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2016. 12. 31  
今年も一年間、御言葉を届けるという奉仕を全うすることがゆるされました。主の憐れみと、皆さんの祈りの支えに心から感謝を申し上げます。

来週は一週間、休暇をいただきますので、配信をお休みいたします。また来年もよろしくお付き合いくださいますよう、お願い致します。
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今年ももうすぐ終わりですね。来年は2017年。でも来年は本当に来るのでしょうか?

時間はいつまでも永遠に続くわけじゃありません。世界のはじまりを与えられた神様が、終わりを与えられる時に、時間はとまります。今、神様が終わりをもたらされるなら、2017年は来ないのです。
 
神様が終わりをもたらされる時、それを終末といいます。それはキリストを信じる者にとって、慰めの時、救いの完成の時。その時、イエス様は再び来てくださって、罪のない世界、新しい天と地を完成させてくださいます。

2000年前から、クリスチャンはずっとその時を待ってきました。その希望に支えられて、悲しみの多い地上の生涯に挑んできました。

2016年も、私たちはたくさんの涙を流しました。

愛しあうべき人と、心がかみあわないで泣きました。別れの悲しさを味わいました。心に深い傷を受けて、こわくて一歩も動けなくなって、泣いてばかりいた人もいたかもしれない。

思うようにいかない日々に苛立ちました。そのようにして苦闘している方のことを想って、泣きながら祈ったこともあったかもしれない。

どうしても別れたくない人が死んでしまう・・自分もまたいつか死なねばならない・・アダムの堕落から始まったこの悲しい運命。

病気がある、貧困がある、戦争もある、温暖化は進み、放射能は消えない・・。私たちは、そういう罪の悲惨にあえいで、いつも泣いています。
 
しかし、終わりの時、キリストは再び来てくださり、信じる私たちの目から「涙をことごとくぬぐい取ってくださる」と約束されているのです。「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と言われているのです(黙示録21:4)。

大事なのは、その終わりの時の希望に支えられて、今という時を、イエス様に心を向けてしっかり生きることです。

神様は、私たちにとって、この世界にとって、大きな意味をもつ一年として、この2016年も与えてくださいました。

私たちは、そんなに大切な一年として、この一年を過ごしたでしょうか?

2017年が与えられるとすれば、それもまた神様が、私たちのために用意してくださる特別な一年に違いありません。

大事に生きましょう。来年が来るのは、当たり前のことじゃないのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたに与えていただいた、365日の時間を想い起します。そのすべての時に、あなたは共にいてくださったことを感謝します。そのすべての時に、私たちのための最善を備えてくださったことを、心から感謝します。
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2016. 12. 30  
今年一年を振り返っての、極めて個人的な証しになることをご容赦ください(ちょっと長いです)。

今年私は、自分の存在の小ささということを、ようやく受け入れることができつつあるように思っています。

私には、クリスチャンになる前からずっと、自分が何一つ達成しないままにいつも逃げ続けているという負い目があります。

私は、これ以上はもう無理だ・・というところまで、努力したことがありません。

だからこそ、その達成感を味わいたくて、牧師としてフル稼働しながらの大学院という挑戦をも始めました。でも、残念ながら、やればやるほど、「もっとやれるはずなのに、自分は手を抜いている」という負い目ばかりが募ってきます。

その根底にあるのは結局、劣等感でもあるのです。あの人はあんなにすごいのに、自分はだめだ。こんなことしかできない・・・という思いです。

だけど、もうそんな風に考えるのはやめようと思いました。

自分で自分が納得できるまでがんばろう、などというのは、傲慢なことだと分かりかけてきました。


今年洗礼を受けた一人の若者が、マタイ25章のタラントンのたとえの説教をきっかけに、洗礼を決断したと教えてくれました。

あのたとえの中で教えられていることは、それぞれに主から与えられている能力には差があるし、仕事の成果にも差が出てくるということです。

でも、僕たちはそれぞれおごりもせず、ひがみもせず、決して無理することもなく、自分に与えられたものを適度に用いて、主人の喜びに仕えました。

そういう僕たちに対し、神様はそれぞれに同じ言葉をもってほめてくださり、同じ褒美をくださいます。

5もうけたか、2もうけたかなんて小さな違いは、神様にとって問題じゃないのです。それぞれの人生に忠実に取り組んだかどうかだけが問題です。そうすればまったく同じように「多くのもの」が与えられるのです。

