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2016. 11. 30  
日曜日にはⅠペトロ2:18-23の御言葉を分かち合いました。

「・・・不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。・・・あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。・・・」

不当で不条理な苦しみを受けるということが、私たちの生活の中にもあることでしょう。

でもそこで、悪に悪を返さず、善を行い続ける。横暴な相手にも、「仕える」心をもって接し続ける・・・。

そのように生きようとすれば、苦しみは増します。かつての私ならば、絶対に選択しなかった道です。

しかし、「あなたがたはそのために召された」と言われています。

そのように生きるために、キリストに呼ばれたということです。そのように生きることに、キリスト者の本質があるというのです。

なぜなら、イエス・キリストこそが、そのように生きた方だからです。

「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず(21節)」、裁きを神にゆだねて、ご自分は神の御心にしたがうことに徹し続けられました。

そのキリストが、「その足跡に続くようにと、模範を残された(21節)」と言われています。


私はこの言葉に、言い知れぬ慰めを覚えて涙しました。

もし私たちが、キリストのように歩もうとするなら、苦しいでしょう。苦しくて下を向くこともあるでしょう。

でも、それでもキリストのように生きたいと願って苦しむならば、その時私たちの足元には、主の足跡があるのです。


日曜日の晩、妻が説教の恵みを分ち合ってくれました。

「主を見上げようと、いつも心がけている。でも、痛みに曲がって顔を上げられない時にも、足元には主の御跡があるのだと気付くことができた。主は、上におられるだけじゃなく、私の足元にもいてくださるのだと、御言葉が教えてくれた・・」と、分かち合ってくれました。


共に祈りましょう。

主よ、今もし、不当で不条理な苦しみにあえいでいる者がいましたら、どうかその苦しみを取り除いてください。そしてまた、その苦しみの中でも、善を行い続ける力を私たちに与えてください。キリストの御跡をゆくこそ、こよなき幸なれと、私たちに歌わせてください。
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2016. 11. 29  
日曜日には会員総会が無事に終わり、新たな長老・執事候補者も選出されました。祝福に感謝するとともに、これからの歩みのために祈りをあつくしていきましょう。

私は昨日から、大学院の冬学期がはじまり、新しく「宗教と法律」という科目の受講を始めました。

西洋・東洋問わず、それぞれの法思想と宗教とは密接に関係しているということなども、改めて確認しました。

昨日は、「信教の自由」についての基本的なことを確認しましたが、その中で忘れがたい言葉を伺いました。

先生いわく、日本の公教育においては、戦後60年にわたって「宗教的中立」の名目の下で、「無神論」「無宗教」が前面に押し出されてきたから、現代日本人のほとんどは、そういう態度が宗教的中立であって、最も公平な立場であると誤解しています。

しかし、それは決して「中立」ではなく、一つの決定的な宗教的態度であり、実際は「無神論」ではなく「自己神論」といえるものである。

つまり、神がいないのではなく、実際は、神の位置に「自分」を置いているだけということです。

そして、そういう「無神論」「無宗教」という教育の下で、「自立!!自立!!」と促される。

つまり、「自分ががんばらねばいけない」と教えられる。

日本のクリスチャンも、そういう教育によって、ぬぐいがたい影響を受けている。

洗礼は受けていても、90%以上はこの「自己神論」に染まっている人がたくさんいる。

だから、最も本質的な意味において、「祈る」ということができないのです・・と先生は言われました。

生活のすべてのことを、神様に全面的に頼って生きるということを、していない・・・。

このような言葉に、わが身を顧みざるを得ない思いがしました。


詩編37:4-6の御言葉に聴きましょう。

「主に自らをゆだねよ、主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ。主は計らい、あなたの正しさを光のように、あなたのための裁きを、真昼の光のように輝かせてくださる。」


共に祈りましょう。

主よ、今日必要なすべてを与えてください。食事を与えてください。仕事をよくなさせてください。心のざわめきをぬぐってください。今日の私を守ってください。
2016. 11. 26  
明日は会員総会があります。長老・執事候補者の選挙をはじめ、来年度の予算、活動計画等を決める重要な会議です。祈って覚えてください。

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土曜日はカルヴァンの祈りを紹介しています。12回目です。

全能の神様、あなたはかつて、あなたが御心のままにあなたの民として選び給うたアブラハムの子らにたいするあなたの愛が、いかに大きく、また類なきものであったかについての、数多くの証拠を与えてくださいました。

神様、私たちも、同じ交わりにあずかることを許されているのでございますから、どうか今日の日、私たちもまた、同じご愛顧を受けることができますように。

また私たちがあなたに懲らしめられる時、決してあなたの御憐れみについての希望を失うことなく、かえって、あなたの御独り子イエス・キリストの血潮によって私たちのために獲得された天の御国を想うように、その懲らしめを味わい経験することができるようにしてください。

