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2017. 04. 28  
今日も創世記4,5章を分かち合いましょう。

カインがアベルを殺した、人類最初の殺人の悲劇は、親であるアダムとエバの大きな悲しみであり、人間が味わった深い試練でした。

アベルを失い、カインはさすらう者となって失われました。

ここから広がっていくはずの祝福の歴史が失われたのです。

これはもうどうすることもできません。人間の力では取り返すことはできないのです。神が、憐れんでくださらなければ・・・。

そのようにして打ちひしがれているアダムとエバを主は憐れみ、新たな子を与え、新しい歴史を始めさせてくださいました。

4章25,26節にこう書かれています。

「再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。
 セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」

セトという名には、「神がこの愚かな私たちに授けてくださった・・」という、深い感謝と、悔い改めが響いています。

そして、そのセトの子であるエノシュの時代に、人々は「主の御名を呼び始めた」と伝えられています。

人間が文化の発展とともに傲慢になり、いよいよおのれの力を過信していくカインの系譜の歴史が描かれる一方で、このような、神へと思いを向けた人たちの歴史がはじまったことをも聖書は伝えます。

ここに、世界の希望があるのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの憐れみによって人間の歴史はつながれ、私たちの命はつながれていることを覚えます。あなたの御名を呼びます。主よ、あなたの憐れみを求めます。主よ、人類を助けてください。私が祈りに覚えるお一人一人を助けてください。私を、憐れんでください。
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2017. 04. 27  
昨日に引続き、カインとアベルの物語を分かち合いましょう。

自分のささげものが神に選ばれず、弟が選ばれたということをねたみ、怒って顔を伏せてしまったカインでした。

そのようにして心を閉ざし、神との対話を拒んだ時、彼は「罪」にのみこまれて、人類最初の殺人を行ったのです。

そういうカインの過ちに対して下された神の審判に、カインは恐れおののいてこう言います。

この神の裁きに、カインはおののきます。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。(13節)」

カインが恐れているのは、誰かから殺される恐怖です。それは、彼自身が殺した者であるからこそ分かることです。

自分は殺したけど殺されたくはない、とても身勝手な思いであります。

そして、神の御顔から隠されることを恐れています。

それは、神の目の届かない場所に追いやられるということです。神の守りが与えられねば、私は殺されてしまうと怯えているのです。

これもまた勝手なことですね。神に対して心を閉ざし、「顔を伏せた」のはカインの方なのに・・・。

しかし、しかし、そういうカインに対して、神は憐れみを示されます。それが15節の言葉です。

「主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしをつけられた」とあります。

これは神の守りのしるしです。「これは私の愛するものだ、手出しをするな」と示しておられるようです。

カインは、ねじけてしまったすね者でした。でも神は、そのカインをまだ守られるのです。

誰にも手出しはさせない。できそこないの息子だが、私の大切な子だ、だれにも手出しはさせない、と。


共に祈りましょう。

主よ、私もまた、身勝手なカインの血を受け継ぐ罪人です。主よ、今日の日、あなたの憐れみによって生かしてください。あらゆる危険や誘惑から守ってください。
2017. 04. 26  
創世記4章には、カインとアベルの物語が伝えられています。人類最初の兄弟ゲンカであり、殺人事件です。

