習慣から離れよ、という戒めが与えられているところで、このように言われています。

「あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである。死者を悼むために体を傷つけたり、額をそり上げてはならない。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は地の面のすべての民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。」


神の子であるとは、選ばれた聖なる民、宝の民であるということです。

そのように扱われるのは、彼らが特別優れているからではありません。むしろ、彼らは「どの民よりも貧弱」でありましたが、ただ「主の愛」ゆえにそうされたのです。

そのことは、申命記6:6-8に書いてあります。これまたとても大事な聖句ですので、お手元に聖書のある方は、確認しておいてください。


共に祈りましょう。

主よ、わが父よ、あなたに背負っていただかねば、一歩も前に進むことはできません。まことに貧弱な体です。貧弱な魂です。しかし主よ、あなたに選んでいただいた、この自分の存在を、宝として大切に扱うことができますように。

2016. 09. 21  
今日は、ちょっと旧約聖書の研究をしましょう。

「神の子とされる」という恵みは、新約聖書にはっきりと示されますが、旧約聖書ではまだそれほど明瞭ではありません。

でも、旧約聖書にもすでに、そのルーツがあるのです。

例えば、ホセア11:1-4「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。・・・エフライムの腕を支えて、歩くことを教えたのは、わたしだ。・・・わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、彼らのあごからくびきを取り去り、身をかがめて食べさせた。」

神様が、じつに愛情深いお父さんとして、イスラエルを「わが子」として育てたのだと、振り返っておられるのです。

そういう大切な大切な「わが子」だから、「お前を見捨てることができようか!!(ホセア11:8)」と続くのです。


エジプトから呼び出し「わが子とした」、ともありますね。あらためて出エジプト記を見ますと、たしかにこのようにあります。

出エジプト4:22「あなたはファラオに言うがよい。主はこう言われた。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。・・・』」

このようにしてイスラエルは、そのはじめから「神の子」として扱われて、エジプトから出てきたのです。


長くなってしまったので、続きはまた明後日にいたしましょう。明日は早朝から出張のため、お休みいたします。

共に祈りましょう。

主よ、その歴史のはじめから、神の民に注がれ続けている、あなたの慈しみ深い父の愛に、心から感謝します。父よ、今日も「わが子」と呼んでください。あなたの子である喜びを教えて下さい。



2016. 09. 20  
実家の両親が家に訪ねてきてくれていますが、昨晩食事をしながら、私の少年時代の恥ずかしい思い出話に花が咲きました。

田舎であったということもあるでしょうが、当時の学校の先生は厳しくて、よく叱られていたことを思い出します。

親に対しても遠慮なく、子どもの問題点を指摘されたようですね。それだけの責任感があると同時に、威厳と秩序が保たれていたのでしょう。

厳しさと愛の深さというものが同居していた、なつかしい先生の顔も思い浮かべます。

時代とともに、そのような厳しさと愛の深さの「両立」が、ますます困難になってきていることを憂慮します。

社会秩序が不健全に歪み、人間と人間の関係がだんだんだんだん薄っぺらくなってきているのかもしれません。

私は牧師ですから、その根本に、神様と私たちの関係の歪みがあるのだと分析いたします。

神様は、無限に厳しい正義の「厳父」であると同時に、無限に慈しみ深い愛の「慈父」であられます。

私たちは、「厳父」を恐れすぎて神様から離れてしまったり、あるいは反対に「慈父」に甘えすぎて神様になれなれしすぎたり・・・。


「あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を『父』と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。」

これは、日曜日に与えられたⅠペトロ1:17の言葉です。

「父」への「畏れ」ということを大切に思い巡らしながら、この一日を過ごしたいと思います。


共に祈りましょう。

主よ、わが父よ。あなたの厳しさと向き合い、あなたの慈しみ深さに励まされ、今日の日を神の子としてふさわしく生きることができますように、聖霊の導きをお与えください。

2016. 09. 16  
※ 明日の更新はお休みいたします。
****************

「聖なる者になりなさい」というのは、慈父から私たちに対する、心のこもった期待です。

私たちは、「聖なる家族」の一員として取り分けていただいた、聖なる神の子です。

だからこそ、そのように生きる様にと期待されているのです。


「聖なる者」に期待される新しい生き方は、エフェソ書4-6章などからよく学ぶことができます。

今日はエフェソ4:29-5:1の御言葉を、一日の道しるべにさせていただきましょう。( )は私の補足です。


「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。

(あなたの中で生きておられる)神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して(救いを)保証されているのです。

無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。

互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

あなたがたは神に愛されている子どもですから、神に倣う者となりなさい。」


共に祈りましょう。

慈しみ深い、聖なる、わが父よ。あなたがそばにいてくださるだけで、私の魂は安らぎます。あなたのように、大きく、やさしく、正しく、強く、この世とは区別された歩みをすることができますように。
2016. 09. 15  
聖書の言葉遣いにおいて、「聖なる」とは、元来は「区別された」ということです。

そして「聖なる方」は、神様だけです。私たちは誰一人、「聖なる者」にはなれません。

しかし、聖なる神様が、私たちのことを選んで取り分けてくださって、この罪の世界から「区別された」特別な関係に入れてくださいます。

これが「選ばれる、召し出される」ということ、また「救われる」ということです。

そして、その特別な関係とは、「父と子の関係」です。

特別に区別された「聖なる家族」の一員として、迎えられるのです。


以下に記すエフェソ1:4-5を読むと、「聖なる者=神の子」として私たちを取り分けてくださった、神様の永遠のご計画を知ることができます。

「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」

「あなたがたは聖なる者になりなさい」との神からの期待は、この神の、父としての永遠の愛情と関心とに基礎づけられているのです。


共に祈りましょう。

主よ、父よ、わが魂はあなたの見守りに励まされ、あなたの頼もしさにあこがれます。父よ、あなたと共に歩む、この一日に喜びと平安が満たされますように。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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