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2017. 01. 31  
すみませんが、今日は朝寝坊してしまいました。

昨日、DVDで「風に立つライオン」という映画を観ました。さだまさしさんの同名の歌・小説をもとにした映画です。

アフリカの地で、スーダンの内戦で傷ついた兵士たちの治療をし、心身の傷ついた少年兵たちに寄り添い続ける、日本人の医師の物語でした。

素直に、とてもいい映画でした。おすすめします。

内容を話してしまうといけませんが、いくつかの聖句を想い起しながら、映画に見入っていました。

ヨハネ福音書8章の「姦通の女」の場面。イエス様によって、罪をゆるされ、存在をいやされた女性。

彼女に対してイエス様は言われました。「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

イエス様は、彼女の「これから」の時間をひらいてくださった。新しい生をひらいてくださった・・。

あるいは、ヨハネ福音書12:24「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

これは、イエス様ご自身の十字架の死によって、たくさんの人が救われるという救いを示して言葉ですが、そのようなイエスの献身にならう者たちの献身が、次の実を、また次の実を生み出すのです。


こんな御言葉を心にとどめながら、ぜひご覧になってください。分かち合うことができればうれしいです。

ちなみに、主人公は幼い頃に、シュバイツァーに憧れて医者になりました。

シュバイツァーは、アフリカに赴いた医師であり、偉大な音楽家であり、そして優れた聖書学者でありました。20世紀を代表する、キリスト者の偉人です。


共に祈りましょう。

天にまします、我らの父よ。あなたの愛と平和と正義が、あまねくこの世界に満ち、大地をいやしますように。人々の益のために奉仕するすべての者たちに、上よりの慰めと励ましがありますように。

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2017. 01. 28  
土曜日は宗教改革者カルヴァンの祈りを紹介しています。17回目です。

********
全能の神様、私たちは、私たちの罪によって、日々、自分自身を、あなたから遠ざけて止まないものです。

しかしあなたは、それでもなお私たちを悔い改めを勧め、手を差し伸べ、慈しみ深くあると約束してくださいますから、ありがとうございます。

どうか神様、私たちが片意地に罪を犯し続け、あなたの大いなる御仁慈にたいして、恩知らずとなってしまうことがないようにしてください。

私たちがあなたに立ち帰り、そうして私たちの全生活を、私たちの悔改めが真実であることの証しとして、ふさわしくなるようにならせてください。

また私たちが、ただあなたのみに従うことができるようにしてください。

私たちの堕落した肉の欲に、引きずり回されることがないように守ってください。

私たちが、常に揺るぎなく、私たちの目的に立ち続け、私たちの全生涯をつうじて、あなたにしたがうことができるように努力させてください。

そしてついに、あなたの天の御国において、私たちの従順の実に与ることができますように。

私たちの主イエス・キリストによって、アーメン。
2017. 01. 27  
我が家では時々子どもたちにお願いをして家族のためのお祈りをしてもらいますが、子どもたちのお祈りの言葉を聞いていましたら、「導いてください」という言葉が目立つのに気づきました。

それもかわいらしいことに、例えば「愛することを導いてください」のように、日本語としてはちょっとチグハグになっちゃうこともあるのですが、神様とおはなしする時の決まり文句のようにして「導いてください」と祈っているのですね。

それはきっと、私がそのように祈っているのを真似してるのだと思います。



旧約聖書の詩編23篇は、大変有名な慰め深い詩編ですが、このように歌われます。

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを・・憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたが、わたしと共にいてくださる。」

主はわたしを、正しい道に導かれると言われています。

死の陰の谷を行くような、どこにも光が見えないような試練の日々を過ごす時も、神は必ず私と共にいて、肩を組んでくださって、正しい道に導いてくださる。

私たちはそう信じます。

だからいつも、すべてを主にゆだねて、「主よ、私たちを導いてください」と祈るのです。



共に祈りましょう。

主よ、今日も私たちを正しい道に導いてください。今、迷いの道にある者と共にいて、光ある方へ導いてください。一人一人の抱えている重荷を思います。先が見えないで苦悩している者もいることでしょう。主よ、どうかあなたの全能の御手の中で、すべてをよく導いてください。なによりも私たちを、あなたとの命の交わりに導いてください。
2017. 01. 26  
クリスチャンに独特の言葉遣いを天国人のボキャブラリーとして紹介していますが、むしろ反対に、私が教会に通うようになってからあまり使わなくなった言葉というのもあります。

例えば、運がいいとか悪いとかと言う言葉は、全然使わなくなりましたね。

それまでは私は実は占いが大好きで、新聞の占いを毎日気にしては、今日は運勢がいいぞ悪いぞと一喜一憂していました。

今は、そういうことは考えなくなりました。それは、神様が私のために必要なすべてを備えてくださると、信じているからです。

私は神様の完全な守りの中に置かれていて、神様の御心でなければ、髪の毛一本さえ無駄に落ちることはないと信じているのです。

旧約聖書の詩編37:23にこうあります「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。」

あるいは、神を愛する信仰者には「万事が益となるように共に働く(ローマ8:28)」という言葉もあります。

万事が、つまりすべてのことが・・・。

アンラッキーに思えるつらい出来事も、苦しい試練も、すべては私に一番必要なことを知っていてくださる神が、私のために備えてくださったものであって、すべてのことが相働いて必ず益となる。