この悲劇は、ねたみゆえの八つ当たりによって起こりました。どうして弟が選ばれて、自分が選ばれない・・と。

私たちは、人と比較するから惨めになります。十戒に「ほしがることなかれ」とあるのは、実はとても重要なのです。

ねたみが劣等感を呼び、内なる悪魔を呼び覚まします。

この時以来、悠久の歴史を経ても、今も何一つ変わらない罪人の習性です。


そして、カインは「激しく怒って顔を伏せた(5節)」とあります。つまり、かたくなに心を閉ざし、神との対話を拒んだということです。

それが決定的な過ちでした。顔を伏せちゃいけなかった。

カインに必要なのは、むきだしの心で神とぶつかることでした。そして「なぜ自分はダメだったのか?」と問うことでした。

姿の見えない神に、なぜですか、なぜですかと投げかけながら、まっすぐ向き合うことです。そして、自分自身としっかり向き合うことです。

それを拒んで心を閉ざした時に、悲劇が起こったのです。



・・・とはいえ、顔を伏せたい時もあるでしょう。人はだれも、内なるカインを抱えています。

主なる神は、そのようなカインをもお見捨てにはならなかったということも、明日また詳しく分かち合いましょう。


共に祈りましょう。

主よ、今日の一日には、思い通りになることも、思うようにならないことも与えられることでしょう。すべて、あなたが与えて下さるものとして、感謝して受け入れることができるような心を、どうか備えてください。わたしはそんなに立派な人間ではないのです。どうか主よ、そのような信仰を与えて下さい。
2017. 04. 25  
おはようございます。今日は朝寝坊してしまいましたので、短く祈りを分かち合いましょう。

日曜日にはⅠペトロ5:1-4の御言葉をいただきました。

「さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。」

教会のリーダーであるペトロが、同じ労苦を負うリーダーたちに勧めています。

主を三度も否んでしまった私のようなダメな者をも、主は召してくださり、群れをゆだねてくださり、用いてくださった。

だから、あなたたちも、自分の貧しさを恥じる必要はない。

そんなことは、イエス様はよくご存知だから・・・。

よくご存じの上で、そのダメなあなたを召してくださったのだから。ゆだねてくださり、用いてくださるのだから・・。

だから私たちは、ただ忠実であろう。主の御心に忠実でありたいと、祈り求めよう。

そういう説教でした。


ひとりの長老が、説教の恵みを分ち合ってくださいました。

自分はどこかで劣等感があって、あの人やあの人のようにできないという思いに縛られていたのかもしれない。

説教を通して、そういうものがほどけていくような思いでした。そして、ただ主に忠実でありたいと、心から思いました、と分かち合ってくださいました。

私にとって何よりもうれしいプレゼントでした。ああ、主は、私を用いて語りかけてくださったのだと、思いました。

そういう感想ばかりではないでしょう。主からのチャレンジに戸惑いを覚えたりなさった方もいたかもしれません。みなさんそれぞれの、主との語らいがありますようにと祈ってます。

明日からは、また創世記の分ち合いをしたいと思ってます。


共に祈りましょう。

主よ、今日もあなたが生きておられる、そのことに私は平安を覚えます。わたしたちに、必要なすべてを備えてください。あなたを信じる喜びも、希望も、あるいは、戸惑いも、苦悩も・・、すべてのタイミングを用いてくださって、ひとりひとりの心を、キリストとひとつになるように整えていってください。
2017. 04. 15  
明日はイースターです。主イエスが死に打ち勝たれ、よみがえられた日です。命の希望が勝利した日です。