こういう教えに感動し、自分の人生を主にあずけようと思った若者がいるのですね。

私は、そういう教えを彼に伝えるために、神様から用いられたのです。この小さな者が用いていただけたのです・・・。なんと素晴らしいことかと思いました。

私もまた、この教えに生きたいと思いました。

主に与えられた能力を忠実に用いて、主に与えられる出会いを大切にし、ただただ主の憐れみと助けによって、主からの召しに取り組んでいく。

そして、主が肯定してくださる自分自身を肯定し、主に生かされた毎日を受け入れていく。

そのように生き、死んでいきたい。そんなことが、分かりかけてきた2016年でありました。


共に祈りましょう。

主よ、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。(ローマ14:8)」

あなたのものとしていただいた、この身の幸いを覚えます。この一年を、あなたの大きな手の中で、歩ませていただいて、がんばらせていただいたことを本当に感謝します。すべてはあなたの恵みによるものです。主よ、感謝します。

2016. 12. 29  
昨日は年末感謝祈祷会で、小グループにわかれて、今年与えられた恵みを分ち合うことができました。

昨年に続いてのこの企画。勝田台教会では、このようにして「恵みを分ち合う」ということに慣れていないかもしれませんが、神からいただいた恵みを言葉にすることは大切なことです。

しかもそれを分ち合うことで、感謝の喜びは倍増していきます。

昨日も、それぞれに豊かな語らいがなされたのではないかと思います。

ある方が言ってくださいましたが、信仰者の交わりはやっぱり格別だそうです。

なぜなら、同年配の方々で集まっても、やれ「ゴルフができなくなった・・」やら、病気の話やらばかりで、話が深まりもしない。

でも、信仰者の交わりは違う。

主の恵みと憐れみの中で、一年を過ごすことができたと「感謝をする」。

その希望の光の下で、病気さえも、老いさえも、困難さえもまた、「恵み」として数えることができる。共に励まし合うことができる。



今、大変なつらさの中におられる方のことも思っています。胸がつぶれる思いで祈ります。

でもその方が、いつも希望の光の中で、主への感謝をもって歩んでおられることを知り、牧師は安堵します。

主が生きておられます。2016年を導いてくださいました。死の陰の谷を歩むようなつらさの時も・・。

(詩編52:10-11)
わたしは生い茂るオリーブの木。
神の家にとどまります。
世々限りなく、神の慈しみにより頼みます。
あなたが計らってくださいますから、
とこしえに、感謝をささげます。
御名に望みをおきます。
あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深い
あなたの御名に。


共に祈りましょう。

主よ、あなたが与えて下さる恵みと慈しみの数々に、心から感謝をいたします。冬休みをいただいている者も多くいることでしょう。どうか一年の疲れをいやしてくださって、いよいよ感謝と喜びを増し加えてください。


2016. 12. 28  
今日は今年最後の祈祷会があります。今年それぞれに与えられた恵みを、小グループで分かち合って、主に感謝をしたいと思います。

日ごろ集うことのできない方も、ぜひ一緒に祈りましょう。

ゆるされれば、それぞれが今年大事にしてきた御言葉も分かち合ってください。「この言葉がずっと心にとどまっています・・」と。

例えば私の場合は、今年は後半からⅠペトロの講解がはじまり、実に豊かな御言葉体験をさせていただいてきました。

その中のどの言葉と限定することが難しいですが、あえて言うなら、2:21です。

「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたのです。(Ⅰペトロ2:21)」


もし私たちが、キリストのように歩もうとするなら、苦しいでしょう。苦しくて下を向くこともあるでしょう。

でも、それでもキリストのように生きたいと願って苦しむならば、その時私たちの足元には、主の足跡があるのです。

イエス様の足跡に、自分の足を重ねてみるたびに、わたしのために苦しんでくださったキリストの愛が、いよいよ深く心に迫ってくるのです。

そんな風に、解き明かしさせていただきました。



今年は、様々な学びや語らいの中で、このような「信仰の苦しみ」について教えられることが多かったものです。

十字架のキリストに従う道は、苦しみをともなう。苦しみを避けるなら、信仰の喜びもまた分からない・・。そんなことを、様々な機会に教えられ、少しだけ分かってきたように思います。

これからの時代をキリスト者として生きていくために、主が与えて下さった貴重な学びと訓練なのだと思って感謝しています。

皆さんは、どんな御言葉体験をなさったでしょうか。


共に祈りましょう。

主よ、道に迷い悩むわたしたちを導くために、あなたが与えて下さった御言葉の数々に、今改めて感謝を申し上げます。聖書に導かれて生きることの幸いを、いよいよ豊かにわたしたちに教えてください。

2016. 12. 27  
世間では、クリスマスは終わって、年末モードですね。教会でも、ツリーを片付けてしまいました。

でも、教会暦を大事にする国ではむしろ反対に、クリスマスの日からツリーを飾りはじめ、救い主が与えられたという恵みを喜んで過ごすと聞きます。

主が生まれてきてくださったことの意味を深く想起しながら、この一週間を過ごしていきたいものです。


今日のリジョイスは、ハバクク書2章でしたね。難解な箇所です。

ダビデ王朝によって率いられてきたユダ王国ですが、100年近く、アッシリア帝国からの圧迫を受けて苦しんだ時代がありました。しかし、まもなくアッシリアの支配が終わるということが予告されているのが、ハバクク書の大枠です。

