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2017. 02. 14  
今日はパソコンの調子が悪くて、遅くなってしまいました。

ここのところ、詩編34篇の言葉にずっと心をとどめています。特に19-20節を心にとどめて祈っています。お一人お一人の抱えている重荷を思いながら、祈っています。

私訳でお届けします。

「主は近くにおられる、心砕かれた者たちのその近くに。
 霊の打ちのめされた者を救われる。
 義なる者の災いは多い。
 だが、そのすべてから、主は彼を救い出される。
 その骨をことごとく守られる。
 一つだに折られることはない。」

この詩編は原語のヘブライ語では覚えやすいイロハ歌になっていて、少年の教育を意図して編まれたものかもしれません。

主に愛され主を愛し、主と共に歩む「義なる者」の幸いを教え伝える歌になっています。

しかし面白いことに、義なる者の「災い」についても教えられているところが、この詩編のミソです。

主を畏れ、主の道に従う「幸い」に招かれた者が、地上的な幸福を享受するとは限りません。

かえって病気、事故、人間関係、迫害・・その他の災いに晒されることは多い。

そこで心破れはて、存在を粉々に「くだかれ」、「打ちのめされる」ような挫折を味わう。

しかしその苦難のただなかに、救いのみ手をさしのべられる神を、「近くにおられる」神としてもつことができる。

そんな、信仰者の「幸い」を深く見つめているのが詩編34篇なのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日も私たちの近くにいてください。心痛むあの人と共にいてください。苦悩しているあの人と共にいてください。愛する者を看病し続けるあの人と共にいてください。今日もがんばって働くあの人と共にいてください。主よ、私たちをいつも救い出してください。
2017. 02. 09  
明日明後日の配信はお休みいたします。
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一昨日「ゆだねる」について書きましたが、むしろ努力と根性が大切だという誤解を生んでいるかもしれませんので、もう一度違う角度から書いてみます。

クリスチャンの独特の言葉遣いに「神様におゆだねする」という言い方があります。

しかし、それがどういうことなのか、「私はゆだねるということがよく分からない」という声もしばしば聞きます。実は私自身もそうです。

一切の自分の力、人間の力を捨てて、神様に全面的に信頼するということであるのは分かるのですが、とてもそのような信仰を持つことができません。

ただ、自分が初めて神様にお祈りをした時のことを思い出すと、あれが神様にゆだねるということだったかとも思います。

その時私はまだ会社勤めの営業マンでしたが、上司との確執に悩み、彼への憎しみが自分の中で悪魔のようにうごめいているのを覚えて、恐ろしくなりました。

だから、教会の皆さんがやっているように、初めて手を組んでお祈りしました。

神様、助けてください、このままでは僕はダメになります、助けて下さいと祈りました。

見えない神様に向かって言葉を発しました。それは私にとって、崖から飛び降りるのにも似た心境でした。

でも、そうして空中に自分自身を投げ出したら、神様は大きな手で私を受け入れてくださいました。その時の平安を今も覚えています。

神様にゆだねるというのは、きっと私たちがどうこうすることではないのでしょう。

無力で行き詰って、どうにもならない私たちを、丸ごと神様が受け入れ背負ってくださるのです。

もう一度、詩編55:23を読みましょう。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる。」


共に祈りましょう。

主よ、今日も私の心を、体を、あなたの大いなる手におゆだねします。私の愛する人たちを、あなたの大いなる手におゆだねします。私の心配のひとつひとつを、あなたの大いなる手におゆだねします。主よ、すべてを支え、よく計らってください。
2017. 02. 08  
クリスチャンに独特の言葉遣いを天国人のボキャブラリーとして紹介していますが、今日は「砕かれる」という言い方を紹介します。

「あの人は砕かれた人だ」という風に言われます。

クリスチャンの成長の理想は、立派な清く正しい人になるというよりも、砕かれた人になることではないかと思います。

それはどういうことかといえば、自らの罪深さをよく知っている人ということです。

大いなる聖なる神様の前での自分の小ささ、いやしさ、みじめさ、貧しさをよく知っている人。

人生の様々な経験の中で、そういう自分の罪深さ、人間の罪の本質を思い知らされてしまった人。

でも、だからこそ、そういう自分に注がれている神の愛に、深く感動している人。

そして、神から与えられている人生に感謝し、出会いに感謝し、小さな喜びをひとつひとつ丁寧に拾いながら、毎日神を賛美して生きる人。

そういう人のことを「砕かれた人」というように思います。


クリスチャンの歩みは、歩めば歩むほどに自分の罪深さを思い知らされていく歩みです。

でも、そのようにして砕かれた魂だからこそ、御言葉の命の水がしみとおっていくのです。

詩編34:19 「主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。」

詩編51:19 「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊/打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」


共に祈りましょう。

主よ、このような私が今日も生かされ、あなたの子として愛されていることを、かたじけなく思います。あなたと共に歩ませてください。まことに罪深い者ですが、自分の罪と、また世の罪と、戦うことができますように。
2017. 02. 07  
最近は「努力」とか「根性」とかという言葉があまり好まれていないかもしれません。