アーメン。
2016. 11. 25  
「キリスト者の自由」ということを考えるのに欠かせないのは、宗教改革者マルチン・ルターの代表的著作『キリスト者の自由』です。

その冒頭に、次に記します大変有名な命題がかかげられています。

「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服さない。キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、だれにでも服する」。

つまり、キリスト者は「すべてのものの上に立つ自由な主人であって、同時にすべてのものに仕える僕である」というのです。


このようなルターの言葉を支える根拠は、ガラテヤ5:13-14の御言葉です。

「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。」

自由にされたその魂と肉体を無駄に用いるのではなく、「愛によって互いに仕え合う」という崇高なキリストの教えのために用いなさいと言われています。


誰からも支配されず、誰をも支配しない・・、自由な独立した魂を持つ人は、そのように生きます。

そして、「誰かを愛する・仕える」とは、もっとも自由な魂にしか、なすことのできないことです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちはまことに不自由です。互いをけん制し合い、信頼できず、愛し合うことができません。仕えることを望まず、自分を捨てることのできない者でもあります。主よ、御赦しください。そして、「キリスト者の自由」をよく分からせてください。



2016. 11. 24  
聖書において、「自由にされる」とは、罪の支配から自由にされるということです。

そして、神様に従うことができるようになるということです。

以前は憎しみやねたみでいっぱいだった私が、愛することができるようになるということです。

以前は悪を行うことに躊躇がなかった私が、それはダメだと思うようになり、戦い、葛藤し、そして正義を行うことができるようになるということです。

そういう罪深い思いが、きれいになくなってしまうわけではありません。でも、もう支配はされません。

キリストが自由にしてくださったからです。

今や私たちは、罪の奴隷ではなく、誇り高き神の僕です。

この世の法則には縛られません。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」なんて言われたって、もう影響はされません。

まったく自由な、独立した魂をもって神に従う。それがクリスチャンというものです。

ガラテヤ5:1「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません。」

ローマ6:17-18「・・神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、・・罪から解放され、義に仕えるようになりました。」


共に祈りましょう。

主よ、キリストの十字架の血と引き換えに買い取っていただいた、私たちの魂の値打ちの高さを、私たち自身でおとしめてしまうことがありませんように。どうか今日の日に、自由な独立者として、神の僕としての歩みをなさせてください。
2016. 11. 23  
今日は東関東中会の中会会議がありますので、覚えてお祈りください。

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クリスチャンは「地上の旅人」として「自由な人」でありますが、それは社会のルールなど無視したやりたい放題ということではありません。

そうではなく、日本で生きる限り、日本の法律を守り、公共の善に努めることが必要です。

ローマ13章1-7節の有名な御言葉を分かち合いましょう。

「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くことになるでしょう。

・・・善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える僕なのです。

しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。」


ここにあるように、地上の権威者・為政者は、神がお立てになったものです。

全世界・全宇宙を支配しておられる神様は、あらゆる領域を混沌から救うために、安定と秩序をもたらされます。

教会に牧師・長老を立てられるように、政治に権威者・為政者をお立てになり、社会システムを作り出されます。

それは本来的に、「善を行わせる」という目的のために、つまり人々に公共の善、公共の美徳を行わせるために、神が立てられた秩序であるから、その限りにおいては、クリスチャンはちゃんと権威を重んじ、公共のルールに従うべきと教えられているのです。


ただし、権威者・為政者がどんなに劣悪でも、黙って従えということではありません。

彼らが神の御心に反するならば、「あなたがたは神から委ねられた責任を果たしていない」とただす責任が、教会にはあります。


共に祈りましょう。

主よ、今日も日本や世界の為政者が、あなたの愛と正義と真実を実現し、善をすすめ、悪をこらしめることができますように。私たちもまたあなたの僕として、公共の善と美徳に努めることができますように。
2016. 11. 22  
朝方、割合大きな地震がありました。津波が心配です。主の憐れみを願います。

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今週は、日曜日の説教では十分にお伝えする時間がなかった「キリスト者の自由」について考えましょう。

「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい」と教えられています(Ⅰペトロ2:16)。


クリスチャンは、地上世界のしがらみに縛られない「旅人、仮住まいの者」として、自由な風の中を歩みます。

ある意味で浮世離れしたような、この世の常識にとらわれない自由な発想こそ、クリスチャンの本領であるでしょう。

しかし、「キリストにある自由」ということを履き違えてはいけません。

自由な旅人なのだから、地上のルールなど守らない。周囲の目も気にしない。ただ神だけを恐れ、警察力など侮っていい・・・。

あるいは・・、私たちは赦されているのだから、なんでもありだ。やりたいようにやっていいのだ・・・。


もしもそういう確信から、「悪事」に手を染めるようなことをするなら、神がとても悲しまれます。

「自由な人として」生きるとは、そういうことではありませんね。また明日考えます。


共に祈りましょう。

主よ、自由が履き違えられてしまって、倫理の底が抜けてしまったような、現代社会を生きております。それを憂えるがあまり、義務を押し付けることで改善しようとする、偏った動きが勢いを増している時代でもあります。

