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2016. 12. 17  
今日はカルヴァンの祈りの紹介をお休みします。すみません。

昨日読んだ本に面白いことが書いてありました。英語でsilent(静けさ)を並べ替えると、listen(聞く)になります。

神の言葉を聞くためには、静けさが必要です。

みなさんに、よきsilentと、listenの導きがありますように。
2016. 12. 16  
先の日曜日に与えられたⅠペトロ3:1-7は、特に夫婦を対象としたものでありましたので、配偶者を与えられている方には特別な響きがあったようですね。様々な反響をうかがっています。

特に大切なのはこの御言葉です。「・・夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。(7節)」


「命の恵みを共に受け継ぐ」、この御言葉を大切にしていたいと思います。

ペトロの手紙ではじめからテーマになっているのはこのことです。

天に約束されている永遠の財産の希望です。天を見上げさせる言葉です。


若い時に、この御言葉をパートナーに贈ったというエピソードも、ある方からうかがいました。

でもその時は、この言葉に込められた、永遠の御国をはるかにあおぎみる思いは、ほとんど持っておられなかったそうです。

日曜日の説教を通して、改めてこの御言葉を受け取りなおし、夫婦で永遠を見つめる視点を得たとのことでした。

「われらついにかがやくみくににて、きよき民と、ともに御前にあわん。(讃美歌488より)」

われらの救いの完成は、あのかがやくみくににあります。そこに私たちの完全な和解もあります。平和もあります。

私たちは地上でたくさん傷つけ合い、悲しませあいます。罪の悲惨が濃いのです。もっとも近しい者のことを、もっとも傷つけてしまう。私たちの「罪」とは、そんなところに表れます。

しかし、すべてが光の中で赦され、平和に満たされる時が来るのです。

夫婦のことだけじゃない。主の憐れみの中で生かされてきた「私たち」の、全てがあがなわれる時が来るのです。

それが、「命の恵みを共に受け継ぐ」時です。


共に祈りましょう。

主よ、夫婦として歩む者たちに、あなたの恵みの導きがありますように。よき配偶者を願う者たちに、あなたが最善を備えてくださいますように。わたしたちのすべてに、永遠の命の光を注いでくださって、今日の日を生きる力を備えてください。
2016. 12. 15  
今日のリジョイスは、詩編119:97-128でした。

特に有名な「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯(105節)」が取り上げられています。 今日のリジョイス

私のほうで解説を加えるとしましたら、この詩編の背景には、忠実な信仰者が肩身のせまい思いをして生きていかねばならないような、不信仰な社会があるということを覚えていてください。

あるいは、激しい迫害の渦中にあったのかもしれないという学説さえあります。

そう思って読んでいくと、「世の人はどうであれ、わたしはあなたの御言葉に生きる」という、神とまっすぐ向き合おうとする詩人の、決然とした信仰告白を読み取ることができます。

「あなたを恐れて(=他の誰でもなく、ただあなただけを恐れて!!)、わたしの身はすくみます。

あなたの裁き(=法、秩序、支配)を、畏れ敬います。(120節)」



先の日曜日に与えられました、Ⅰペトロ3:1-2も、同じような魂の構えを、私たちに教えてくれるものです。

「・・夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって、信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。」

圧倒的に男性優位の社会で、夫と異なる信仰をもつがゆえに、肩身のせまい思いをしている「妻」たる者たちに、堂々と証しの生を歩みなさいと促しています。

まっすぐな「神への畏れ」に貫かれた人の生き様は、一味も二味も違います。

「・・この人は違う世界を見ている!!」とのインパクトが、言葉以上に説得力をもって、近くにいる人の心を動かすことがあるのです。


共に祈りましょう。

主よ。慈しみ深く、あなたの僕のために計らってください。あなたの掟をわたしに教えてください。わたしの存在が、あなたの御言葉と本当に一体となるまでに、聖化の業を進めてください。
2016. 12. 14  
今日のリジョイスはアモス8章でした。11-12節が有名ですね。