有名なのは2:4の言葉ですね。「見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」

パウロはこの言葉をローマ1:17で引用し、ただ信仰によって救われるという教えにあてはめました。

しかし、元来の文脈からいうと、「神に従う正しい理想的な王」が即位して、高慢な支配者を打ち倒して繁栄を回復する時が来る。「その時が必ず来るから待っておれ(ハバクク2:3)」ということかもしれません。

ただひたむきに、素直に、神を信頼し、神に従う理想の王様。

ハバクク書の時代には、ヨシヤ王という王様が登場し、その理想を部分的に実現しました。

しかし、完全な実現は、もっともっともっと、長い間待たねばなりませんでした。

そう、イエス様のお生まれになるまで、待たねばなりませんでした。あのシメオンが「待ち続けていた」というのも、そういうことなのです。


共に祈りましょう。

主よ、神に従う信仰の人イエスの御跡に、続く者とならせてください。様々な不安、混乱の中で、この年末を過ごす私たちに、どうか主よ、信仰による魂の平和を備えてください。
2016. 12. 24  
土曜日はカルヴァンの祈りを紹介していますが、今日は20世紀最大の神学者カール・バルトによる降誕祭の祈りを紹介します。

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主なる神よ!

私たちが不安を持つ時も、私たちを絶望まで追いやらないでください。

私たちが幻滅を感じた時も、私たちを心かたくなにさせないでください。

私たちが倒れた時も、私たちを倒れたままにさせないでください。

私たちの理解や力が限界に達した時も、私たちを滅ぼしてしまわないでください。

そして心がへりくだり、打ち砕かれ、あなたの御言葉におそれをいだく者にこそ、あなたが約束された、あなたの近さと愛を感じさせてください。



あなたの愛する御子は、実に、このような絶望的状態にある人間全体のところにこそ、来り給うたのです。

私たちが、皆、まさにこのような人間であればこそ、御子は馬小屋に生れ、十字架で死に給うたのです。

主よ、私たちすべてを目覚めさせ、このような認識と、このような告白に対し、私たちすべての目を開いたままにさせておいてください。



そして私たちは今、この時代の暗黒と苦悩全体について・・・、どのように対処すべきか、何の忠告も与えられぬままに世界がおびやかされている、大いなる危機全体について思いめぐらします。

また私たちは、体や心の病める人々、貧しい人々、追放された人々、圧迫されている人々、不義に悩まされている人々、義しい両親を持たぬ子どもたちのことを考えます。

さらに私たちは、人間として助けうる限りの助けを与えるように召されているすべての人々・・・に、思いを致します。

・・・降誕祭の光が、彼らと私たちに明るく照り輝くことを願い、さらにこれまでより一層明るく光り輝いて、彼らと私たちの救いが与えられるよう祈り求めます。


これらすべてを、救い主の御名によってお願い申し上げます。・・・アーメン。

2016. 12. 23  
今日は18時よりキャンドルサービスです。ロウソクの灯火に、闇を照らす小さな光を想起して、主を心にお迎えしましょう。

イエス様は、私たちを「罪から救う」救い主として、神から遣わされて生まれてきてくださいました(マタイ1:21)。

罪から救うために、まず、自分の罪に気付かせてくださいます。

そして、悔い改めを与えてくださいます。

今週、「悪に悪を返さないで、かえって祝福を祈りなさい」との御言葉を心にとどめてきました。

しかし、「祝福を祈る」とは、悪をそのまま笑って見逃すことではありません。

そうではなく、呪いや怨念を超えた深い愛をもって、彼が真実に神へと悔い改めて、罪から救われますようにと、悪人のために祈ることです。

悪人が悪人のまま真っ黒に染まって、神の怒りに引き裂かれる永遠の滅びに陥ってしまうことがないようにという祈りです。

その根本にあるのは、あの十字架の上での主イエスの執り成しの祈りでしょう。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。(ルカ23:34)」


私たちはみんなこのように、自分が他者に対して「悪」を行っていることも知らない悪人です。

そういう私たちを、罪から神へと向きを変えさせるために、主は生まれてきてくださったのです。


共に祈りましょう。

主よ、クリスマスを祝うこの時に、どうか私たちすべての罪人が、あなたと向き合い、自分と向き合い、悔い改めをなすことができますように。罪から救うために来てくださった、イエス・キリストの愛のゆえに・・。