考えてみると、聖書にもそう翻訳される言葉はないですね。

クリスチャンは、「がんばる」とか、「がんばって!!」という言い方をあまりしないように思います。

それはきっと、すべてが神様の恵みであって、自分でがんばって成し遂げるものではない、恵みによって成し遂げさせていただくものだと信じているからです。

でも、だからといって、クリスチャンががんばらないわけではありません。

私の友人や先輩たちには、大変な努力家や根性の持主が多くいます。

決して最後まであきらめないで、手を抜かないで、自分にできることをやりとげようとするのです。

そういう努力を支えているのは、神への信仰だと思います。

私たちの地上における営みは決してむなしくは終わらないと信じているのです。

罪人である人間には限界があります。がんばってもできないことがあります。

でも神は、私たちの思いを超えて、必ず最もよい道を備えてくださいます。

だから、できるかぎりのことをしたら、あとは「神様にゆだねる」という言い方をするのです。

詩編55:23を読みましょう。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる。」


共に祈りましょう。

主よ、今日も私たちの営みのすべてに目を注ぎ、恵みによってすべてを整え、励ましてください。幼子たちがきれいな言葉を覚えることができますように。労働に従事する者たちが達成感を味わうことができますように。学ぶ者たちに新しい発見がありますように。主よ、すべてをあなたにおゆだねします。
2017. 02. 03  
昨日の続きです。

罪人の滅びではなく救いを望み、その悔い改めを待っておられる神の「忍耐」について学びました。

お子さんがいらっしゃる方であれば、そんな「忍耐」を多かれ少なかれ経験しておられるかもしれません。

「愛は忍耐強い(Ⅰコリント13:4)」とは実に至言だと思います。


しかし、人間はそんな神の思いを知ろうともせず、親不孝を重ねます。それが、人間の「罪」ということです。

そんな私たち「罪人」に対する警告が、ローマ2:4にあります。

「・・神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたはかたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日にあらわれるでしょう。」

いつまでも神様に、忍耐を強いたままでいるのは、あまりに申し訳ありません。


最後に思い出したいのは、ルカ15:11-32の「放蕩息子のたとえ」です。

私は常々、これは「放蕩息子のたとえ」というより、「愚かな父親のたとえ」というほうがふさわしいのではないかと思っています。

その親馬鹿な、愚かしいほどに寛大な父の愛こそが、このたとえの主題です。

父のもとから去って行き、放蕩の限りをつくして、財産をくいつぶして落ちぶれた弟息子。

しかし、彼がとぼとぼと帰って来た時、父は諸手を挙げて迎え入れ、彼への愛を隠しません。

この父の振る舞いが、「忍耐して待っておられる」神の愛の爆発なのです。

神はそんな常軌を逸した父の愛をもって、罪人のひとりひとりへの愛を決して失うことができず、私たちの「悔い改め=回心、全面的方向転換」を待ち続けておられるのです。


共に祈りましょう。

主よ、わが父よ。待ち続けておられるあなたの忍耐に気付かぬままに過ごした私たちの人生を、どうかおゆるしください。どうかそれぞれにふさわしい悔い改めに導いてください。あなたを喜ばせてさしあげることができますように。
2017. 02. 02  
今週の日曜日の礼拝では、Ⅰペトロ3:17-22を分かち合いましたが、その中で「ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者」とありました(20節)。

「神様が『忍耐して待っておられる』ということを、はじめて考えました」との感想もいただきましたので、そのことに関して少し聖書研究してみましょう。


同じペトロが書いた、Ⅱペトロ3:9にはこうあります。

「(最後の審判の日が到来することに関して)ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」

このように、神は罪人の滅びではなく、悔い改めを待っておられます。願っておられます。その忍耐こそを、神の愛というのです。

「愛は忍耐強い(Ⅰコリント13:4)」とあるとおりです。


旧約聖書エゼキエル33:11にこうあります。

「・・・わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」

あるいは、Ⅰテモテ2:4にはこうあります。

「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」

これが、人間に対する神の思いです。神の愛です。


長くなりますので、続きはまた明日にします。

詩編145:8-9に導かれて、共に祈りましょう。

「主は恵みに富み、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに満ちておられます。主はすべてのものに恵みを与え、造られたすべてのものを憐れんでくださいます。」

主よ、あなたの愛に感謝します。その愛に応えるにはどうすればよいでしょうか。今日の日に、あらゆる場面において、そのことを思い巡らしたいと思います。主よ、わが魂を導いてください。



2017. 02. 01  
昨晩は深夜に帰宅しましたので、また寝坊してしまって、十分な準備ができません。おゆるしください。

東京の御茶ノ水に、「御茶ノ水クリスチャンセンター(通称OCC)」というビルがあります。

その中にはキリスト教書店もありますし、いろんな講演やイベントも開催されますから、ぜひ一度のぞいてみてください。

そのOCCで行われている、「OCC神学研究会」という集まりに招いていただいて、教派を超えて、有志の仲間で研鑽を積んでいます。

牧師のほかに出版社の編集者もいらっしゃったり、いずれも各教派・団体で大活躍しておられる方々で刺激的です。

今は、朝岡勝という同盟教団の先生が執筆しようとしている「教会に生きる喜び-教会論入門-」という本のために、できあがってきた原稿をもとに学ばせていただくとともに、より豊かな内容になることを願って、みんなで様々な角度からコメントさせていただいたりしています。

それぞれに時間のない中、このような共同研究によって励まし合い、学び合い、夜遅くまで語らうことができるのは幸せなことです。

昨日は、「主の道を伝え、主の道に生きる:伝道」というテーマでした。

いただいた原稿の中から、一部だけお分かちさせていただきます。



「私たちが伝え、生きる道。それは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネ14:6)」と言われた主イエスご自身です。

・・・「わたしが道なのだ」との主イエスの言葉には、私たちを引き受ける責任の響きがあります。

「道」はただ眺めているだけでは意味がありません。いくら地図を広げて道を調べて、その道筋を頭の中で思い巡らしても、実際にその道に立って、自分の足で一歩を踏み出す決断をし、そして実際にその一歩を歩み出さなければ、その道を通って救いに至ることはないのです。」


共に祈りましょう。

主よ、イエス・キリストという道を教えてくださって、ありがとうございます。イエスを信じ、イエスに従い、イエスと共に、イエスの愛の中で、永遠の命へといたる真理の道を、喜び歩むことができますように。

プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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