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2017. 02. 28  
クリスチャンに独特の言葉遣いを天国人のボキャブラリーとして紹介していますが、今日は「仕える」という言葉を紹介します。

私は教会に来るまでは、ほとんど「仕える」という言葉を用いた記憶がありません。

一般的には、上司に仕えるとか、会社に仕えるなどと言う場合があるかもしれませんが、私自身はそのような生き方を避けてきた人間でしたので、そういう言葉遣いをしたことがありません。

しかし、教会に来て、聖書を読みましたら「互いに仕えなさい」と何度も書かれています。

正直言って、最初は戸惑いました。自分のためではなく、他者に仕えるために生きるということが、受け入れ難かったのです。

イエス様はこう言われました。

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、みなに仕える者になり、いちばん上になりたい者は、みなの僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命をささげるために来たのと同じように。(マタイ20:26-28)」

この世の価値観をまったくひっくり返したような言葉ですね。

でも今の私には、こういう言葉が本当に胸に迫ってきます。

そんな風に生きることはできないけど、そんな風に生きたいと願うようになりました。

イエスがご自身の命をささげて、罪深い自我にまみれた私を解き放ってくださったからです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたが私たちにあずけてくださったそれぞれの賜物(才能、財産)を生かして、互いに仕えなさいというあなたからのご命令に、心とどめる一週間にしたいと願います。主よ、互いに仕え合う喜びを豊かに教えてください。
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2017. 02. 25  
土曜日はカルヴァンの祈りを紹介しています。19回目です。

********
全能の神よ、あなたは、あなたの民がその産業の地を追われた時にも、変わりないあなたの御霊の恩恵をもって彼らを祝福し、ドン底の深みからさえ預言者を起こし、あなたの民がほとんど全く絶望であった時に、彼らを命へと回復させてくださいました。

されば、ああ神よ、あなたの教会は、この頃、御手によって悲惨な苦悩のなかにおかれておりますけれども、どうかあなたの御慰めをもっていさせてください。

私たちが死のただ中にあっても、あなたの御あわれみによって、生命を期待することができることを、教えてください。

そうして、あなたがご自身の事を、私たちに和らぎたもう御父として示してくださるまで、あなたの懲らしめを忍び受けることができるようにしてください。

そしてついに、私たちが、私たちの主イエス・キリストによって、満ち足りた幸福を享受する、喜ばしい御国に集められることを得させてください。

アーメン。
2017. 02. 24  
日本では古くから「イワシの頭も信心から」という言葉がありまして、どんなくだらないものでも「信じる」者には尊いものになる、と。

これは、大きな皮肉でもあるのでしょうが、とにかくこんな具合に、「何を信じるか」よりも、「私が信じるか否か」ということに重きが置かれてきたのだと思います。

そうしますと、「信じてる」ならもう十分。難しいことは分からなくてもいい。・・ということになりがちです。

しかし、それでは「何を」信じているのかはあいまいなままです。

そうしますと結局は、「自分」が前に出て来ます。「自分」がどう思うか、どう信じるか次第になってきます。

そして残念ながら、「自分」というのは小さく、自分勝手で、またすぐに揺れ動いていくものです。

ですから、「自分」がどう思うか、どう信じるかにこだわる前に、ちゃんと聖書を読んで、歴史的教理を学んで、「何を」信じているのかを確認することが大切です。

聖書には、神はどういう方だと書かれているか。キリストがどういう方だと教えられているか。

神の目に映る今の自分の姿は、どういうものか。そして、神は、私をどのような姿に変えようとしておられるのか。

すべては、聖書をちゃんと読んでみるところから、分かってくることです。

このように書かれている通りです。

「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いの導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をする上に有益です。(Ⅱテモテ3:15-16)」


共に祈りましょう。

主よ、今日も聖書を通し、あなたの恵みを教えてください。今、熱心に聖書に取り組む方々を励ましてください。今、礼拝に集うことのできない方々も、聖書を通して、あなたの命に触れることができますように。
2017. 02. 23  
「自分」というのは、実に、あまりにも小さいものです。