主よ、私たちキリスト者こそ、「自由」ということを本当に理解する者でありたいと願います。主よ、教えてください。





2016. 11. 19  
土曜日はカルヴァンの祈りを紹介しています。11回目です。

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全能の神よ。あなたは、私どもが相互いに、兄弟たるの親切を示し合い、相互の益のために労苦しあうように、という、この目的のために、私どもをお選びになさったのですから、

どうか私どもが、決して無駄にあなたに選ばれていないことを、私どもの全生涯をとおして証拠立てることができますようにしてください。

私どもが相互いに、折り合いよく生活して、誠実と潔白とが私どもの間にあまねく行きわたるように、なさしめてください。

私どもが、ついに道のりを果して、あなたが用意してくださいました決勝点に達するまで、相互に助けあうように励み努めて、あなたの御名の栄光をあらわすことができますように。

どうか私どもを、この世のすべてのわざわいをついに通り抜けて、あなたが主イエス・キリストによって天にお備えくださいました、かの幸いな休息に入らせてください。

アーメン。
2016. 11. 18  
Ⅰペトロ2:12には、たとえ「異教徒=まだ神を知らぬ人々」から、悪人呼ばわりされても、「あなたがたは立派に生活しなさい」との勧めがあります。

その立派な生き様が、証しとして用いられて、私たちが信じる神のすばらしさがあがめられるようになるためです。

今日はこの教えとの関連で、紀元2世紀に書かれた「ディオグネトスへの手紙」の一部を紹介します。

有名な文章ですので、長いですが読んでみてください。


「キリスト者は、国によっても、言語によっても、衣服によっても、他の人々と区別されません。特別な町に住んでいるわけではないし、風変りな方言を用いるわけでもありません。

・・・衣服、食物、生活様式などについては、その土地その土地のやり方に順応しています。しかし彼らは、ただ神の霊によって生かされる一つの共同体に属しているがゆえに、驚くべき、まったく逆説的な態度を示します。

彼らは市民としてのあらゆる義務を果たし、税を負担しています。すべての外国が彼らにとっては祖国であり、またすべての祖国が外国です。

彼らは皆と同じように結婚し、子どもをもちますが、生まれたばかりの赤ん坊を捨てたりはしません。

また、皆で同じ食卓を共に囲んでも、皆で同じ寝床に入ったりはしません。

この世に生きていますが、この世に従って生きてはいません。地上での生を送りますが、天の市民なのです。

定められた法律に従っていますが、彼らの生き方はそれらの法をはるかに超えています。


彼らはすべての人を愛しますが、人々は彼らを迫害します。彼らを認めず、非難し、殺します。

しかし、それによってキリスト者たちは命を得るのです。

彼らは貧しいですが、多くの人を富ませます。すべてを欠いていますが、すべてにおいて有り余るほど豊かです。

人々は彼らを軽蔑しますが、彼らはその軽蔑の中に自らの名誉を見出します。

人々は彼らを侮辱しますが、彼らは人々を祝福します。


・・・ひとことで言えば、体に魂が宿るように、キリスト者はこの世に宿る魂なのです。魂が体の各部に行き渡っているように、キリスト者もこの世の町々に浸透しています。・・・・


共に祈りましょう。

主よ、われらは地の塩、世の光。この世に宿る魂・・・。主よ、あなたから与えられた役割に、重荷を感じるものでもありますが、どうか我らの貧しささえも用いられて、あなたの栄光があがめられますように。
2016. 11. 17  
Ⅰペトロ2:11には、「あなたがたは旅人であり、仮住まいの身なのだから、魂に戦いを挑む肉の欲を遠ざけなさい」と言われています。

「肉の欲」とは、「肉的な」欲望です。それは、神の御心に反する、「自己中心的な執着」です。

それは、「魂に戦いを挑む」という、恐るべきものです。戦いを挑むというのですから、殺しにくるということです。

このような、地上的な欲望と執着を戒める、すさまじい言葉を分かち合いましょう。

「・・・わたしたちは、何も持たずに世に生れ、世を去る時は何も持っていくことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。

金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。

金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。(Ⅰテモテ6:7-10)」


旅人は、荷物を増やさないものですね。旅人というのは、「肉の欲」から自由である人のことです。

いいなあと思う土地があっても、そこに「執着」してしまっては、旅を進めることができません。

私たちは、永遠の命の満ちる場所に向かって旅を進める、自由な「途上の人」なのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日の私たちの旅路を見守ってください。さまざまな誘惑やつまずき、試練があっても、旅の足をとめてしまうことがないように、あなたの恵みによって歩ませてください。





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勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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