今日は、午前中、日曜学校のイースター子ども会があります。子どもたちが、それぞれにお友達を誘って、にぎやかになりそうです。

しかし、そのような時に、北朝鮮とアメリカの軍事的緊張が高まっていることの悲しみを覚えます。

今日、もしも核実験が実行されるならば、とんでもない展開になることもありえます。祈りをあつくしましょう。

どうか主が憐れんでくださり、死ではなく命を求める思いに、みなの心を向けさせてくださいますように。

どうか悲惨な戦争が回避されますように。今、すでにたくさんの人が、中東で、アフリカで死んでいます。

悪をもって悪に報いることしかできない、私たちの罪が、さらなる力を求めています。さらなる死を求めています。それが世界の現実です・・。

しかしああ主よ、どうか主よ、復活の主よ、この世界を死に打ち勝つ命の希望で照らし、ひとりひとりを新しく生まれ変わらせてください。

神のかたちとして創造されたわたしたちが、その尊厳を回復され、あなたを愛し、互いに愛し合うことができるように、作り変えて下さい。

どうかあなたの義によって、すべての悪と闇と死を打ち払い、私と、私たちの世界を、新しくしてください。



来週は、私は韓国に行く予定になっていますので、配信はお休みします。

しかし場合によっては、キャンセルせざるをえないかもしれません。お祈りください。

2017. 04. 14  
今週は受難週として、特別な導きを覚えてきました。今日は金曜日。イエス様がまさに十字架におかかりになった日です。

日曜日には、ルカ23:34の、十字架の上での主の祈りを分かち合いました。

「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』」


今週の私たちの歩みを覚えて、主が祈っていてくださる・・と思うと、胸がいっぱいになります。

愛し合うべき人と、うまく愛し合うことができない、私たちの罪。

悪をもってしか、悪を止めることができない、私たちの罪。



主は、私たちの日常を見つめ、、人類のすべての営みを見つめ、「彼らは何をしているのか知らないのです。父よ、おゆるしください・・・」と、今も、十字架の傷のついた手を組んで、祈っていてくださるのだろうと思います。


共に祈りましょう。

主よ、十字架の主よ、あなたに死んでいただかねばならなかったほどの私たちの罪を、どうかあなたの血で洗い流し、新しく生まれ変わらせてください。
2017. 04. 13  
水曜日の祈祷会では、日本キリスト改革派教会の創立40周年に出された「聖書についての宣言」を読んで、わたしたちにとって聖書とはどういうものなのかを確認しています。

昨日は、旧約聖書も新約聖書も、すべてイエス・キリストを指し示す証言なのだと確認しました。

旧約聖書は、やがて来るイエス・キリストについて書いているのです。

イエス様の十字架の苦しみについても、旧約にはっきりと示されています。

そのように言いますと、ただちに思い出されるのがイザヤ書53章に記された「苦難のしもべの歌」かもしれませんが、それだけではありません。

そういう1つ2つの聖句というよりも、旧約聖書全体が示している神様のお姿が、イエス様の姿と重なるのです。

それは、民の反逆を悲しみ、それを厳しく罰しながらも、なおも憐れまずにはいられず、愛さずにはいられない神様のお姿です。

そして、その罪深い民を決して切り捨てずに、ねばりづよく忍耐し、わがこととして悩み苦しみ、彼らの苦しみを背負いながら、いつまでも救いの手を差し伸べられる神様のお姿です。

旧約聖書を丁寧に読んでいけば、そういう神様のお姿が見えてきます。

たとえばこんな聖句が、旧約全体を読み解くカギになることでしょう。イザヤ書63章8,9節です。

「主は言われた。彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。そして主は彼らの救い主となられた。彼らの苦難を常にご自分の苦難とし、御前に仕えるみ使いによって彼らを救い、愛と憐れみをもって彼らを贖い、昔から常に、彼らを負い、彼らを担ってくださった。」

この神様が、ついにわたしたちの罪深い現実に降りてきてくださって、私たちが負うべき苦しみを自らお受けになられた。それがキリストの十字架の意味です。

この神様が、今もわたしたちの罪深い現実を、憐れみ、悩み、ともに苦しみ、救おうとしていてくださいます。


共に祈りましょう。

主よ、時代の苦悩は深まっていきます。主よ、あなたが悲しみ苦しんでおられることを思います。わたしたちひとりひとりが、自らの罪を見つめ、あなたに立ち帰ることができますように。あなたの忍耐を無駄にしてしまうことがありませんように。
2017. 04. 12  
昨日から一般メディアでも大きく取り上げられるようになりましたが、アメリカが北朝鮮に向けての軍備を進めています。

状況の深刻さはよく分からないところがありますが、北朝鮮の暴発などで、何があってもおかしくないという心配が強くあります。

戦争が回避されるように願う祈りをあつくすると共に、これから先、どのような悲惨が待ち受けていても、罪と闇にのみこまれてしまわないための信仰の覚悟が、私たちに求められています。

そのためにずっと祈ってきた中で、与えられた御言葉は、マタイ24:6とⅠペトロ5:8です。


「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。・・・これらはすべて産みの苦しみの始まりである。(マタイ24:6-8)」