昔、「王様のレストラン」という大好きなドラマがありましたが、伝説のギャルソン(給仕役)と呼ばれる主人公が、女性シェフに対して「あなたには豊かな才能がある」と励ます場面があります。

しかし彼女は自分にまったく自信がなく、「自分のことはよく分かっている」とつっぱねます。

それに対して、主人公がこう言うのです。「あなたは自分のことしか知らない。わたしは、100人のシェフを知っている。」

私たちも、「自分」のことしか知らない者です。いや、本当は、「自分」のことさえ全然知らない。


詩編139篇は、もう何度も取り上げている詩編で、その全体が重要です。今日は特に、16-18節を読みましょう。

「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。
わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。
まだその一日も造られないうちから。
あなたの御計らいは、わたしにとっていかに貴いことか。
神よ、いかにそれは数多いことか。
数えようとしても、砂の粒より多く
その果てを極めたと思っても、わたしはなお、あなたの中にいる。」

神が私を造り、組み立ててくださいました。私が生まれる前から私を知り、「わたしの日々=生涯」をすべてご計画のうちに収めてくださいました。

私のこれまでの人生に、神が備えてくださった貴い「御計らい」は数えきれず、すべてをとらえることはできません。

むしろ詩人が気づいたのは、神をとらえようとする私の存在そのものが、大いなる恵みの御手の中にとらえられ、守られているということでした。

この神様が、私の弱さも強さも、醜さもすばらしさも、私自身よりもはるかによく知っておられます。

私は、こんなにちっぽけなのに、大きな大きな神様が、すべてを知り、すべてを備えていてくださいます。

だから大事になるのは、この神様が私に示してくださる道を、聖書からちゃんと学ぶことなのですが、続きはまた明日。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの御計らいは、私たちにとっていかに貴いことか、いかに数多いことか。今、傷んでいる者をも、悩んでいる者をも、あなたの恵みの手の中で、守り、導き、ふさわしくお計らいくださいますように。




2017. 02. 22  
全的堕落・・・ということを考えることからスタートしましょう。

私たちは罪人であり、よいものを一切持っていません。だから、自分で自分を、神様の合格ラインに導くことは絶対にできません。

神様を知ることもできません。信じることもできません。従うことなんて、できるわけもありません。

しかし、そんな私が、今、神様を知っているとしたら・・。信じているとしたら・・。そして、従いたいと願っているとしたら・・。

それはなぜか?と考えるなら、ただ、神の恵みによってそうしていただいたから、としか考えることはできません。


Ⅰペトロ1:2にこういう言葉があります。

「あなたがたは、父である神があらかじめ建てられたご計画に基づいて、霊によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、またその血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。」

「あらかじめ建てられたご計画に基づいて」とは、神が前もって知っておられたという言葉です。

私が神を知るよりも、ずっと前から神の方が私を知っていてくださって、選んでくださっていたというのです。

ある女性は、教会に通い始めるずっと前から、自分はいつか洗礼を受けることになるのではないかと感じていたそうです。

皆さんお一人一人にも、振り返ってみればずっと前から、導きがあったということがあるのではないでしょうか。

あの時、あの人からの電話がなければ・・。学校前で配られた、あの聖書・・。幼いころに通っていた日曜学校のあたたかい思い出・・。

神は私たちのことをずっと前からよく知って、「聖なる者」とするための計画を立てておられたから、それぞれに不思議な導きがあるのです。

私たちは誰も、神の恵みによって選ばれたからこそ、今の自分があるのです。

そして、私たちの今日までを守り導いてくださった神は、決して裏切ることなく、見捨てることなく、永遠の命にいたるまで支え励ましてくださいます。

だからこそ、今日という日を、この恵みへの感謝の応答として、誠実に生きたいと思うのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちには未来は見えません。しかし、過去に与えられたあなたの恵みが見えます。そして、今、あなたが共にいてくださることが分かります。主よ、私に見える、この今を、精一杯歩ませてください。あなたが見ておられる、私の未来に向かって、私を力強く導いてください。
2017. 02. 21  
ある方が今問うておられることに対するヒントになればという思いで、しばらく考えてみます。