2016. 12. 22  
Ⅰペトロ3:9の御言葉を心にとどめながら、一週間を過ごしています。

「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」

「祝福」とは、他のだれでもない、生けるまことの神による祝福です。

それは、私たちの命を守り、日々を潤し、愛を育んでくださる、静かな、しかし絶えず流れ続ける、神の継続的な働きかけです。

「祝福を受け継ぐ」というのは、天を高く指さす言葉でもあります。

時の向こうに約束された、永遠の財産の祝福を、相続するという希望です。そこには光という光があふれます。そこから零れ落ちた光のしずくが、今の生を照らします。

私たちは、キリストの救いのゆえに、神からいつもいつもいつもいつも祝福されています。

だからこそ、この祝福から離れてはいけません。心のおもむくままに悪に走るならば、呪いと怨念の世界に踏み込みます。

キリストはご自身が殺されることで、憎み殺し合う呪いの連鎖にケリをつけられたのです。

そして、ご自身を殺した者たちを、大いなる祝福に招いておられます。だから、私たちもまた・・。



共に祈りましょう。

主よ、今日も私たちに豊かな祝福をお与えください。私たちをおびやかす人にも、いらだたせる人にも、傷つけてくる人にも、祝福がありますように。

2016. 12. 21  
昨日は大変悲しい出来事が二つもありました。

トルコにおいて、ロシア大使が銃殺されました。緊張が続く両国関係の今後に、大きな不安があります。

ドイツにおいては、開催中のクリスマス市にトラックが突入し、12人が死亡したと聞きます。ISによるテロかとも言われています。

昨年だけで100万人を超える移民を受け入れてきたドイツの国で、市民の不満と不安が爆発することが懸念されます。

このような状況にあって、「悪に悪を返さず、祝福を祈りなさい」との主の教えが、今週私たちに与えられていることの意味を覚えます。

想像力をもって、当事者として考えたいのです。


私たちには「祝福を祈る」ことができないかもしれません。しかし、悪に悪を返すことの虚しさは分かります。

罪人の歴史は、それを繰り返してきました。そして残念ながら、今すでに大きな破局に向かって歴史は繰り返されつつあると、悲観せずにおれません。

復讐に復讐を重ねる世界は、泥沼のような地獄です。

そこには救いはないのです。それこそまさに、神の祝福から一番遠く離れてしまった世界なのです。

神が最も悲しまれる、罪の世界です。

イエス様は、そこから救い上げようとしてくださいました。

呪いと怨念と復讐に満ちた世界から、私たちを解放しようとしてくださいました。


イザヤ11:1-6に、「平和の王」として生まれてきてくださる救い主の預言があります。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根から若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。・・・正義をその腰の帯とし、真実を身に帯びる。」

その「若枝」の支配のもとで、殺し合うよりなかった者たちが、平和の中で憩うというのです。

「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子どもがそれを導く。牛も熊も共に草を食み・・、幼子はマムシの巣に手を入れる。

わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。」

今、祈ります。

主よ、平和の主よ。どうか大地を、神を知る知識で満たしてください。神の愛と秩序と平和が満ちますように。主よ、御国を来らせたまえ。御心の天になるごとく、地の上にも・・。
2016. 12. 20  
「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。(Ⅰペトロ3:9)」

今週私たちに、神様が与えて下さった御言葉です。

この教えは、聖書の中では何度も繰り返し与えられる大切な教えでもあります。

この言葉に難しいところは特にないと思うのです。誰にでもわかる。

でも、教えられている通りに生きてみようと思ったそばから、我が子の悪口に悪口を投げ返してしまうような自分にがっかりもします。



クリスチャンは偽善者だという批判も、こういう御言葉に由来することが多いかもしれません。

偉そうな教えを掲げるのに、自分たちは少しも実行しないと、批判されるのです。

私も洗礼を受ける前後くらいの若い頃、そんな侮蔑の声を向けられました。

すごく悔しく、どう言い返せばいいのかも分からず、恥を覚えました。

でも、そうやってこの教えと向き合おうともせずにニヤニヤと揚げ足をとりたがる人を見て、こんな大人になるくらいなら、偽善者と呼ばれてでも、キリストの教えに従おうとして苦悩するほうがよっぽどマシだと、後から思いました。

残念ながら、その方のために祝福を祈るということを、当時の私は知りませんでしたが・・。

今は、もう少し大人になったと思います。

そうやって批判したがる人の思いも、批判される自分たちの側の問題も、よく見えるようになりました。人間の罪ということが見えるようになりました。

ただ、今でもこの思いは同じです。偽善者と呼ばれてでも、キリストに従いたいと。

もし思いを共有してくださるなら、一緒に祈りましょう。



主よ。どうか今日一日、あなたの御言葉をしっかり覚えて過ごすことができますように。偽善者とさえ呼ばれないほどに、あなたの教えから離れ去っている私たちの現状を赦してください。悪に親しむ私たちの世界を赦してください。主よ、どうか今日、あなたの御言葉のとおりに生きる喜びを、私たちに与えてください。






プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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