「見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。

人々は海から海へと渡り、北から東へとよろめき歩いて、主の言葉を探し求めるが、見いだすことはできない。」


このアモス8章には、背信の北イスラエル王国の民に下される、恐るべき裁きの予告がなされています。

その中でも、最も恐るべき裁きこそ、「主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇き」なのです。



わたしたちは、その恐ろしさを、本当に分かっているでしょうか。



どうしても主の言葉を聞きたいという、飢え渇きを経験された方もいらっしゃることでしょう。

昨日の朝岡先生の話ではありませんが、まさしく主の言葉こそが命の源であるということを、経験させていただく時があります。

それを経験するまでは、わたしたちは、主の言葉に対する真剣さを欠いたままでしょうか。

それは悲しいことですね。そして、そのままでは、きっといつまでも、分からないことでしょう。

もしかすると、そのような私たちの鈍感な状態こそが、もう主の裁きの手の中にあるということなのではないでしょうか。

そうだとすれば、恐るべきことです。

その裁きから救い出すために、神の「言」が人となって生まれて来てくださいました。それがクリスマスです。そしてその「言」なる方が、手を差し伸べていてくださいます。

今、私たちにとって、そのイエスの手を握るというのは、聖書に親しんでいくということとイコールなのです。


共に祈りましょう。

主よ。あなたからあふれる御言葉をいただきながら、そのありがたさをわきまえないでいる私たちを赦してください。どうか今日、あなたの御言葉によって命をいただく、驚くべき「みことば体験」をなさせてください。




2016. 12. 13  
昨日、私が学んでいます東京基督教大学で、神学生のための講演会がありました。私たちの教会にも来てくださった朝岡勝先生がお話してくださいました。

<あの日>以後を生きる―震災から5年9か月、というタイトルですが、語られたのは説教論と説教者論です。

あの「未曾有の出来事」とさえ言われた大震災という「苦難」を経験した後で、どんな言葉を語ることができるのか・・・と、悩み、祈り、苦闘し続けてこられた、ご自身の歩みを証しするようにお話くださいました。

その歩みは、より本質的に、「苦難」の中に置かれている聴衆のお一人お一人に、神の慰めを“本当に”届けるということが、どうすればできるのだろうかという悩むことでもあります。

そしてそれは、わたし自身が毎日考え続けていることでもありました。


皆さんと分かち合いたいことはいっぱいあるのですが、あまり難しくなってもいけません。分ち合いやすいことだけ、紹介しますね。

あの震災から二回目の日曜日の3月20日。朝岡先生は牧師になって初めて、原稿なしのメモ書きだけで説教をしました。十分な準備をすることができる時間がなかったからです。

教団の復興支援本部の事務局長として、物資の手配に明け暮れておられました。一週間の睡眠時間は平均3,4時間。ろくに食事もとっていない。一週間で4キロやせ、耳鳴りがするようになる・・・。

そんな状態のまま土曜日になり、その日も日中は震災の対応に追われて、説教準備のために机に座ったのは夜11時近く。

今からでは、いつものような準備をする気力も体力も残っておらず、「主よ、おゆるしください。どうしたらよいでしょうか」と泣き言のような祈りをささげてから、とにかく聖書を開く。

予告されていたテキストは、ヨハネ福音書6:1-15.主イエスが、5000人に食べ物を与えるという、奇跡がしるされた記事でした。

一度、二度と読むうちに、ぽろぽろと涙があふれてきて止まらない。みことばが心の中に一言一言染み込んでくる。

疲れて渇いた心のひび割れに、みことばがしみわたってきて、だんだんと命が潤い、内側から魂が活性化して力があふれて来るのを感じた。

この一週間、物資手配という慣れない働きの中で、たくさんの問い合わせや苦情にも疲れ果て・・・、その自分の一週間が、5000人を前に途方に暮れつつ、人々の腹を満たそうと悩んだ弟子たちと重なった。

そして深く教えられた。ぼくたちが人々の必要を満たすのではない。満たしてくださる方は、主イエス・キリストご自身なのだという確信であった。

・・・・このようにして、だれより説教者自身が、「みことば体験」をしたのです。

説教とは、説教者が作り出すものではなく、やはり本質的に、主から与えられて語るものなのですね。


共に祈りましょう。

主よ、今日もそれぞれの苦しみや悲しみを負って生きておられる、愛するお一人お一人に、どうか上よりの慰めと祝福がありますように。すべてを満たしてくださる、あなたにおゆだねいたします。
2016. 12. 10  
今日は、東関東の学生たちがクリスマスを祝います。また明日の日曜日は、N姉の加入式が予定されています。お祈りに覚えてください。