そのように神がすべてを備えてくださっている。

そう信じることができるようになって、私はもう占いがいらなくなったのです。


共に祈りましょう。

主よ、祈ろうと目を閉じると、この心の中に様々な思い煩いがあることに気付きます。あのことをこのことを心配し、あの人のこと、あの人のことと、たくさんの顔が走馬灯のように浮かびます。しかし、主よ、あなたの大いなる御手によって、もっともよい道を備えてください。
2017. 01. 25  
天国人のボキャブラリーとしてお送りしていますが、聖書をまだよく知らない初心者の方々を主な対象としています。

私自身にも、もちろんそういう初心者の時がありました。かなりダメな求道者だったと思います。

私は22歳の時にはじめて教会に足を踏み入れました。特に何か困っていたことがあったわけでもないし、真理を求めてなどとかっこいい理由があったわけでもありません。

ただ単に、結婚を約束していた人がクリスチャンだったから、日曜日に彼女といっしょにいたかったので一緒に教会に通い始めたというものです。

そういう私にとって、教会というところは不思議の国でした。

大きな会堂でみんなで讃美歌を歌っています。牧師さんのおはなしの意味はさっぱり分からないで、ほとんど毎週居眠りばかり。

でも、不思議と居心地がよくて、結局私はそれからずっと礼拝に通い続け、一年後には洗礼を受けることになりました。


そんな私ですが、今でもはっきり覚えているのは、はじめて教会に行った時に教えていただいたことです。

私は質問しました。「皆さんは何を信じているのですか。」

長老さんが教えてくれました。「自分のために、イエス・キリストが十字架で死んでくださったということだよ。」


私にはこの答えが不思議でなりませんでした。

自分のために、イエス・キリストが十字架で死んでくださった。

よく分からないけど、心に刺さって離れませんでした。

その時から、私の心に確かに十字架が打ち込まれたのです。それが、救いの始まりでした。

Ⅰペトロ2:24の御言葉です。「(イエス・キリストは)十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」


共に祈りましょう。

主よ、今日の一日を、十字架のキリストを仰いで歩みたいと願います。私のために命を捨ててくださった方の、愛を信じて歩みたいと思います。主よ、今日の私たちが罪を犯さないように。そして義に生きることができますように。
2017. 01. 24  
クリスチャンに独特の言葉遣いを天国人のボキャブラリーとしてシリーズで紹介していますが、そもそも「天国」という言葉が要チェックですね。

日本語でふつうに天国といいますと、いわゆるあの世の極楽浄土のことを思い浮かべると思います。そして、温泉に入ったりすると、「はー、天国だ」なんて言ったりしますね。

クリスチャンが天国という時も、もちろんそういうことも含むのですが、根本的に意味が違います。

クリスチャンにとって、天とは、神がおられるところです。だから、天の国は神の国とも言われます。

そして、天の国をいただくというのは、要するに神様に満たされるということです。

神に愛され、支えられ、神のもとでくつろぎ、慰めを受ける。

そして、新しい命を注がれ、神の教えに生きる力と勇気をいただいて、信仰と希望と愛をもって、キリストと共に歩み始める。

そういう人のことを、天の国に生きている人、天国人というのです。



イエス様は言われました。「心の貧しい人は幸いである。天の国はその人のものである。(マタイ5:3)」

自分には誇るべきなにものもないと、心が砕かれ打ちひしがれている・・・、でも、そんなあなたが幸いだ、喜んでいいんだよ。

そういうあなたこそが、神様を心にお迎えすることができる。

神様は、そのあなたと共におられる。あなたを天国に招いておられると、教えてくださったのです。



共に祈りましょう。

主よ、今日もあなたが私たちのすべてにおいてすべてであってください。あなたの愛で満たしてください。あなたの喜びで満たしてください。今、悲しんでいる人、打ちひしがれている人に、主よ、幸いだと呼びかけて、天の国の慰めをもたらしてください。
2017. 01. 21  
明日の礼拝は、O姉の長老任職・就職式、またD姉の執事任職・就職式があります。お二人のためにお祈りください。

土曜日は、宗教改革者カルヴァンの祈りを紹介しています。16回目です。

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全能の神よ。私たちは、豊かな祝福を与えられているにもかかわらず、公然とあなたに手向かいを続けているかのように振る舞うものです。