イエス様はこのように予告されました。あなたたちは「産みの苦しみ」を経験せねばならないと。

それは、イエス様が十字架で苦しんだ後に復活の栄光に入られたように、永遠の慰めの完成に至るためにくぐりぬけねばならない苦難です。

神がどのように歴史を導こうとしておられるのか、それは私たちには分かりません。分かるのは、人類の深刻な罪が、いつも邪魔をしているということです。

その罪ゆえに、あらゆる悲しみが生じてきます。

しかし神は、そのような人類の罪深さをも受け入れながら、永遠の慰めの完成に向けての計画を進めていかれます。希望はいつもそこにあります。

神は、だれよりも悲しんでおられます。そして、苦しんでおられます。私たちが苦しむ時に、だれよりも神が、主イエスが苦しんでおられます。それが十字架の苦しみです。

しかしその苦しみは、「産みの苦しみ」です。必ず希望の朝に通じる苦しみです。

だから、「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを悔い尽そうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。・・・しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へと招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。力が世々限りなく神にありますように。アーメン。(Ⅰペトロ5:8-11)」


主よ、十字架の主よ、あなたの憐れみをひたすらに祈ります。すべての国々のために、北朝鮮や韓国の兄弟たちのために祈ります。
2017. 04. 11  
今週は教会の暦では、受難週になります。イエス様が十字架であじわわれた苦しみの意味を思い巡らしながら、Ⅰコリント1章を読んでいました。

「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうが異邦人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。(Ⅰコリント1:23-25)」


聖書の神を信じて歩んできた「ユダヤ人」たちは、この罪の悲惨に満ちた世界になぐさめをもたらす「救い主=メシア」を待ち望んでいました。

しかし、それは決して十字架にかけられるような方であるはずがないと、だれもが思っていました。

十字架は、当時のローマ帝国における極刑であり、最も辱められた死でした。

そして、ユダヤ人にとってはなお特別な意味があります。「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。(申命記21:23)」とあるように、十字架にかけられた死体は「木にかけられた死体」であって、「神に呪われた死体」だと考えられたからです。

だからこそ、イエス様の敵対者たちは、イエス様を十字架にかけることを熱望したのでした。


聖書の神を知らずに歩んでいる「異邦人」にとっても、十字架にかけられた者が救い主であるなどというのは、愚かな話だと思われました。

今は十字架は、きれいなアクセサリーにもなっています。

しかし、当時のローマ社会では、そんなことはありえない。十字架は、誰もが忌み嫌うしるしでした。きっと、子どもがいたずらで、木をクロスさせようものなら、親は血相変えて怒ったことでしょう。

十字架は、決して美しいものではないのです。呪いのしるしでした。

イエス様は、その呪いの死を引き受けてくださって、そこからよみがえってくださいました。その時から、私たちにとっての十字架の意味が変わったのです。



共に祈りましょう。

十字架の主イエス・キリストの父なる神よ、私たちの世界は今も悲しみに満ち、不法がはびこり、心がいよいよ荒んでいきます。しかしあなたが、この病んだ世界に十字架を打ち立ててくださったこと、そこでキリストがすべての呪いを引き受けてくださったことを、改めて覚えています。今日の日、おのれの罪と世の暗闇にのみこまれることなく、十字架の主を見上げて歩むことができますように。助けてください。
2017. 04. 08  
配信を再開して一週間、なんとかペースも戻ってきました。待っていてくださる方がいるのが励みになります。

今日は、埼玉のK姉宅へ長老・執事方と訪問し、礼拝いたします。お祈りください。

土曜日はカルヴァンの祈りを紹介しています。21回目です。

*********
全能の神よ、あなたはあなたの預言者の教えが、彼の死後、幾百星屑、私たちの前に示されることをのぞんでおられることでしょう。

そして私たちが、かたくなにも反抗的にもならないで、まったくふさわしい尊崇と従順とにあって、私たち自身をあなたに従わせることをのぞんでおられることでしょう。

ですから、おお神よ。いにしえの民らが、かたくなで不従順であったゆえに、結局彼らを罪に定めるだけに終わってしまった預言者たちの骨折りを、どうか今日、私たちにとって益あるものとならせてください。

そして、どうか私たちが、忍耐をもって私たちの道のりを果した後に、ついにあなたの御国のうちに一緒に集められるまで、あなたが預言者を通して教えてくださったところによく従うことができますように。

そうして、あなたが私たちを招きたもうた目的に、到達することができるようにしてください。

私たちの主キリストによって、アーメン。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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