聖書には、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる(マタイ24:13)」とか、「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい(Ⅰペトロ5:9)」などの教えがあります。

この地上世界には、信仰者を揺さぶり、つまづかせる誘惑や試練に満ちています。迫害もあります。

そういう中で、イエス・キリストへの信仰を保持するには、自分の意志であり決断が必要です。

何にもしないでイエス様から離れたままで、あるいは極端の話、神をまったく否定し背教しても大丈夫とは、聖書には教えられていないと思います。

ただし、「自力」では決して私たちは、救いに至ることはできません。

全面的に堕落しているからです。人間には、自分を自分で救う力がないのです。それが罪人というものです。

私たちの決断や意志が100%必要なのと同時に、聖霊による救いの導き・守り・支えという「神の力」が100%必要です。

いやむしろ、その「神の力」によって支えられる中で、私たちの「自力」が引き出されてくるというほうが正確です。

耐え忍ぶ信仰も、意志も、決断も、すべては「神の力」によって、私たちの内から引き出されてくるのです。



Ⅰペトロ1:5にはこうあります。「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。」

「神の力」による手厚い守りの中で、わたしの「信仰」が引き出され、終わりの時に救いを受けるようにと確実に守られていると書かれています。

この「神の力」と「守り」に信頼して、わたしはただ今の瞬間を、信仰者として懸命に生きる。明日のことなど思い煩ず。

それでいいのだと思います。その「今」の積み重ねが、信仰の成熟に通じます。続きはまた明日。


共に祈りましょう。

主よ、今日もわたしたちを守って下さり、信仰を保たせてください。希望を保たせてください。愛を保たせてください。私たちの罪が、あなたの御業を邪魔することがありませんように。






2017. 02. 18  
土曜日は宗教改革者カルヴァンの祈りを紹介しています。18回目です。

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全能の神様、私たちはすでに、望みにおいて、永遠の嗣業の門口を入らせていただきました。

また私たちのかしらであり、私たちの救いの初穂であり給うキリストが、天に迎え入れられ給うた結果として、そこに私たちのための住み家があることを知っております。

ですから、どうか神よ、私たちがその目的地に到達するまで、いよいよ私たちをあなたの聖なる御召命の道に進ませてください。

そうしてあなたが、私たちの主キリストによって、この世において、私たちにその試みを与えていたもう、あの永遠の光栄を、受け取らせてくださいますように。

アーメン。
2017. 02. 17  
今週は、イエス・キリストの最後の審判ということが、頭を離れません。

その関連で、テモテへの手紙第二の4章1-5節の御言葉をお届けします。

「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。

御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。

だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」



この手紙を書いたパウロは、キリストの再臨と最後の審判とを思いつつ、この命令を与えています。

「最後の審判で、悪者は一掃されるぞ、今に見ておれ!!」、という気持ちは少しもないようです。

むしろ、その審判に耐える者を一人でも多く育てるように、福音の真理を教えなさいと命じられています。

今の時代はまさに、「だれも健全な教えを聞こうとしない時」なのかもしれません。しかし、「折がよくても悪くても」、福音の真理に生き、証ししていく。

それは、伝道者として召された者だけに限らない、すべてのキリスト者の使命なのです。



共に祈りましょう。

主よ、あなたのもとへと集められ、あなたの思いを知ることがゆるされた者たちの幸いを感謝します。どうか私たちの今日の一日が、救いの喜びの証しとなり、周囲の人々があなたを知ることができますように。
2017. 02. 16  
この毎朝の配信は、私の様な能力の低い牧師にとっては、毎朝の産みの苦しみです。