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土曜日はカルヴァンの祈りを紹介しています。14回目です。

全能の神様、私たちは、私たちの罪によって、日々おのれをあなたから遠ざからせて止まないものです。

しかしあなたは、それでもなお私たちに悔い改めを勧め、私たちに慈悲深くあると約束なさいます。

どうか神様、私たちが片意地に私たちの罪を犯し続け、あなたの大いなる御仁慈に対して、恩知らずとなることがないようにしてください。

私たちがあなたに立ち帰り、かくして私たちの全生活を、私たちの悔改めの偽らざる証拠となるようにしてください。

また私たちが、ただあなたにのみ従い、私たちの堕落した肉の欲に引きずり回されることがないようにしてください。

私たちをして、常に揺るぎなく私たちの目的に向かわせ、私たちの全生涯をつうじてあなたに従いまつるように努力させてください。

そして、ついに、あなたの天の御国において、私たちの従順の実にあずかることを得させてください。

私たちの主イエス・キリストによって、アーメン。
2016. 12. 09  
今週は、リジョイスともリンクしながら、御言葉を分ち合ってきました。

リジョイスの申し込みが減っているということで、牧師としての責任も覚えつつ、こういう形も交えながら「日々の御言葉」を行っていきたいと思います。

リジョイスはインターネットでも読むことができます。(ただし、月刊誌のほうが売れなくて廃刊になると、ネットの配信もできなくなるのです)
こちらです。ふくいんのなみホームページ:月刊誌リジョイス 今月の聖書日課


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そういうわけで、今日のリジョイスにある聖書日課は、詩編119:33-64でした。

詩編119篇は、神の御言葉を愛する信仰者に大切にされてきた詩編です。

でも、正直言ってとっつきにくいなあ・・と思う方もおられることでしょう。

何より、長い!!・・・。それに、同じことばかり繰り返されているようで・・・。

また、この詩編に示された「律法」への熱心は、どういう風に考えたらいいのかと戸惑う人もいるかもしれません。

新約聖書においては、イエス様は「律法学者」をけちょんけちょんに言いますし、「律法主義」という言葉も定着しています。

しかしイエス様は、神様が与えて下さった「律法」そのものを廃棄しようとされたことは一度もありません。

むしろ、その「律法」のこころと言いますか、そこに込められた神の思いをただしく踏まえて、より高度に実践することを求められました。

そもそもが、「律法」という翻訳がいけないかもしれません。

「律」とは中国から導入された法概念で、「刑法」です。ついでにいえば、「戒め」というのも、鉾と剣を持った人の姿に由来する大変いかめしい漢字です。

「律法」と訳されるトーラーは、神がその御心を私たちに示したもうた、教えであり、法であり、御言葉そのものです。

そして、この詩編119篇の言葉遣いによれば、「戒め」も「命令」も「掟」も「定め」も、みんな「律法」と同じく、「このように生きてごらんなさい」という神からの愛の語りかけなのです。


詩人と共に祈りましょう。

「わたしはあなたの戒めを愛し、それを楽しみとします。わたしはあなたの戒めを愛し、それに向かって手を高く上げます。わたしはあなたの掟を歌います。(47,48節)

主よ、この地は慈しみに満ちています。あなたの掟をわたしに教えてください。(64節)」




2016. 12. 08  
Ⅰペトロ2:25にはこうあります。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」