私たちの非行によって、あなたをお怒らせすることを止めないものでございます。

神よ、あなたは、私たちを悔い改めに招くために、歴史において多くの実例を与えてくださいました。

どうか私たちがそれらによって戒められて、私たちの堕落腐敗した性質を抑え、そうして私たち自身をあなたの御用のためにささげることができるようにしてください。

どうか私たちを用いて、あなたの御名の栄光をあらわさせてください。

あなたの御憐れみを遠く広く及ぼしたもうために、神よ、どうか私たちを用いてください。

今は滅びのうちにあると思われる人々を救いの道に導き入れるために、私たちを骨折り励ましめてください。

そうして、あなたの御独り子キリストによって獲得された救いが、あまねくすべての国の人々によって知られ、かつ信じ受け入れられますように。

アーメン。
2017. 01. 20  
水曜日の祈祷会の時に、古い会員の方々から、スタブ先生の思い出を分ち合っていただきました。スタブ先生は、45年前に勝田台教会の開拓伝道に尽力してくださった最初の宣教師です。

そのスタブ先生の口癖は、「みなさん、喜びましょう」であったそうです。

この先生自身が喜びの源のような人で、一緒にいるとうれしくなるような人であったようですが、「みなさん、喜びましょう。神様が共におられるのですから、喜びましょう」と、決して上手ではない日本語で、いつも穏やかに語っておられたそうです。

これも天国人の言葉遣いだなと思います。

もちろんこれも、聖書の御言葉に由来するものです。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」、これはフィリピ4:4の有名な言葉です。

喜びなさい、喜びなさい。

これは、前向きな心の持ち方のようなものを薦めているわけではありません。私たちの心の持ちよう次第ですべてはハッピーになる、なんてことじゃないのです。

そうじゃなくて、私は神様に愛されている・・ただそのことが私たちの喜びです。

この神の愛を私から取り去ることは誰にもできません。

あらゆる喜びの源である神が、いつも私と共におられる。だから、どんな時も私たちは喜んでいます。

喜びは、悲しみの反対じゃないのです。悲しい時も、苦しい時も、天国人はいつも喜んでいるのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの命に結ばれて、今日も一日を喜び生きることができますように。あなたの光に包まれて、今日も暗い闇の中にも希望を見いだすことができますように。あなたの喜びに満たされて、今日与えられるすべての音色を、食事を、目に映るすべてを、新しい発見を、人間のやさしさを・・・、喜び楽しむことができますように。
2017. 01. 19  
クリスチャンに独特の言葉遣いを天国人のボキャブラリーとして紹介していますが、「そういう意味では賜物って言葉もそうですね。賜物って言い方は、教会に来て初めて覚えたかも」と、昨年洗礼を受けた方が教えてくれました。

確かに天国人は、「あの人はオルガンの賜物がある」とか「子どもと遊ぶ賜物がある」という言い方をします。

普通の日本語では、与えられた才能という言葉が一番近いでしょうか。

それを賜物という風に言うのは、「それを神様から与えていただいた」ということを強く意識するからです。

大事なのは、与えられたのは、用いるためだということです。

しかも自分勝手に用いるのではない。神様の目的に沿って用いるためです。

神様の宮である教会に仕え、その教会を中心とした神の国を建設していく。そのために、私たちにはそれぞれに恵みの賜物が与えられます。

ローマ12:7にもこんな風に言われています。「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい・・」

こんな風に私たちには、それぞれに賜物が与えられます。

しかもそれは、特別な一握りの人にだけ与えられるのではなく、誰にもそれぞれに、ふさわしいものが与えられているのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日の日に、あなたがこの地において繰り広げようとしておられる恵みの事業に、私たちそれぞれの賜物をも用いてください。それぞれが、それぞれに与えられている賜物をよく自覚し、それをあなたのために、豊かに用いることができますように。
2017. 01. 18  
平和という言葉は日本語でも大変大切にされていると思いますが、クリスチャンの天国言葉においても大変重要で愛されています。

そして、独特の使い方があります。キリストによって「神様との間に平和をいただく」という言い方をするのです(ローマ5:1)。

それは、神様と私たちとの間でこじれきってしまった関係を、修復していただくということです。


私たちはみんな神様の目から見て、帰るに帰れなくなって困り果てている家出息子のようなものです。

ルカ福音書15章に有名な「放蕩息子のたとえ」がありますが、故郷を飛び出して自分の好き勝手にふるまったあげく、破産してしまってブタのえさを食べるよりないほどに落ちぶれて、という家出息子が出て来ます。

神様の目から見て、私たちはみんなそんな風に、自分勝手に滅びの道に迷い込んだ罪人です。

本当に自分勝手なんですね、人間って。自分のことばっかりで、神様の思いなんて、少しも大事にしようとしない。そういう私たちだから、今色んなことが明らかに行き詰っているのではないでしょうか。

でも、神様は、そういう罪人が帰ってくるのを待っておられます。

そして、すべての罪を赦し、関係を修復しようとしてくださいます。

この神様の大きな腕の中に帰っていって、神様との間に平和をいただく。まず、そこから始めないといけないのです。


共に祈りましょう。

主よ、自分勝手なわたしたちのエゴイズムを砕いてくださって、あなたと正しく向き合うことができるようにしてください。あなたの思いに生きることができるようにしてください。あなたを愛し、隣人を愛することができるようにしてください。私たち人間の本来の麗しい姿を回復してください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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