聖書と、ニュースと、お一人お一人(自分も含めて)の現実・生活とを思い巡らしながら、私は何を取り次ぐべきかと、神に祈り求める日々です。

何をお届けすればいいのかが全く見えないまま、悩みながら前日の眠りにつくこともしばしばです。

だからでしょうか。時々、夢の中で、まるでお告げを受けたように、言葉が与えられます。

今朝は、「正しい者としてではなく、ただ、人間の罪を知っている者として!!」という言葉で目が覚めました。


実はこのことは、ここのところいつも考えさせられていることです。

昨日、最後の審判の話をしましたが、私たちは「正しい者」の立場で、そのことを考えることはできないものです。

「正しい者はいない。一人もいない。(ローマ3:10)」とあるように、クリスチャンといえども、完全無欠ではなく「罪」を抱えています。

そういう者が、イエス・キリストの救いによって、ただ神の恵みによって「義=合格」としていただいて、永遠の滅びを免れさせていただくに過ぎません。

だから、「正しい者」として、まるで神になりかわって審判者のようにふるまうことは、決してゆるされません。


まことの神様を知り、神の道に生き始めると、地上の腐敗した世界が放ついやなにおいに気付いて、吐き気さえ催すようになるものです。

人間の傲慢が見えてきます。快楽主義、自己主義が見えてきます。不正義が見えてきます。

しかし、私もまた、その地上の一員です。いやなにおいを放つ者の一人です。

ただ、何かが違うとすれば、神の恵みによって、まことの神様を知ることがゆるされたということだけです。

そして、神の目に映る自分の、罪深い姿を知ったということ。しかも、そういう者が、なお愛されていると知ったということだけです。

そういう真理を知っている者として、私たちは、この地上世界に、イエス様から遣わされているのです。

イエスはこう祈ってくださいました。「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。(ヨハネ17:17-19)」


共に祈りましょう。

主よ、あなたの前で、すべての罪人が悔い砕け、あなたを仰ぎ見ることができますように。あなたの愛と義と平和が、この地に満ちますように。わたしたちの心に満ちますように。


2017. 02. 15  
先の日曜日の御言葉に、「生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方」という表現がありました(Ⅰペトロ4:5)。

これは、最後の審判における審判者として再臨されるイエス・キリストのことを言っています。

使徒言行録10:42にも、「イエスは、ご自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを人々に伝えた」、とあります。

キリストが再び来られる時、これまでに地上で生きて死んでいった、人間という人間がことごとく御前に引き出され、永遠の命と死とにふるいわけられるという最後の審判。



今日は、ハイデルベルク信仰問答52問を分ち合って、その時を待ち望む態度を学びましょう。

古代から今にいたるまで、世々のクリスチャンは、究極の希望として、キリストの再臨を待ち望んできました。

かつての私は、なんと荒唐無稽なことかと、あきれるような思いになったものですが、今は、この「慰め」がとてもよく分かるのです。


ハイデルベルク52問

「生ける者と死ねる者とを審」かれるためのキリストの再臨は、あなたをどのように慰めるのですか。

答:わたしがあらゆる悲しみや迫害の中でも頭を上げて、かつてわたしのために神の裁きに自らを差し出し、すべての呪いをわたしから取り去ってくださった、まさにその裁き主が天から来られることを、待ち望むように、です。

この方は、ご自分とわたしの敵を、ことごとく永遠の刑罰に投げ込まれる一方、わたしを、すべての選ばれた者たちと共にその御許へ、すなわち天の喜びと栄光の中へと迎え入れてくださるのです。



共に祈りましょう。

主よ、古代の信者らと声を合わせて「アーメン、主イエスよ、すぐに来てください(黙示録22:20)」と願います。主よ、希望の完成をもたらしてください。その永遠の希望の光によって、今日のわたしたちの営みを照らしてください。


プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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