魂の牧者、すなわち私たちの魂をただしい道へと導いてくれる羊飼い。それが、イエス様です。

私たちが「罪人」であるとはどういうことかを理解するための一つの分かりやすいイメージは、「迷子のひつじ」でありましょう。

神からはぐれてしまって、歩むべき道を見失ってしまって、途方にくれている迷子。


ちょうど今日のリジョイス(改革派教会の聖書日課)で、詩編119:1-32を読んでいましたが、そこでも「道から迷い出る」というモチーフが鮮明です。

お手元に聖書のある方は、「道」というワードに注目して読んでみてください。

特に、25-32節の「ダレト」のスタンザ(連)は、「あなたの命令に従う道」「偽りの道」「信仰の道」「戒めに従う道」と続きます。

これにはカラクリがあって、詩編119篇というのは、「いろは歌」になっておりまして、「アレフ」「ベト」・・というのは、それぞれヘブライ語のアルファベットです。

ひとつのスタンザ(連)の文頭が、すべてそのスタンザのアルファベットから始まるのです。

「ダレト」というのはヘブライ語アルファベットの「D」音ですが、25-32節は全部、文の頭が「D」で始まるようにできています。

そして、ヘブライ語で「道」という語は、「DELEK」となります。つまり、「D」で始まる代表的な語彙です。

だから、ダレトスタンザでは、「道」というキーワードが特に大事に用いられるのです。

主なる神の御言葉・教えに導かれて「道」をまっすぐに行くことができるならば・・・そんな憧れが、詩編119篇に流れています。

「わたしの魂は悲しんで涙を流しています。御言葉のとおり、わたしを立ち直らせてください。(28節)」

こんな祈りに、「道」から迷い出てしまった迷子の悲しさが映し出されています。


まことの羊飼いイエスは、そんな私たちを「道に戻す=立ち直らせる」ために、人として生まれてきてくださった「御言葉」なのです。


共に祈りましょう。

主よ、心を尽くしてわたしはあなたを尋ね求めます。あなたの戒めから迷い出ることのないようにしてください。

2016. 12. 07  
今朝、リジョイスに指定されていたアモス書5章を読んでいました。

「それゆえ、知恵ある者はこの時代に沈黙する。まことに、これは悪い時代だ。

善を求めよ、悪を求めるな。お前たちが生きることができるために。そうすれば、お前たちが言うように、万軍の神なる主は、お前たちと共にいてくださるだろう。(アモス5:13-14)」

ドキッとした言葉でした。

自分の心は決定的に、神の御心から離れて、すなわち「善」から離れて、悪い時代にのみこまれている。

それなのに、神には、共にいてほしいと願う。どうして共にいてくれないのかと、文句を言う。

あるいは、自分には神がついているから大丈夫と、妙に大胆である。しかし、そのようにして自分に都合よく信仰している「神」とは、どういう存在でしょうか。

それは、まさしく自分自身でつくりあげた、偶像に過ぎないのではないか・・・。


神と共に生きるとはどういうことかと、考えさせられている朝です。

Ⅰペトロ2:24にはこうありました。「(キリストは)十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。」

「罪に対して死ぬ」とは意訳で、「罪から離れる」という言葉です。

そして、「義によって生きる」とは「義に生きる」、それはアモス書の言葉なら「善」に生きるということです。神との正しい関係に生きる。

それは、これから始まる新しい道です。

キリストの十字架によって、これまでの罪を赦された者として、根本的な悔い改めをもって「善を求める」ことをはじめ、神と共に生きる新しい命に進んでいく。

イエス様は、私たちにそういう未来を用意するために、十字架にかかってくださって、過去を清算してくださるのです。


共に祈りましょう。

主よ、わたしを洗ってください。雪よりも白くなるように。わたしの罪に御顔を向けず、咎をことごとくぬぐってください。神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。
2016. 12. 06  
日曜日にはペトロの手紙Ⅰ2:22-25を分かち合いました。

24節にはこうありました。「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。」


面白いことに、ここでの「十字架」というのは意訳でありまして、原語では「木」という字です。

「木にかかってくださった」というのです。

思い出しますのは、ガラテヤ3:13「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている(申命記21:23)』と書いてあるからです。」

このように、キリストが「木にかけられた」とは、私たちに向けられていた神の怒りと呪いを、ご自身にまったく引き受けてくださったということです。

神の怒りや呪いということを聞いてうれしい人はいないでしょう。だから、敬遠されがちです。

私たちの不信心と不義に対する神の怒り(ローマ1:18)ということ、そしてその怒りゆえの呪いのすさまじさを理解しないと、十字架の贖いの恵みというものが際立ってきません。

あの主の十字架のお姿には、すべての罪人の身代わりとなって、神の呪いをひとりで受けきってくださった方の惨めさがあるのです。

その死によって私たちには、「罪に死んで義に生きる」という命の道が開かれました。

それについては、また明日分かち合いましょう。


共に祈りましょう。

義・聖・善なる神の御名をあがめます。あなたから見て私たちの姿は、どれほど汚らわしいことでしょう。しかし今や、ただキリストを信じるがゆえに、あなたからの呪いではなく、祝福の中で生かされているということを、心から感謝します。主よ、この祝福を今日も深く味わわせてください。
プロフィール

茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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